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信じ難い。シンシアの胸中を埋め尽くしていた思いはその一言に尽きる。
何かを樹の幹に彫っていると言うのは予想出来ていた。けれど、それが人間が使うものと全く同じ文字だとはさすがに予想出来てはいなかったのだ。
まさに開いた口が塞がらない状態。驚きに目を見開き、あんぐりと口を開けたまま髑髏へとその顔を向けつつも、唯一動いている左手だけは執拗に幹に彫られた文字を撫でていた。
シンシアはとりあえずこの場で起きたことを何とか自分の中で消化し、現実であると受け止めるために、書いた張本人と書かれた文字を視覚と触覚で認識しているだけなのだが。
如何せんその他の行動を全くしないがために、シンシアの様子をただじっと見つめていた髑髏に心配されてしまった。
(どうしましょう、どうやら酷く混乱させてしまったみたい……)
骨だけの姿になってしまってから様々な苦労をし、その骨ももはや頭蓋骨を残すのみとなり、生命的にも精神的にもちょっと追い詰められ、更にその心を癒やそうとリラックスしているところに突然の遭遇。
元聖女こと髑髏側からしてみても一大事だし、現に先ほどまではシンシアが引くほどの奇行に走ったりとかなりパニックになっていた。
半年間彷徨い続けて襲われ続け、ようやく巡ってきた人類とのコミュニケーションチャンス。元聖女とはいえ人の子だったのだ、そりゃ喜びが溢れだしたりもするし、取り乱したりもするだろう。
しかしこの状況下、そして先ほどまでの混乱から一転、今では髑髏を見つめつつ木を撫でるのみのシンシアを心配する優しさを見せている。流石は元聖女といったところか。
今となっては骨っ子大好きワンワン魔族にこよなく愛される身ではあるが、以前は神に最も愛される身であったのだ。その慈愛の心は並ではない。
まぁもしかしたら自分よりもよっぽど気が動転している人を見て、かえって冷静になれただけなのかもしれないが。
(今こちらから動いて刺激するのは愚策。彼女の出方を待ちましょう)
自分の姿が他人からは醜悪に見えることも、この姿では自分の気持を満足に伝えられないことはとうに理解していた。半年間ずっとそうだったのだ。
しかし自分は本当にもう後が無い。彼女次第で自身の未来が閉ざされるかどうかが決まるのだ。
目の前の少女が自分を助けてくれるのであれば未来はあるが、そうでないのならばもう未来はない。彼女が自分を殺さずとも、いずれこの森の魔族に食い殺される。であるならば、もはや彼女の選択に身を委ね、攻撃されるならば甘んじて死を受け入れるべきだろう。
何しろ自分は本来は死んでいるはずの身なのだ、半年間奇妙な体験を出来ただけでも僥倖ではないのか。
だがそんな決意を髑髏が固めていた頃、シンシアの心は全く固まっていなかった。
髑髏の抱える事情を現時点では全く知らないシンシアにとってしてみれば、本来ならこの森にいないはずのアンデッドに出会っただけでも仰天モノなのに、更にそいつが文字まで書いてきているのである。
しかもその文面が”助けて”という、ともすればホラーチックにも受け取れるもの。ぶっちゃけ混乱しつつもかなりビビっていた。
しかしそんなシンシアも、一際強い風が木々を揺らす音と、その風が自分の頬をひやりと撫でる感触で、漸く我に返った。
書かれていた文字を呟いたまま閉じられることのなかった口の奥が乾いていることに気づく。それほどの間無防備だった自分に情けなくなりながらも、事態を受け入れ始める。
(この髑髏、多分感情が、そして確実に知性がある……!)
またもや強張った表情で髑髏を見つめるシンシアを、相手もただ見つめ返してくることで、シンシアは自分の考えに確信を持つ。
髑髏の行動とその結果、そして今のこちらの様子を窺うような様子。アンデッドとは思えない何やら友好的な髑髏に、シンシアの好奇心は更に刺激された。
先ほどまで恐怖と緊張で早鐘を打っていた鼓動は、そのリズムはそのままに感情だけを期待と愉悦に塗り替えた。
助けて、か。シンシアが小さく呟いたその言葉は、髑髏のもとには口元の動きと微かな音となって届き、髑髏の首を傾げさせる。
行動が何だか一々人間っぽい。そう感じたシンシアは意思疎通を図り、髑髏が返す反応を確かめてみることにした。
「助けて……って事は、ぶっ壊して成仏させればいいのかな?」
口元にからかうような笑みを浮かべつつ鎌を持つ右手を前に出して言うシンシアに、冷静さを取り戻していた髑髏は慌てずに対応した。
攻撃しようとしているのではなく、言葉の真意を図ろうとしている。そうシンシアの行動の意味を正確に読み取った髑髏は、首を激しく左右に振って彼女の言葉を否定した。
伝わっている。伝わっているのだ、自分の思いは、目の前の少女に。
(ああ、もどかしい、もどかしい……!)
