幼女たちとの彼岸 〜後編〜
『幼女の彼岸』
—— 後編 ——
††† ひもろぎ保育園 ヒノキ組 教室・ 十五時三十分 †††
「あのぅ、智ちゃんが、持って帰りましたよ」
結局、柊型の傘の甲斐なく頭から爪先までびしょ濡れのまま、ヒノキ組の教室に駆け入るなり、智の園児用ロッカーの中を覗き込む省子に、栄子は戸締まりを確認しながら、遠慮がちに告げた。
智の絵は、どこにもなかった。
「いつ帰ったのかわかりますか?」
「え〜と、十五時頃ですかねぇ」
ちょうど省子が魔女に遭っていた時間だった。
栄子の説明によれば、今日は低気圧の直撃を懸念した園児たちの保護者たちが早めに仕事を切り上げて迎えにきて、園児たちは十五時頃には全員帰り、すでに保育士たちもほとんどが帰路に就いているという。
「じゃぁ、智ちゃんのママはどんな様子でした? 相当怒ってたとか?」
「いえいえ、智ちゃんのお迎えは来ていないんです」
「え? 来ていないって、誰も?」
「はい。狭山先生が家まで送ると言って」
「先生が、送る…?」
「ええ、実は…」
省子が園を出た後、狭山は智の自宅、自営業を営む三珠家宛に電話をかけたのだという。
髪を切った智の姿を、親御さんがお迎えの際に見るのではショックも大きいだろうからと、前もって電話を一本入れておいたのだった。それに、古株の自分が矢面に立つことで、陥りやすい新担任の責任問題も回避でき、事を丸く収めやすいだろうと判断したうえでの行動だった。
『謝罪に来い』
それが、先方の答えだった。
狭山は、電話越しに何度も平に謝ったが全く聞き入れてもらえず、仕方なく智を連れていっしょに出向いて行ったという。
省子は、自分が懸命になればなるほど空回りをしているように思えた。
事の成り行きは、あまり芳しいとは言えない。保護者の間に広く知れ渡ったり、もしくは保育士についての苦情を受け付ける人権オンブズパーソンに相談がいったり、挙げ句に保育園協会へ持ち上げられたりでもしては、病気から再始動を試みる自分はおろか、何の罪もない狭山の将来をも一切閉ざすことにもなりかねない。
しかし、だからこそ、狭山ならなんとかやってくれると信じようと思った。
「あの人、そこまでする人だっかなぁ…」
「えっ? それって、狭山さんのことですか?」
ククッと布でカーテンを括り終えると、栄子は、首に巻いていた手拭いを省子に渡した。
省子は、有り難く受け取ると、濡れた頭を拭き始めた。
「…省子さん、気に入られてますもんね」
栄子は、おっとり淡々としていたはずの声色に、一瞬で陰を付けた。
省子は、手拭いを持つ手を止め、栄子を見た。
素の顔をしていた。
どんな話が始まるのかまるで予想がつかなくなり、怖くなって謙遜の言葉を返してみた。
「そ、そんなことないと思いますけど…。あの、いつもは違」
「厳しいから! とくに若いのに対しては、もう鬼だから!」
省子の言葉に性急に被せて、栄子は突然堰を切ったように大量の言葉を放出した。
「字が汚い、髪が不潔に見える、親御さんへの言葉遣いが馴れ馴れし過ぎる、もう子供が躾されてるみたいだから!」
「前の人、あの人に毎日毎日追いつめられて、挙げ句に辞めていったし!」
「こう言う私も、けっこう、けぇっこう毎日、家でウィスキー飲みながらしくしく泣いてるんだから!」
「いいなぁ省子さん!」
「いいなぁオキニで!」
「一生、楽だろうなぁ!」
そうなんですか、と答えるしかなかった。
省子は眉を顰め、栄子に聞こえないように小さな溜め息を吐いたが、少しの発散の助けにもならなかった。
そういえば、自分と同じクラスを二人で担任することになる栄子が園内一のお喋り魔であることを、今朝方、狭山から聞かされていた。それと省子より年下だということ以外、特に何も聞かされていなかったので、それ以上のことは別段気にしてもいなかった。
それが、早くもお披露目状態に入ろうとは。
このまま術中に嵌まって身動きがとれなくなる前に、何とか狭山に電話を入れておきたい。
栄子に狭山の携帯番号を尋ねたが、ここは事務室じゃないからわからないと首を振る。それなら栄子自身が行ってくれてもいいものを、面倒なのか狭山を疎むからか、腰を上げる様子は微塵もない。
「そろそろ行かなきゃ…」
省子がおいとまを告げようとした途端、栄子は、世間話をするような口調で話を続けた。
「戻ってきてくれて、嬉しいですぅ」
「え?」
「ごめんなさい、興奮しちゃって。心細いんですもん、私もひよっこですから」
省子は、意図的に足止めを喰らったことに気付いたが、自分より年端の行かぬ、悩める女の子をそのまま置いてけぼりにすることもできなかった。
「前はどこの園だったんですか?」
「なんでそこを辞めたんですか?」
「結婚はしてるんですか?」
「じゃぁ、彼氏はいるんですか?」
栄子が、狭山との関係について何らかの解決の糸口を欲しがっていると思って話に付き合っていたが、違った。
要するに、ただ喋りたかったのだ。
省子は、これ以上聞いてあげる気分になれず、なるべく短く適当に回答してみたが、止む気配がないのを察して、自分から質問をぶつけて形勢逆転を狙った。
「三珠さんの親御さんって、会ったことあります?」
突然の切り返しに、さすがの栄子も少し戸惑ったようだったが、それも束の間、お喋り魔は話題を選ばなかった。
「もちろん! 休みの日以外は毎日普通に見てますよ。朝夕、お迎えにいらっしゃいますから」
これなら、自分のペースに持って行けそうだ。
「ですよねぇ。それで、厳しそうな人なんですか?」
「全っ然! いつもあちらから挨拶してきて、明るくて、服装もおしゃれで。若い保育士の間では人気高いんですよ。憧れのママさんって」
「へぇ〜、キレイな人なんですねぇ。じゃぁ、呼び出しをかけるほど、お子さんのことにはキチンとしている家庭なんですねぇ。誰でも自分の子供は一番ですもんね」
「そうそう、三珠さんって言えば! あ、いけない…」
手を当てて口を閉じさせる場合もあるのかと思って見ていたが、ちらりちらりと視線を送ってくるところをみると、喋りたくて仕方がないのがわかったので、省子は枷を外してあげることにした。
「不倫してるとか?」
「あははは! いやだなぁ、省子さん、そこまでは私も知らないですよぉ。でも、あの奥さん、ほんっとキレイで都会的で垢抜けてるんです! なんですけど…ちょっとこう…なんていうか…」
始めたばかりだというのに自分から閉ざしてしまう、その口の奥に詰め込んであるものに、今度は省子の方が惹かれずにはいられなくなっていた。
「ちょっとこう、どうなんです?」
その一言以外には何も尋ねずとも、栄子は、自分ではなく同僚から聞いた話だが、と前置きして知っている全てを喋った。
智の母親は、一度どこかのスイッチが入ると収拾がつかなくなるらしい、という。
自分の不幸な生い立ちを、仕事中であるにも関わらずに聞いているこちらの都合を一切考えず、時間無制限で語り始めるのだ。
それをお喋り魔の栄子が困り顔で言うのも可笑しかったが、こちらは格が段違いだったようだ。
