第十話
ビブリオシュタットの宿屋は、尖った屋根を持つ背の高い建物だった。
辺りがすっかり暗くなっていたこともあり、細かな造りの質感や色などはわからない。
部屋の数だけあるのであろう、壁面に設けられた多くの窓のいくつかに、柔らかい黄色の光が灯っている。
二人の少女は室外灯の照らす石畳を通り、入口の前に立っていた。
ホテルの入口は重そうな黒檀の扉で、銀色のドアノブとノッカーがついている。ユーディーはノッカーを軽く叩き、小気味の良い音を響かせた。
一呼吸おいて、黒いドアがゆっくりと、静かに開かれた。
品の良い仕立ての洋服を着た、白髪の紳士がそこに立っていた。もちろん彼の白髪は、エファのような先天のものではなく、年齢を重ねて白くなったものである。
「いらっしゃいませ。ようこそお越し下さいました」
落ち着いた聞き取りやすい声で、紳士は少女二人を宿の中へ招き入れた。
「部屋は空いている?」
ロビーを見回しながら、ユーディーは尋ねた。ロビーは決して豪奢ではないが所々に高級感があり、質の良さを感じさせる。革張りのソファーで何人かが本を読んでいるのが見えた。
「はい。本日はどのタイプの部屋にも空きがございます」
「そう、それじゃあ……」
ツインで、とユーディーが言いかけたとき、エファがつないだ手を不意に引いた。
「ん?」
ユーディーが言いかけの言葉を飲み込むと、先程から口数の少なくなっていたエファが、はっきりとした声をあげた。
「ダブルでお願いします」
考えてみれば、昨晩もツインの部屋を取っておきながら、結局ひとつのベッドで寝たのであった。
ついさっき、見知らぬ男に襲われたばかりだ。エファの不安は大きく、今日も一人で眠りたくないのだろう。
「ダブルのお部屋ですね。かしこまりました」
白髪の紳士は二人をフロントへと案内した。
「すみません、ユーディーさん。勝手にダブルの部屋にしてしまって……」
チェックインの手続きをしているユーディーに、エファは謝罪の言葉を述べた。
「どうして謝るんだい? ボクもはじめからダブルで部屋を取るつもりだったんだ」
エファに気をつかわせないために、ユーディーは嘘をついた。それに、彼女の気が少しでも安らぐのであれば、喜んで彼女の隣で床に就く所存だった。
チェックインを済ませてから、二人は白髪の紳士に案内され、部屋のある三階へ向かった。
部屋までの案内を終え、二人の荷物を運び入れると紳士は一礼してフロントへ戻って行った。
「いい部屋だね」
部屋は落ち着いた色使いでまとめられていて、かなりの広さがあった。昨晩泊まったスピンデルドルフの宿には、ベッドの他には小さなナイトテーブルくらいしか置いていなかった。それに比べ、この部屋には大きなクローゼットが壁に据え付けられていたし、部屋の奥、南の窓際には飴色のテーブルと一人掛けの革製ソファーが二脚置かれていた。テーブルは十分な大きさがあり、ソファーはゆったりと座れそうだった。
二人は荷物をクローゼットに仕舞うと、とりあえず窓際まで行ってカーテンを閉めてから、ソファに腰を落ち着けた。
テーブルの上にルームサービスのメニュー表が置かれているのを見て、二人は空腹を思い出した。
「夕食がまだだったね。ルームサービスでいい? それとも外に食べに行こうか?」
ユーディーがメニュー表をめくりながら、エファの希望を聞いた。
「できればルームサービスで……」
あんなことがあった後だから、夜の街に再び出て行きたくないのだろう。エファは部屋での食事を希望した。
「そうだね。ルームサービスにしよう」
ユーディーはメニュー表をそっとエファに渡す。
二人はそれぞれ種類の違う魚料理をメインディッシュに選び、内線で注文した。
二十分程の間をおいて、部屋に料理が届けられた。持ってきたのは、先程の紳士ではなく、若い女性のスタッフで、テーブルメイクもしてくれた。彼女が仕事を終えて出て行くと、二人の前には白い皿にのった美味しそうな料理が並んでいた。
エファは食事中、努めて笑顔だった。それは不安を紛らわすための彼女なりの振る舞いである。それがわかっているだけに、ユーディーも心が痛んだ。しかし、だからといって自分に何ができるのかわからなかった。ただ湿っぽくならないようにいつも通りの食事の場を演出することしかできなかった。