「乳児の頃の記憶はないが想像もしたくない。保育園には入れてもらえず、家では両親から殴る蹴るの暴力を受け続けた。外に出かければゲームセンターやパチンコ屋に連れられ、気付くと自分だけ残され、帰られてしまうことも毎日だった。小学校にも通わせてもらえず、暴力が怖いから毎日押し入れやベランダに潜んでいた。同じ年端の子らが中学に通う頃、自力で家を抜け出し、逃げ込んだ親戚の家で叔父に犯された。妊娠しては堕ろしてを繰り返した。産婦人科医に侮辱された。薬で5回、リストカットで7回、自殺未遂をした。担当精神科医は6人変わった。それでも自分の家よりまだマシだと思った。ほんとうなら高校生になっている頃、薬の効いた頭でふらり家出した。道で声を掛けてきたスカウトマンに風俗で働かされた。そこで出会った客と結婚した」
栄子は、不幸極まりない他人の生い立ちを、淡々とした口調で一気に喋り尽くした。
「何度も聞いたから覚えちゃったんです。その同僚が言うには、語っている時の奥さんの表情が、どこかからかスポットライトでも浴びているみたいに、なんだか輝いていたみたいだった、って」
そう語る栄子自身の顔も、不謹慎なことにどこか輝いていて、楽しげに見えた。
省子は、塞ぎそうな気分を換えるために、話の最後の部分だけを切り取って返した。
「それが今の旦那さん?」
「う〜ん、どうなんでしょうねぇ、それは」
知らないことには口を噤んだ。興味がなかっただけなのか。しかし、栄子はメインディッシュの後のとっておきのデザートを、頼んでもいないのに耳元に差し入れてくれた。
「そうそう。最初は同僚も、奥さんを不憫に思っていたらしいんだけど、同じ話を何度も聞かされるうちに、まだまだ若手の自分にわざわざ告白してくれたんだと有り難く思うようになったんですって。で、ある時涙を浮かべながら『奥さんには人生勉強をさせてもらって本当に感謝してます。またお話を聞かせてください』って言ったんですって。そしたら奥さん、小さい呟き声で、だけど、しっかり聞こえるように言ったらしいんです」
「なんて…?」
栄子は真顔になり、省子の眼の奥を凝視して囁いた。
「嘘に決まってんだろ…って」
省子は、こういうことを取り越し苦労とは呼ばないと思った。寧ろ表面には見えない、どこかで何かが起こっていて、それがわかりかける切っ掛けになるかも知れないと思った。
「旦那さんとは幸せそう?」
「そこまではなんとも。だって、その家庭家庭でいろいろでしょ。夕飯の時TVをつけるのか・つけないのか、みたいな躾を含めたいろんなルールにしてもそうだし。ご飯の量やおかずの数や種類も、お風呂のお湯の熱さもそう。何が幸せかっていうのも、それと同じことですよ」
「確かにそうね…」
その家庭が成り立っていればそれでいい。幸せは人によっても違う。それは省子にもよくわかる。
しかし、栄子には頷いて見せたが、腑に落ちないのはそこではなかった。
今日初めて会った狭山や栄子、智、喫茶店主、そして初めて聞いた智の母親…。みな、どこかぐらぐらした印象ばかりが残っていた。どれもいい人で、いい子そうだし、それぞれの魅力があるのだと思う。でも、どこかみな、ぐらぐらしている気がした。
そもそも、それぞれのもっと奥深い部分を知っているわけではない。「本当のその人」なんて、まるで見えてはいない。
でも、だからといって、これで長く付き合っていけば、奥底まで知り合えると言えるのだろうか。お互いの良い面・悪い面を補い合って、みな、毎日幸せな関係のままで生きて行けると…。
「本当のその人」なら、立派な子供を産んで、立派に育てて、立派な大人にしてあげられるのだろうか?
今日の自分の〈堕ちそう〉な気分のせいだろうか、無性にぐらぐらする。
ぐらぐらしているのは自分なのか、それとも自分以外の人たちなのか…。
陰り出す省子の横顔に、栄子が知り得ることの最後の一つを、デザートの後の玩具のように付け添えてきた。
「でも、今朝送ってきたのはいつもの奥さんでなくて、お父さんだったなぁ」
省子は、はっと顔を上げて立ち上がった。
††† 同 事務室・ 十五時四十七分 †††
暗い事務室で電気も点けず、省子は自分の机の上の、まだいくつも並んでいないファイルのうちの一つを取り出し、職員名簿から狭山の携帯番号を見つけた。
その番号に、自分の携帯からかけてみた。
呼び出し音が鳴ることもなかった。
車で移動中なため、電源を落としているのかも知れない。もしくは、すでに三珠家に到着していて、怒れる保護者対宥める保育士の退っ引きならない緊張状態に置かれているのかもしれない。
それとも実は、狭山は栄子が言っていたように裏表がある人間で、一歩園の外に出たら他人の振りで、誰からも電話を受けないようにしているのだろうか。
余計な方向に考えが向かいそうなのを止めようと、省子は一つ深呼吸した。
そもそも、今回の不祥事の責任は自分にあり、今はそれを狭山がフォローしてくれている。智の両親に謝罪すべきなのは、本来この自分なのだ。
どう動くべきか。
省子は自分に決定を下した。
事務室奥の壁面に陳列された資料棚に眼をやる。資料棚には、『園児名簿』と黒文字で印字されたプレートがかかっていた。
名簿は、園児が入園の際に保護者に提出してもらうことになっていることは、新担任としてクラスを受け持った省子でも説明を受けて知っていた。
省子は、棚から自分の担任クラス『ヒノキ組』のファイルを手にとり、自分の机の上で開いた。両面印刷された藁半紙を一枚一枚手早く捲り、三珠智のページを探し出した。
人差し指を、ページの上から下へと拾い読みをするように素早くジグザグに這わせ、電話番号欄で止めた。
三珠家の自宅番号。自分の携帯を握りそこへかけた。
…不通。
次に父親の携帯番号へかけた。
…不通。
そして、母親の携帯番号へかけた…。
††† 蛇嵩山 防空壕跡・ 十五時四十八分 †††
その震えが、雨に打たれ続けて起きたものなのか、それとも見てはいけないものを見てしまったために起きたのか、よくわからなくなっていた。
もう、どちらでもよかった。
気が遠のきそうだった。
途切れ途切れで、するのがやっとの小さな息でも、できているだけまだましだった。
足を動かそう。
下半身へ、腿へ、膝へ、踝へ、指先へ。
逐一、身体の些細なところに向かって、あまり動いてはくれない頭の芯から、それでもはっきり言葉をもって一つ一つ命令してやるしかなかった。
ここを出なきゃ。
雅哉もそれは同じだった。
土砂降りの雨に打たれる、止めどなく続く草の鋭利な側面が、脛や二の腕や頬を、剃刀を無茶苦茶に振り下ろすように斬りつけてくるのを、そのまま受けながら二人は無言で歩いた。
「ドン!ドン!ドン!ドン!」
突然、二人の背後で音が鳴った。
辺りに似つかわしくない激しい四つ打ちのビートが、けたたましく鳴り響いた。
「うわーッ!」
雅哉は、振り返りもせず、両手で頭を抱えて、首を竦めたまま駆け出した。
里美は立ち止まり、恐る恐る振り返った。
音は、穴蔵の方から聞こえていた。
「あの人、誰なんだろぅ…」
音はピタリと止んだ。
その周辺では、光る玉を取り囲んで、無数の黒い蝶が踊り狂っていた。
その時、
ブルルルルルルルル!
腰に波打つような振動が走った。
瞬間、全身が硬直し、心臓の脈打つ音が耳元で鳴っているかのように大きく聞こえた。
自分の携帯のバイブだった。
里美は、ポケットから携帯を取り出し振動を止めた。
液晶画面の黄緑色のアイコンが、メールの着信を知らせていた。
『飲み会、遅い時間になるかも』
省子だった。本文には『三珠家に行ってみます』とあった。
「三珠…。そうか、その子は三珠智ちゃんっていうんだ」
里美は、省子の携帯番号をプッシュしようとして、手を止めた。
「えっ? …み、三珠…?」
なぜかはわからないが、何かよくない事が起きているような気がして、里美はいま自分が見たこと、聞いてきたことをすべて、ありのままに省子に直接伝えたいと思った。
††† ひもろぎ保育園 事務室・ 十五時五十六分 †††
省子は、開いたままのファイルを荒々しく掴んで、狭い事務室内の反対側の壁際へと走った。三珠家のページを人差し指で辿り、地図を指差して確認すると裏返し、勢い良くコピー機の蓋を開けて、原稿読み取り用のガラスに叩き付けた。
コピーボタンを押したが、作動しなかった。
手元のスイッチをONにしてみても操作用の液晶画面は、暗く何も映さないままだった。
プラグがコンセントに入っていないんだ。
プラグを入れてから機械が温まるまでの時間を考えると、文明の利器にいくらでも腹を立ててやれそうだった。
ブルルルル!
机の上の省子の携帯がバイブ音を発したが、省子はコピー機の裏側に回ろうと、ゆったりと空いたコピー機と壁との間に、足を一歩踏み出していた。
見ると、壁のコンセントの穴が片側一つしか見えなかった。ほかの穴には、ブルーシートの掛かった荷物が隙間無くピタリと寄りかかっていた。
これがプラグの抜けた原因だ。
コードを眼で辿ると、プラグは荷物の下敷きになっているのがわかった。
いつの間にか、耳に届いていた携帯のバイブ音が聞こえなくなっていた。
プラグを拾おうと、荷物の下に手を入れかけた瞬間、眼の前が一瞬の閃光に白んだ。
突然の稲光に当てられた刹那、少し荷物がゆらめいた、ような気がした。
カメラのフラッシュを至近で直視したかのように何も見えない。思わず両眼を抑えて、コピー機に身体を凭れた。
その直後、背中に何か冷たい気配を感じて、反射的に部屋の入口の方向へ振り向いた。
何も居ない。
いや、入口ではなく省子の席に、それは居た。
机の天板面からぬうっと頭を出した黒い半球の塊が、一つ、瞬きをした。
「クケ…」
前髪をギザギザに斬り落とした人形が、嗤っていた。
ゴルゴルゴルゴル…!
稲光とは随分と遅れてきた雷鳴が、今になって低く轟いた。
省子は心臓が潰れそうなほど驚いたが、それどころではなかった。
「智ちゃん!」
勢いでファイルを落としたのも気にせず、真っ直ぐ智の元へ駆け寄った。
††† 蛇嵩山 薮・十六時 †††
呼び出し音は鳴ったはずだが、省子は出なかった。
里美が携帯をポケットに仕舞って顔を上げると、6号線が見えた。
車がない。
当然、雅哉の姿も見当たらなかった。
「あいつ…」
警察に連絡しようか。
いや、警察へは、雅哉がきっと慌てふためいた口調で、すぐに通報したに違いない。
では、警察がやってくるのをここで待とうか。
いや、今はそれより省子だ。警察が来て事情聴取とやらに捕まれば、いつ終えさせてくれるかわからず、省子へ知らせることが刻一刻と遅くなる。
それでは何かが間に合わない。
何か自分にできるはずのことが間に合わない。
逸る焦燥感に潰されそうだった。
耐えきれず逃げ出すように、里美は省子へ再び電話をかけた。
背後からは、黒い蝶の群れがこちらへ近付いていた。
††† ひもろぎ保育園 事務室・ 十六時五分 †††
「どうして、こんなところに居るの? 狭山先生と一緒じゃなかったの? お家へは行ったの?」
省子本人も意識せずに口をついて出た立て続けの質問に、相手の三歳児は対応仕切れないようでキョトンとしたままだった。
「は、ははは…。先生、また智ちゃんに、一度にたくさんお話しちゃったね」
緊張の糸が一気に解れたのか、自嘲気味ではあるが、思いのほか笑みが溢れた。
「くふふ…」
そんな省子が可笑しかったのか、智は、どこか不器用ながらも両方の口角を吊り上げて笑ってみせた。
形はどうあれ、表情の奥にあるものが表に出てきている。屈託のない笑顔とは、こういうものなんだ。
ほら。
ほら見て。
この子だって、ほかの子たちのように笑えるんだ。
省子は嬉しくて仕方がなかった。この感情を、一番に誰に伝えたいだろう。今日の自分を支えてくれた狭山か、里美か、栄子か、魔女か。それともいまは此処には居ない…。
「お絵描きね、あいがとぉ」
あまり得意ではないのだろう、ほかの園児たちが毎日頻繁に口にする極ありがちな謝辞を、智はやっとの思いで告げた。
「いいえ、どういたしまして」
省子は、真摯に受けとめ深くお辞儀をした。
すると、智も省子を真似てお辞儀をした。上手く動かせず、首から上だけで頷くような格好になった。
「ふふふふふ」
「ふふふふふ」
思わず、二人は笑い合った。
「人ぢゃなくて死んだ人だよ」
「…え?」
おそらく今朝の教室内のやり取りの続きを、智は始めていた。クィと上を向いた口の両端に笑顔の余韻を残した、省子の知っている智にしては柔らかい表情だった。
省子は、唐突な話題に驚きはしたが、智の表情と、智が自分から話をしたがっている態度を尊重することにした。そうすることで、いずれ自分が聞きたい話を聞くことができるはずだとも思った。
「死んだ人ってわかるの、智ちゃん…?」
「うごかないの」
「そうだね」
「レーローコみたい、ひえひえ」
「そうだね。冷蔵庫みたいにね、冷たくなるよね」
「お山、た〜くさんね、死んだ人ぉ」
たくさんの死人。
それは一体、どういうことなのだろう。
蛇嵩山に死人が大勢捨てられているわけもない。確かに昔から良からぬ噂はあるが、真相は大人の自分でさえわからないし、そこまで込み入った話を三歳児が理解しているとも思えない。
「ぴかぴかいる、ぴかぴかいるね」
「…えっ?」
「死んだ人ぉ、ふわふわ〜って。た〜くさん、ふわふわ〜って」
ぞっとした。
ぴかぴかとは、何だろう。
眼に見える何らかの実体をもっている、ということ?
生きている人間とは違う見え方で、そこに居るということだろうか。
それがふわふわ浮いている…。
「ちょうちょもいっしょ、た〜くさんね」
省子は、不可思議な光景を想像した。
山の中で、ぼんやり形を結んだ死人の亡霊が大勢、たくさんの蝶とともに中空を浮いている様…。
通常の子供が想像し得る枠を遥かに超えている。それにしては語られる事象があまりにも具体的過ぎる。
そう解釈していながら、それでも単なる子供の思いつきに過ぎないと、自分に言い聞かせているところがすでに、事の大部分を認めていることの証拠だとも思える。
それが余計に怖かった。
「智ちゃん、見えるの? …そういうの、見えちゃうの?」
声が震えていた。
「うん、みえちゃう。そこにもいる」
「えっ…!」
省子は、智が指差した、自分の右肩の少し上を、思わず振り向いた。
…何も居なかった。
ほっとして向き直ると、人形が、省子の机の上に座っていた。
「クケ…」
体育座りをして、乾いた木片のような眼で、省子が怯えるのをじぃっと見ていた。
††† 県道6号線 蛇嵩山方面・ 十六時十二分 †††
激しく暗い雨空の下、頭上を黒蝶に覆われゆく中、里美はびしょぬれでアスファルトに立ち、ダイヤルをプッシュした。
††† ひもろぎ保育園 事務室・ 十六時十三分 †††
トゥルルルルルル!