「キミの頼んだムニエルも美味しそうだね」
ユーディーは会話を途切れさせないために、とりあえず料理に話題を向けた。
「ユーディーさんも一口食べてみますか?」
「えっ?」
エファの返しが予想外で、ユーディーは不意をつかれた。
「ちょっとお行儀が悪いですけど、はい、あーん」
そんなユーディーを無視して、エファは小麦粉をまぶして焼かれた白身魚の切り身を一口大に切り分け、フォークに刺して差し出してきた。
「なんだか照れくさいな……」
「誰も見ていませんよ。ほら、早くしないと身が崩れちゃいます」
エファが急かすので、ユーディーは思いきって自分に向けられたフォークの先を口に含んだ。
「ユーディーさん、やっぱり可愛い」
このときのエファの笑顔は、不安を誤摩化すためではない、心からのものだった。
ユーディーはフォークを咥えたまま、少し頬を赤らめた。せっかくの料理の味は、よくわからなかった。
食事を終えて、エファはいくらか落ち着いてきた。食事中のやり取りが、良い方向に作用したようだった。
食後の休憩の後、二人はバスルームへ向かった。
バスルームもかなりの広さがあり、バスタブとは別に、十分な広さの洗い場が確保されている。折角なので、二人は浴槽にお湯を張ることにした。お湯がたまるまでの間、丁寧にお互いの背中を流し、髪を洗った。それから頃合いを見計らって、湯船にゆっくりと浸かった。
長めの入浴を済ませると、寝間着に着替え、早々と二人でベッドに潜り込んだ。
抱き合うようなかたちで、二人は身を寄せ合う。
「少し、お話ししてもいいですか」
ユーディーの胸にエファは額を押し付けた。
「ああ、付き合うよ」
ユーディーは、洗ったばかりのエファの髪を撫でる。シャンプーの香りが鼻をくすぐった。
「私の両親は、戦争で死にました。私が物心つく前の話で、顔も写真でしか知りません。物心ついたときには、いまの養父母が書類上の保護者でした。でも、あの人達は私のことを面倒に思っていたようです。ずっと施設に預けられたままでしたし、実際に会ったことも数える程しかないんです」
ユーディーは、そんな養父母が何故いまになって、それも自分のようなボディガードを雇ってまで、彼女を施設から引き取るのか少々疑問に思ったが、黙って話の続きを聞いた。
「実をいうと、今回養父母の家に引き取られるのも、あまり気乗りはしないんです。施設の方が気が楽ですから。それで気付いたんです。私には本当の意味での家族とか大切な人がいないことに……」
エファの声はわずかに震えていた。
「今日襲われそうになったときも、一瞬脳裏をかすめました。このまま誰とも大切な繋がりを持たずに、死んでいくのかなって……。でも、ユーディーさんが私を助けてくれました」
「それがボクの仕事だからね」
ユーディーはエファの柔らかい髪を指先に巻いた。
「あのとき、すごく怖かったけど……ちょっと嬉しかったんです。本当に危ないときに私を助けてくれる人、初めてでしたから」
エファは一層強く、額をユーディーの大きな胸に押し付ける。
「ユーディーさんにとっては、ただの仕事かもしれません。でも私は、初めて誰かに大切にされている気がしたんです。あのときだけじゃない……ユーディーさんは会ったときからずっと優しかったですし」
エファはユーディーの胸元から、上目遣いで彼女の顔をのぞいた。
「こんな風に思うのは、自意識過剰でバカな考えですかね」
自虐を含んだ笑顔でエファは言った。
「そんなことはないさ」
ユーディーはエファに自虐などしてほしくなかった。前向きでいてほしかった。だから、彼女を肯定した。
「仕事だからじゃない……一人の人間として、ボクはキミを大切にする。エファ、キミを守るよ、必ず」
それは嘘偽りの無い、正直なユーディーの気持ちであった。
「あの……それじゃあ、私も……」
エファの紅い目には透明な雫が浮かんでいた。
「貴女を大切に想っていいですか?」
ユーディーは返答の代わりに、エファを優しく抱きしめた。