事務室の備え付けの電話機が鳴り響き、お陰で省子は我に返った。
そして目の前の邪悪な人形を見つめると、祈るような思いで念じた。
だめ。
そっちはだめ。
そっちへ行ってはだめ。
智ちゃん、こっちへ、こっちへ戻って。
ゴズッ…。
背後で大きな物音がして祈りは妨げられた。
それが一体何だったのか。恐怖心が生んだ単なる錯覚だと思いたい。しかし、確認しようにももう一度自分の背後を振り返ることは、省子にはすでにできなくなっていた。
頭蓋に貼り付いた蜘蛛の巣を振り払うように、何か縋れるものを探そうと、省子は話の流れを変えることにした。
「智ちゃん、せっかく素敵な絵を描いたんだから、お家の人に見せに行こうか」
人形は、表情を一瞬で取り戻し、小刻みに頷いてみせた。
省子は、智の手を取り、瞳のずっと奥底を見つめて微笑んだ。
絵を描くことは、智にとって、思いのほか大切なことなのかも知れない。
それを周りに居る大人が、しっかりと見守ってあげないといけないのだ。
その責任は自分がとる。自分には、親御さんに会ってそれをきちんとした態度と言葉をもって示してやる義務がある。そうして、この子の未来を少しでも明るいものに変えてあげるのだ。
この子を〈堕とすもの〉から、守ってあげるのだ。
狭山が子供を放っておくとは思えなかったが、もう時刻も遅く雨脚も激しくなってきている。後で報告をすればいい。あれだけ自分に親身に接してくれるベテランだ。その胸をもう一度借りよう。
「先生が、送ってあげる」
省子は、床に置いてあった自分のバッグの紐を腕に通して持ち、机の上に座る智を抱き上げた。
そして、智の尻の下に、自分の携帯が取り残されていたことに気付かず、手早く事務室を後にした。
††† 県道6号線 蛇嵩山方面・ 十六時二十二分 †††
「えっ? 今まで居た?」
里美は電話を切った。
先ほど省子から受けたメールには、『三珠家に行ってみます』とあった。
それなのに、省子の同僚の栄子は、省子は今まで園に残っていたという。
ならば、なぜ自分の電話に出なかったのだろう。
呼び出し音が一度鳴った時は、ブツッという音がして途切れた。
すぐに掛け直したが不通になっていた。
それから今まで、呼び出し音を鳴らすこともできなくなっている。
里美は考えを巡らせた。
電話に出なかったのではなかったとしたら?
そう、出られなかったとしたら?
自分だけではない。省子の身にも何かが起きている。
もたもたしてはいられない。
里美は、人気の無い闇の中をどこまでも延びる6号線を遮二無二走った。
黒蝶の群れは、激しい雨と風に打たれながらも翅を羽ばたかせ、里美の後を追うように飛んだ。
里美は、走りながら電話をかけた。
††† 南じゃこう保育園 事務室・ 十六時二十六分 †††
事務室に残っていた若手保育士が受話器をとった。
「もしもし、南じゃこう保育園、北沢です」
北沢は、受話器の向こうの相手が失踪同然となっている里美と知って、急に小声になった。
「里美先生、何があったんですか? お辞めになったんじゃないかって、ほかの先生たちの噂になってますよ」
「あぁ、あなた確か新人の子だっけ? そこ、ほかに誰かいる?」
「いいえ、皆さんもう帰ったり、担任クラスへ行ったりしていて、いまは私一人ですけど」
「なら、ちょうど良かった。ちょっと頼まれてくれない? これ、大急ぎ、なんだよね」
北沢は、その真に迫った声色を聞き、噂の真相を尋ねることをそっちのけにして、先輩の緊急要請に応えることが先決だと判断した。
「あ、は、はい、私でできることなら。で、何ですか?」
「園児名簿ってあるでしょ。私のクラスの、どこかな?」
北沢は、受話器を耳と肩の間に挟んで、大きなグレーの棚の前へ移動し、『名簿』と手作りプレートが貼られた引出しを開けた。
「えっと、…何組だったですか?」
「『きく組』よ。その中から探してくれる? 『三珠』っていう名前」
北沢は、二百はあるファイルを素早く見渡すと、『きく』の束、およそ二十の用紙の中から手早くお目当てを引き当てて中を開いた。
「ありましたよ、三珠!」
「できるね、北沢。電話番号教えてくれる?」
「02…」
言われるままに電話番号の記入欄を読み上げかけ、北沢は言い詰まった。里美の物言いに流されそうだったが、解雇であれ自主退園であれ奇しくも園を出て行った人間に、果たして園児の個人情報を漏らして良いものか、と思い至ったのだった。
そのことを計算に入れていた里美は、あえて同じ調子で続けた。
「家の近く、何かあったっけ?」
北沢の眼は、思わず地図欄を見ていた。
手書きにしては定規を使って、丁寧に描かれたマジックペンのライン。
指で、保育園と書かれた場所からくねった道をなぞり、自宅と書かれた地点で止めた。
「そう、あなたに責任はないよ。ただ、そこに見たものを口にするだけなんだから」
自宅へ続く路地と幹線道路の交差点には、目印となる四角い印が記載されていた。
「…たばこ屋…さん」
「ありがと」
北沢の耳には、携帯が切られた音が聞こえてきた。北沢は受話器を戻して椅子に座り、一つ大きな溜め息を吐いた。
††† 県道6号線 蛇嵩山方面・ 十六時三十一分 †††
雨と風は急に激しくなり、視界に入る限り6号線は、一瞬にして渦を巻く闇になっていた。
沿道の用水路は飛沫を上げて溢れ返り、植樹されている木々は一斉に弓のように撓り、もげて倒れ、どこからか飛んで来たバス停の椅子や琺瑯看板がアスファルトに叩き付けられて回った。
混沌の闇を、里美は、地面に這い蹲るように進んだ。
その上を、黒蝶の群れは飛び、里美を追い越して行った。
里美は、省子の携帯にもう一度かけたが、相変わらず不通のままだった。
しかし、算段はついた。
生まれてこの方、一度も離れたことのない土地だ。どこへ行っても庭には変わりない。
『南じゃこう保育園』に通える範囲内で現在も営業しているたばこ屋は二軒。以前、三珠親子が退園していく姿を見て帰る方角を覚えていたことから、そのうち簡単に一件に絞り込めた。県道6号線沿いにあるたばこ屋。そこから路地へ入り、小高い山の斜面を上れば民家は三軒。そのうちのどれかだ。つまり、確立は三分の一。斜面を上りながら下から一軒ずつ潰して回ったとしても、お目当てに辿り着くのに、そう時間は掛からないだろう。
これでいける。
風雨が弱まった。
里美は、再び立ち上がり、走り出した。
その時、里美の背中を、雨に滲んで大きく拡がるような光が照らし、光の中から声がした。
「乗ってっ…!」
††† 県道6号線 ひもろぎ保育園付近・ 十六時三十五分 †††
姦しいサイレンの音に耳を圧し付けられた後、大きな赤い光に照射てられ、眼が眩んだ。
私が見ていない時、あの子はどんな顔をしているのだろう。
いま少し屈み気味で手を繋いでいる、自分の腿ほどの背丈のあの子も、果たして自分と同じように眩しそうな表情をしているのだろうか。
何度か瞬きを繰り返して、やっと通常の視界を取り戻せた時に、私が手を繋いでいるのが、あの人形だったらどうしようか。
そうしたら、私は悲鳴を挙げてこの土砂降りの路上で小さな手を放り出し、小さな躯をその場に置き捨てて逃げ出してしまうだろうか。
「ピクニックへは、パパもママも行ったの?」
不安な予感に丸呑みにされてしまう前に、縋れる言葉を口走っていた。
「うん」
その、張りつめてはいない声を聞いて、ゆっくり眼を開けてみた。
それまでと同じ智がいた。
わずか三歳の子供を、こんなにも私は畏れている…。
もう瞬きすらしたくないと思った。
高台にある『ひもろぎ保育園』に沿って坂道を下りていた。
排水用の側溝からは、雨水の波がうねり出し、アスファルトへ溢れ出していた。
水浸しのせいで車道と歩道の区切りが曖昧になった道の端を、吹き飛ばされそうな一つ傘の下、省子と智は手をつないで歩いていた。
擦れ違った救急車はもう見えなくなっていたが、家路へ急ぐ車のハイビームのヘッドライトも、雨水で濡れた路面からの反射も、もうこれ以上眼に入れたくはなかった。
それまで周囲の斜面に所狭しと立ち並んでいた団地が一段落すると、県道6号線にぶつかった。
幸いにも6号線には車通りがほとんどなかったが、反面、住宅街と違って両側に建物もほとんどないため、吹き曝しになった。
「ダッコしよっか」
子供に恐怖心を与えないよう、省子は智を包むように抱きかかえた。傘の柄を、二人で握った。
「お弁当を持って行ったの?」
「うん。パパつくったの」
「あら、そうなんだ。パパ、お休みの日にお料理してくれたんだ」
先入観が揺らいだ。
父親が狭山を呼びつけたのは、親としての当然の態度だったのか。
そう思い、傘の柄を握る智の手首の傷跡をまじまじと見直してみると、あまり深い傷ではないようにも思えてきた。やはり自分で引っ掻いたのかも知れない。思い過ごし、ということなのだろうか。
「パパね、食べちゃったの」
「お弁当、食べたんだよね、みんなでね」
「ううん、トモのおべんと、食べちゃったの。おにくのまま、あーん」
「ふふ。智ちゃん、智ちゃんのお弁当のお肉をパパのお口にア〜ンしてあげたんだね」
智は答えなかった。
解釈がどこか間違っていたのだろうか。省子は話を切り替えた。
「お山でピクニックしたのは、夜だったの?」
「そうね、まっくろね」
「ねぇ〜真っ暗だったでしょ。でも、どうしてみんなで夜に行ったの?」
「おからづけ、って」
「おから…。ああ、お片付けね?」
「そう、パパ、いらないもの、おからづけねっていったの、きちんとねって」
山中に古い家電やタイヤが捨てられていたのを、子供の頃に見たことがあったが、最近は不法投棄の話は聞かない。それに、仮に何かの理由から夜出向くことになっても、お弁当を持ってはいかないだろう。
「なにを片付けたの?」
「ままぁ」
「えっ…?」
智の指は、道路を挟んだ反対側の小高い山の上を差していた。
「ああ、あそこね。あそこにママが居るのね。智ちゃんのお家、もうちょっとだ、がんばろっ」
省子の視線は、6号線から続く坂道を上へ上へと蛇行しながら辿り、斜面に上下に立ち並ぶ三軒の民家うち、一番下にある築四十年は経っているであろう古い木造の一軒家を捉えた。
「電気が点いてるね。お夕飯の用意をしてくれてるのかな」
家の上空には、家を覆うように何か黒い塊が犇めいていた。
††† 三珠家・ 十六時五十四分 †††
ゴンゴン。
軽くノックをすると、ぎぎぎと鈍い蝶番の音が響いて木のドアが開いた。
ドアの向こう、黒ずんだモルタルのような三和土に、薄汚れた小さな裸足の足が見えた。
おかっぱ頭の市松人形が立っていた。
「あら、もう帰ってたのね」
里美は、土砂降りの雨を頭からシューズの先まで全身にたっぷり吸い込んだ体と、一瞬前までの強張った表情を、笑顔と軽い口調で押し通して誤魔化すほかなかった。
「あるいてきた…」
人形は少しだけ開いた口の間から、ぼそぼそと言葉を零した。
「あらそうなの? でも一人でじゃないでしょ? パパがお迎えしてくれたんだよね?」
「もう、…ぱぱ…ぢゃない…」
里美は、奇妙な不安に取り込まれそうになったが、それよりもいち早く果たさねばならない決着を急ぎ、部屋の中を覗き込むような仕草をしてみせた。
「パパ、居るかな。直井っていう人来なかった? 直井省子さんっていう人」
人形は、里美の素振りに圧されて、一度部屋の奥の方を窺うとこちらに向き直った。
そして、里美をじっと見つめ返したまま会釈の類い一つもせず、歳に似合わない低い声で呟いた。
「…どうぢょ」
「ありがと、失礼しまっす」
里美は、一度後ろを振り返ると、坂道で待たせていた車に、頷いて合図をした。
車が、それでもなかなか発車せずそこに居続けているので、里美は向き直り、五十センチ四方ほどの三和土の端に、雨水を吸ったシューズを脱いで裸足になった。
そして、ほとんど段差もなく続く畳の居間へと上がった。
一歩進むと、身体から滴る水で大きな足跡ができ、所々ささくれ立つ、油っぽく黄ばんだ畳がいっそう不純物を吸い込んで、ずぶりと沈んだように見えた。
畳を濡らさないよう踵を上げ爪先立ちで、中へ一歩一歩進んだ。
どこか甘ったるいような匂いが部屋じゅうに漂っていて、進む度に鼻の奥に纏わりついてきて咽せそうになった。
トントントンと、部屋の奥、左側から、包丁が俎板を叩く音が聞こえた。
台所に、黒髪を腰まで伸ばした大人の後ろ姿があった。
背中には、布を銀色の針金で継ぎ接ぎして手作りしたおんぶ紐を背負っていた。
背中とおんぶ紐の間から、小さな腕と足が二本ずつ、だらりとはみ出していた。
野菜か何かを切って夕食の準備をしているようだった。匂いは、煮物をしているためだった。
「あっ、お母さん、こんにちはぁ〜」
里美がその背中に声をかけると、トントンという音が止まった。
「すみません、突然お邪魔しちゃいまして。私、保育園で、娘さんの担任をしています上原里美といいまして…」
言い終える前に、言葉が詰まった。
視界の隅に光るものが映っていた。
身体を動かさず、眼だけでそちらを見た。
左側の薄いベニア製の壁。数本の釘を打ち付けただけのフックに、巨大な鋏が掛かっていた。
園芸用の狩込鋏。
背の高い木の枝の剪定に必要な二メートルの長身。その八割方が木製の柄で、二割を占める鋏には鋭い刃が付いている。
里美の沈黙に、張り詰めた空気を察したのか、長い黒髪が振り返った。
センター分けにした長い前髪の左右を赤いピンで留めているその顔は、髭面の中年男だった。
「ひっ…!」
全身が総毛立ち、背筋に悪寒が走った。
男の両眼は白眼を剥き、もぞもぞと動く口角からは何か黒い昆虫の翅と脚のようなものが幾つもはみ出し、その隙間から垂れ下がった涎は橙色の粘着質の糸を引き、首に巻いた包帯は、内側から滲み出す血で真っ赤に染まっていた。
ブルルルルル!
里美の尻ポケットに突っ込んであった携帯のバイブ音が鳴った。
女装の男は、右手に包丁を持ち、左手に赤黒い得体の知れない死肉のスライスをぶら下げたまま、首を少し傾けた。
里美は、両掌で口を覆い、荒くなりそうな息を圧して顰めながら、足を一歩後ろへ引いた。
誰が鳴らしているのだろう?
省子にはさんざんかけたが、不通だったからコールバックしてくるはずがない。保育園の真澄や北沢は、自分をよくは思っていないだろうから違うだろう。ましてや最後にこれっぽちの情も見せなかった園長でもあるまい。
雅哉だろうか?
雅哉がいまこの場所に居ないことは正解だったが、自分一人でここに居ることには後悔していた。
しかし、後戻りできなくなっていたのは、とうの昔のからだった。
いまやっと、そのことに気付いた。
††† 県道6号線 蛇嵩山付近・ 十七時二分 †††
「里美? 俺だよ。思い出した。あの時は気が動転していたし、見た目も酷い状態だったからピンと来なかったけど、思い出したんだ。半年前、俺、店で客と言い合いになったことがあったんだ。カウンターで一人寂しく飲んでるのを見兼ねて、話を聞いてやったら、ど偉い身の上話が延々二時間。で、俺も多少の下心もあったからさ、金を工面してやったら、挙げ句に全部『嘘に決まってんだろ』って…。あんた、それ詐欺だよって言ってやったんだ。そしたらそいつ、店のもん滅茶苦茶にぶっ壊して。警察が来たら、今度は急に乱暴されたとか言って被害者ヅラして俺を突き出しやがった。帰り際、俺の顔見て嗤ってた。嗤ってたんだよ、あの女が。間違いない、…あの首の女だよ。人を散々抱き込んで振り回しといてから平気で嘘吐きやがって。…一体なんなんだろうな。あんな目に遭うって、また何かやらかしたのかな…。あ、あと、あの…それから、もう一つ」
ピーッ。
留守電の上限時間がきた。
フロントが拉げた車の中で、雅哉は里美の携帯に一頻りを告げた。
しかし、一番言いたかったことを言い切れず、もう一度里美の番号をプッシュした。
††† 三珠家・ 十七時三分 †††
「お、お父さん…」
里美は、眼前の正気を逸した女装男の耳に、何とか人間らしい言葉を捩じ込もうと思った。
「お父さん、ですか? お父さんですね…?」
女装男は、またほんの少し首を傾げた後、全身の動きを止めた。
「き、今日はたいへんな雨の中、お子さんのお迎え、ご苦労さまでした…」
女装男は、何の反応もせず、ただそこに立っていた。
里美は、動けなくなった。
何も言葉が出てこなくなった。
足の感覚が無くなり、唇の感覚も無くなっていた。
この全身の感覚を麻痺させる緊張感が、どこまでも永遠に続くような気がすると、頭がぼんやりしてきた。
時折取り戻される意識の中で、わずかに脳裏を働かせ、この家から出ることだけを思い浮かべた。
左後ろ側に数歩いけば、玄関のはずだ。
ほんの少し。
何とかなる。
頭が戻ってきた。
その瞬間。
ブルルルルルル!
尻ポケットの携帯が、再び震えて呼び出しを知らせた。
里美は、これ以上の緊張感が降り掛かると思うと耐えきれず、携帯に手を伸ばした。
同時に、女装男が、花柄のワンピースから毛深く野太い脚を剥き出しにしながら、大股の摺り足で素早く里美に近づいた。
顔が、息がかかるほど迫った。
「ここ、に、相応しいか?」
「…え?」
何を言っているのかわからなかった。
「いま、相応しいのか?」
何を返せばいいのかわからなかった。
「キャァッ…!」
里美は思わず、振り向いて駆け出した。
瞬間、足元にピンと張られた赤い紐に躓いた。
リンリン。
紐に括り付けられていた鈴が鳴った。
勢い余ってそのまま身体ごと倒れながら、里美の眼は、所々で鈍い光をちらつかせる畳の表面に釘付けになった。
身体が畳に触れる直前で、それが何かわかった。
畳を抉って開けられた数十という穴に、握る柄の部分を刺し込んだ掌ほどの輪鋏が、穴と同じ数だけ揃って、刃を上にして待ち構えていた。
††† たばこ屋前・ 十七時九分 †††
ビシャ!
液体を撒き散らす大きな音が聞こえたと同時に、身体に湿った重みがのしかかった。
白いパンツスーツから白いシャツに架けて、黒いシミが無数に踊っていた。
水溜まりの泥水だった。
智の頭上から傘が離れないように、車が通り過ぎる方向へ振り向くと、運転手の横顔が見えた。
その眼は焦点を得ず、どこか遠い一点をぼんやり見つめ、その口は顎の筋力を失ったようにだらりと開けられたままだった。
たばこ屋の前のT字路を一時停止もせず、6号線へと折れていった。
赤いテールランプは、見る見る小さくなり、遠ざかっていった。
タクシーだった。かなりのスピードが出ていた。
何か亡霊でも見たら、あんな風になるのだろうか。
そういえば、自分たちも電話してタクシーを呼べば良かっただろうか。
でもこの場合、大げさになってはいけない。なるべく公にならない手段で、内々に事を済ませるべきなのだ。
だから、これでいい。
園で園児を散歩に連れて行く延長のように、歩いて送ってあげるのが一番なのだ。
††† 県道6号線 蛇嵩山付近・ 十七時十二分 †††
雅哉は、繋がらなかった携帯をぎゅっと握りしめてから、放り投げた。
助手席のシートに転がった携帯に向かって、呟いた。
「それから、もう一つ。…さっきは、ごめんな」
短く溜め息を吐き、雅哉はゆっくり車を出した。
††† 三珠家・ 十七時十四分 †††
ゴンゴン。
省子がノックをしても、古い木のドアは開けられなかった。
智は気にせず、ドアノブをぶら下がるように両手を掛けて回すと、自分でドアを押し開けた。
中から、ムッとする甘い匂いと鉄錆のような重い匂いが、混ぜこぜになって漂ってきた。
一瞬で気分が悪くなり、ふらつきそうになったが、智は平気なのか、素早く奥へと駆け入っていった。
「あのぅ、こんにち…」
言いかけて省子は、息を呑んだ。
三和土に入らずとも、ほぼ地続きの居間で行われている惨劇が見通せた。
「お片づけ、要らないもの、お片づけ…」
女装の髭面の中年男が白眼を剥き、橙色の涎と泡の粒を撒き散らし、おんぶ紐を右に左にお構いなく揺らしながら、馬乗りになった女性の背中に、両方の拳を振り上げては振り下ろし、何度も殴打していた。
女性は、畳に身体を俯して成されるがままで、顔も乱れた髪に隠れているせいか、生きているのかすらわからなかった。
「お片づけ、きちんと、お片るれぁ…!」
勢い余って、女装男の口から、噛み潰された黒いものが、涎に塗れて零れ落ちた。
蝶の残骸だった。
「と、智ちゃん…!」
省子は、この現場に先に入っていった智が巻き込まれる危険を怖れ、智の名を呼んだ。
「こ、こ、相応しいか?」
「…え?」
省子に気付いた女装男が、女性を殴る拳を止め、静かに尋ねた。
「い、ま、相応しいのか?」
省子は、ゆっくりと一歩、三和土へ足を踏み入れた。
「…はい、そう思ってやってきました」
瞬間、女装男が真顔になり、怒号を放った。
「来るなぁっ! こっちへ来るなぁっ!」
「はっ…?」
嫌にはっきりした既視感が、省子を襲った。
その台詞を聞いて、しかし引き下がる訳にはいかなかった。
今度こそ、その言葉には従うものか。
今度こそ、自分のせいで人が不幸になってはいけない。
今度こそ、私は眼の前の命を助けるんだ。
三和土を踏み締め、居間の畳に踏み入れようとした。
その時、省子の右足の爪先が、三和土の隅に脱ぎ捨てられていたびしょ濡れのシューズに躓いた。
三和土から三センチほどの上がり框に脛を打ち付け、省子は、居間の入口に張られた赤い紐に身体ごと覆い被さるように倒れた。
リンリン。
紐に括られた鈴が鳴った。
省子は、そのまま平らな畳に激しく叩き付けられ、俯した。
倒れる前、反射的に顔を背けたお陰で、鼻は免れたが、左頬骨と左顳かみを畳に横殴りされた。
痛みに顔を歪めながらふと送った目線のすぐ眼と鼻の先に、眼球を切り裂かんばかりに鋭く研がれた和鋏の刃が一対、畳から突き出ていた。
短く安堵の溜め息を漏らした矢先、その向こう、一枚隣の畳に俯した女性の顔を見た。
どこか見覚えがあった。
「そ、そんな…」
気付かなければよかった。
自分のために手を尽くしてくれている人が、唯一無二の親友が、眼の前で、畳から突き出た数十もの和鋏の刃に、肉体じゅうを穿たれて倒れていた。
足の甲、脹脛の側面、太腿、脇腹、胸、二の腕、掌、頬、額、そして眼球…。刃はそのほとんどを、肉体の奥まで埋め込ませていた。
肉体は、刃が入り切らなかった全ての和鋏の根元の分、一センチほどだけ畳から浮いていた。
身体中に開いた穴の一つ一つから、真っ赤な血が流れ出て、和鋏の柄を伝い、抉られた畳の穴に滴ると、畳はその内側から表面へと黒い染みを滲み出させていった。
「さ、…里美…」
なぜ、いま、ここに、この人が居るのだろう。
なぜ、こんな姿で居るのだろう。
眼の前で血を流しながら宙に浮く、穴だらけの肉体と、少し前、何か約束を交わしていたような気がする。
久しぶりに、何か。
久しぶりに、大事な何か。
何となくただ、もう二度と果たせないことが、もう一つ増えてしまった気がした。
心臓が、身勝手に有り得ないスピードで脈打ち出す。
全身の血管の中の血が、身勝手に逆流を赦す。
頭の中身にあるはずの色んな仕切りが決壊し、身勝手に獰猛な力で掻き回され、混ぜこぜにされていく。
ここで起きているすべてが、何だというのだろう。
もう、重くなければ軽くもない。
もう、暗くなければ明るくもない。
もう、辛くなければ楽しくもない。
そうして身勝手に回転し出した視界に、二つの黒い塊が入り込んできた。
最期に見てみたい気がした。
もう一回転したときに、それがもう少し明瞭りしてきた。
もう一回転したときに、それが像を結んだ。
もう一回転したときには、もう見たくもない、と思った。
「えっ…?」
同じ顔をした、黒髪のおかっぱ頭の市松人形が二体、こちらを向いて立っていた。
よく見れば、一方の前髪はザンバラで不揃い。
もう一方の前髪は眉の高さで真っ直ぐに切り揃えられていた。
一人は、智だ。
もう一人は一体…、誰だ…。
思い浮かべた。
保育園の事務室。
素早く拾い読みをした園児名簿。
誰かの家の家族構成の欄。
父。
母。
智。
…。
四人目にあった、もう一人分の名前。
智ともう一人は、いっしょに赤い紐を握っていた。
紐を眼で追うと、自分の俯した身体の下を通っていた。
はっ、とした。
もし、三和土にあった里美のシューズに躓いていなかったら、自分は居間に踏み込んだ瞬間にこの紐に躓かされて、いまごろ里美と同じ目に遭っていたかも知れない。
「き、君たち…」
自分が救うはずのものだった。
それがいま、自分を貶めようとしていた。
智ともう一人は、紐をぽいと放り、一度互いに向き合って眼だけで何やら合図すると、壁へ近付いた。
こちらへ向き直った時には、壁に掛かっていた大きな狩込鋏の長い柄を、二人で左右一本ずつ握り、それを狭い居間の中、高く、高く、宙に掲げていた。
その刃が、のっぺりとした鈍色を放った。
夜に見る、糊を利かせた喪服の色のようだった。
鋏の刃が、音も無くすーっと近づいてきた。
すぐ眼の前まで来た。
眼に触れそうだった。
すると左右に、振り子のようにぶらりぶらりと揺れ始めた。
刃先が睫毛に触れ、黒く細かい粉になって落ちた。
額の表面が裂け、鼻の頭が剃られた。
そして、冷たい感触が、首筋を撫でた。
「…うっ!」
思わず眼を閉じた。
そして待った。
何かが成されるのを待つしかなかった。
静かな時間が過ぎた―。
ゴト。
重たい音を聞いて、眼を開けた。
狩込鋏が畳の上に横たわっていた。
「うぎゃぁうぎゃぁうぎゃぁうぎゃぁ」
その向こうで、赤児のような泣き声がした。
女装男が、長く大きな腕を振り回していた。
二体の人形を、無茶苦茶に殴りつけていた。
二体の躯はあらぬ方向に折れ曲がり、壁に放られ、天井に飛ばされ、床に叩き付けられた。
顔は、紅と蒼の不規則な斑点に彩られてみるみる腫れ上がり、割れた口からは、血とも脂ともつかぬ黒い液を滑らせ、五倍は盛り上がった瞼の下に覗く眼は、すでに白く虚ろいでいた。
まるで壊れた玩具…。
そう思うと、血が、急激に頭に集まり、そして一気に身体の隅々にまで戻ってきた。
これは仕事ではない。職業上の義務ではない。
私は、
私は、
…この子たちを守らなくては!
省子は、渾身の力で立ち上がった。
「うわぁああああああっ!」
後は、途切れ途切れになった。
手の中に握る狩込鋏の柄。
横たわる肉体を飛び越える足。
振り返る女装の男。
ほら、な、相応し、い、だろ。
一瞬強ばるも、和らぐ男の顔。
哭き荒ぶ赤児の声。
開き、閉じる、鋏の刃。
開き、閉じる、鋏の刃。
何度も。
何度も。
何度も。
降り頻る血。
飛び散る皮膚と肉と脂の残骸。
それらが乱れ混じった畳に、血に塗れ、落ちて沈む首。
同じ顔をして嗤う、壊れた二体の人形。
クケ…。
クケ…。
拡がる闇。
闇。
闇。
……………………………………。
††† 十八時四十六分 †††
くるくる回る赤い光。
そこに映し出される黒い人影。
赤い光は次々に増えて幾重にも重なり、次々に増える黒い人影を、右へ左へ揺さぶり、時に大きく時に小さく形を変えさせる。
「ほら、走馬灯だよ」
保育園の年中の頃、母親が見つけて教えてくれた。
旅先の温泉宿で、蝋燭の灯りで回転させた影絵を枠の紙に映し出す灯籠なんだと母は説明してくれた。
つまりこれから死ぬわけか、と父が言ったそばから自分の首を果物ナイフで切り裂こうとして笑ったので、母はわざわざ旅館じゅうに響くのではないかと思うほどの大声で怒ってみせた。
父がそんな母を満面の笑顔で抱え上げると、下から現れた幾筋もの光の奔流が二人を包み込んで、遠く天上の彼方へ連れて行こうとした。
自分もつられるように思わず光の中に足を踏み入れ、父の元へ腕を伸ばした。
「おいおい、来るなよ。おまえはまだ、こっちへは来ちゃいかんだろう」
今まで聞いたこともない穏やかな父の声に気を解し、永遠に幸せそうな母の表情に安堵し、伸ばしていた腕と踏み入れた足を引っ込めた。
「もぉしもぉしぃ、大丈夫ですかぁ?」
その声の先の方では、吹き荒ぶ風の中、警官や野次馬が辺りを右往左往していた。その影を、何台も入り乱れたパトカーの回転ランプが、三珠家の壁やドアや濡れた路面に、忙しなく映し出していた。自分もその中の一台の後部座席に座っているのがわかった。
三十分前、雅哉と名乗る里美の友人の通報により、蛇嵩山の防空壕跡で女性の首が発見された。
間を空けず、首の近くから、衣服のない首から下の女性の胴体が掘り起こされた。
遺体は、現場での雅哉による確認、三珠家に残された免許証等から、智の母親、三珠親のものと判明した。
そう、手前の方から、嗄れた声がゆっくりと言った。
数日後に巷に広まった噂ではそれらに、『胴体に開いた無数の刺し穴』、『数十の千切ったような欠損部分に付けられた齒形』、『旋毛の穴からきれいに吸い抜かれた脳漿』、が加わった。
嗄れ声は、現在、蛇嵩山付近を調査していた警官から、麓の沼の表面に車の一部分が見え隠れしているとの情報が入ったこと、そして『ひもろぎ保育園』にも警官が行っていることも、聞いてもいないのに教えてきた。
「あなたも一応ぉ、容疑者ぁなんですよぉ」
細い身体を折るように捻ってこちらを覗き込んでくる顔は、口元に深い縦皺を刻み、頬が痩け、眼の周りが落ち窪み、両の眼球の表面が乾いていた。
「家の中にいる仏さんはぁ、三珠勇さんとぉ判明しました。ご存知ぃですかぁ?」
嗄れ声は、手元の手帳のページを捲ったり戻したりを数回繰り返した後、胸ポケットのペンを手に取ろうとして足元に落とし、拾いながら、息苦しそうに途切れ途切れ喋った。
「まんが、いちっつう、こともある、って通ほぅ、がありまし、てねぇ。タ、ク、シーのうん、…てんしから、…ふぅ」
やっとペンを拾い上げると、大刻みに震える手でペン先を口に持っていき、黒ずんだ舌でペロリと嘗めた。
「防空壕から仏ぇさんが出たぁもんだから、こっちにもぉ寄ってみた、つう訳ですぁ」
右に振れ左に振れる濡れたペン先が辿る手帳の白い紙は、あちこちに広がる大小の染みで、黒くぼんやり滲んでいった。
「ではぁ、もう一度ぉ、確認いぃいですか? お名ぁ前は?」
「し、…省子。…直井省子です…」
「はぁい、はぁい。知ってますよぉぅ」
嗄れ声には、無邪気な笑みが漂っていた。
死神かも知れなかった。
思い出してきた。
急に、なにもかもを思い出してきた。
すると今度は、蘇る記憶から眼を背けたかった。
あぁ。
どうして、こんなことになったのだろう。
どうして、まだ終えさせてはくれないのだろう。
もうこんなに終わっているというのに。
こんなに〈堕ちそう〉だというのに。
何度も細かく、大きく息を吸っては吐き、頭の中が痺れ出すほど余計に酸素を取り込みながら、頭を項垂れては両手で持ち上げ、項垂れては持ち上げた。
「いまぁ、ドクターもぅ来ますからぁ」
そのどこかへ連れて行かれそうな視線に耐えられず、顔を外へ逸らした。
そこでは、道端の縁石に腰掛けた中年の婦警が、破れたおんぶ紐を抱きかかえ、大事そうにそっと揺らしていた。
思わず立ち上がり、ドアを開けて車の外へ出た。
「おいぃぃぃぃぃぃぃぃっ…!!!!!」
死神は声を発したものの、それ以上追ってはこず、手元の手帳を一心に黒くし続けた。
婦警に近寄っておんぶ紐の中を覗こうとすると、婦警はおんぶ紐の中身から顔を上げ、仏様のような嫋やかな笑顔で語りかけてきた。
「まだひと月くらいかしらね。ミルク、温めなくちゃね」
語りかけた相手が誰なのか、この人にはわかっていないようだった。
そもそもそんなことなど関係ないようだった。
あの泣き声は、この子のものだったのだろうか。
あんなに力一杯振り回されていたのに、どこにも怪我はなかったのだろうか。
こんなところにミルクなどあるのだろうか。
これからこの子はどうなるのだろうか。
いや、そんなことすらきっと、まったく関係ないのだろう。
だから、いまの自分にできるだけ微笑み返してみるしかなかった。
隣に駐めてあった別のパトカーが眼に留まった。
後部座席に、若い婦警に付き添われながら、至る所に痛々しい傷を負ったままの、智ともう一人が座っていた。
パトカーに近づき、窓ガラスの中を覗き込んだ。
智ともう一人はいっしょに、一枚の画用紙を互いの膝の上に架かるように載せ、クレヨンで絵を描いていた。
絵は、色んな色をしていた。
人の身体に見えた。
眉を顰め、息を潜めながら、窓ガラスに顔を近づけた。
二人は、それぞれ自分の洋服のポケットから小さな和鋏を取り出し、人の首の部分を突き始めた。
二人は、代わる代わる何度も何度も首を突き刺した。
塗られてあったクレヨンが穿り出され、画用紙の白い繊維も抉れてきた。
画用紙に穴が開いた。
首の部分だけ、いくつも、いくつも、穴が開いた。
穴と穴が繋がって、不規則な凹凸のついた歪な線になり、線は見る見るうちに一本、また一本と増えていった。
やがて首が胴体から離れた。
「はっ…!」
脳が、拭い切れそうにない嫌悪感で溢れ返った。
この子たちの母親を手にかけ、里美に和鋏を突き刺したのは、もしかしたら。
そうだとしたら…。
この子たちの父親も母親も、ぐらぐらしていたのは、ほかの親たちと同じで。
この子たちの親にとって、生まれてきた赤ん坊が重荷だったのも、ほかの親たちと同じで。
この子たちに何らかの虐待が与えられたのではなく。
生まれたきた赤ん坊をストレス要因に感じていたのは、寧ろ。
寧ろ…。
「クケ…」
好からぬ想いに耽っていると、善からぬ視線に曝されていた。
智ともう一人が、こちらを見て嗤っていた。
突然、目眩とは異なる冥い闇の訪れに呑み込まれ、その果ての果ての奈落へと〈堕ちて〉いった…。
あ・あ・あ・あ・あ・ぁ・ぁ・ぁ・ぁ。
底の方で気付いた。
…そうだ。
このことを、早く狭山に伝えなくては…。
その時、遠い遠い頭上では、黒い何かの群れが、踊るようにふわふわと舞っていた。
あ、あれは…
ち、蝶…?
†††††††††††† 終 ††††††††††††