なのにそれをきちんと伝えきることの出来ない自分の身体にやきもきする。
声を出せない髑髏は基本的に受け身に回るしか無い。全ては自分の行動を目の前の少女がどう取るかなのだ。
当のシンシアはというと、目の前の物体の行動を見て、遭遇当初まで遡らせて考えを巡らせていた。
(人語は完全に理解してる。声は出せないけど行動で感情を表現。となると、最初の頃の首を横に振るのや歯を小刻みに鳴らしたのは怯えていたから? そう考えるとちょっと可愛……くはないな、うん)
目の前の髑髏が可愛いような気がしたけれど、改めて見るとやっぱり不気味さのほうが勝る。とは言え、髑髏の感情表現に対してシンシアは大まかな正解を導き出していた。
一方髑髏もここが正念場だ、とより一層伝わりやすいボディ……いや、スカルランゲージを心がけて気合を入れていた。
「えー、と……とりあえず、私の言葉はわかるんだよね?」
まず、この点をはっきりさせておくべきだろうとシンシアは恐る恐る聞いてみる。
この質問はシンシアにとっては、ただ自分の言葉を理解しているだけでなく、理解した上で明確な意志で以って返答してくれるかどうかを確かめるものだった。
それに対する髑髏の返事は、ただ只管に何度も何度も全身を上下にガクガクと振り、首肯を繰り返すというもの。
(意思疎通が出来ている……!)
両者の胸の内は、同じ言葉による感動で打ち震えていた。
元聖女は、今まで魔族に襲われ人間に襲われ、誰も彼もが自分の意志などお構いなしに攻撃してきたこの半年間、探し続けていた自分の思いを読み取ってくれる相手と出会えたことに。相手の言葉を聞いて、自分の思いを相手に届けることができたことに対する感動。
シンシアは、強いアンデッドは知性があっても絶対に人間に友好的な態度は取らず、また逆に弱い場合は知性がなく本能的に飽くなき食欲で襲い掛かってくるという事情により、生態の詳細な調査が実質不可能と言われている種族との意思疎通の成功に対する感動。
一応使い魔となる契約を結んで使役した例もないわけではないが、やはり知性が宿らず扱いにくい種族であるため、こうして受け答えがしっかりしているケースは本当に世界初かもしれないのだ。この物体の観察だけで文献が3つ4つ書けるかもしれない。
そんな感じに感動は感動でも全く別のベクトルへの感動をかみしめていた両者。自分のそれにとらわれて相手の様子をあまり気にしていない。
そんな中で、またもシンシアから行動を起こす。自分はさっきちょっと脅かしてしまったから、今度はこちらから歩み寄ってみようと。
「こ、これ、食べる?」
とりあえず右手に持っていた鎌をしまって武装解除し、背中に背負った籠から木の実を1つ取り出して手の平に乗せて差し出してみる。皮がオレンジに染まった、ココという甘酸っぱい拳大の実だ。
髑髏は少しだけ迷った素振りを見せ、刺激しないようにゆっくりと近づくと、手に触れないように器用に歯で挟んで持ち上げ、咥えたまま少し下がり、零さないように顔を上に向けてシャリシャリと咀嚼し始めた。
(何だか餌付けされてる気分です……)
心の中でそんなことを思いながらも、髑髏は泣き出してしまいそうなほどの喜びに包まれていた。
なんせこの姿になってから初めて人の優しさに触れたのだ。こうなってしまう前にはたくさん与え、また与えられたものが、姿が変わっただけでなくなってしまうのかと絶望しかけたが、そんなことはない。人は優しい生き物なのだ、と。
正直骨になってからの食事は、少なからず魔力を帯びているものでないと何の意味もなく、故に今食べたココの実も食べても特に養分にはならないのだが。しかしせっかく差し出された好意、本当に久しぶりの好意。
無害な小動物系アピールという、友好的な態度の表現やある種の社交辞令的なものも含めて、打算的な意味合いを多く含んだ食事だった。
しかしシンシアの方も、あわよくば直ぐ目の前でアンデッドの食事シーンを拝めるという体験をしたいという打算を込めた行動だったので、お互い様ではあるが。
髑髏の食事をつぶさに観察し、消化器官がないはずなのに食べた物はどこにどうして消えていくのかという長年の疑問を解消したかったのだが、やはり見ているだけでは分からず肩を落とした。口の中で消えた、と言う既に判明している事実のみの収穫だった。
(コレを逃す手はない!)
再び両者の思惑が一致する。
髑髏は自分の境遇を説明し、共に歩んでくれるかもしれない存在を。少なくとも助けてくれるであろう存在を。
シンシアは魔族の生態研究のための格好のサンプルとしての存在を。自分の分野ではないけれど未知を晴らしてくれる存在を。
互いが互いに求めているものは全く以て違う。しかし、目の前の相手と一緒にいるべきだという思いは共通。
しかし、中々事態は進展しない。お互いに見合ったまま、ただ時間だけが過ぎる。
両者の中でシンシアだけが言葉を発することができ、自分の気持を正確に伝えることができるのだが、もし自分の提案が拒否されて逃げられたら、と思うとつい二の足を踏んでしまう。
髑髏は言葉を発せず、自分の気持を正確に伝えるすべがない。スカルランゲージにだって限界はあるのだ。
だがしかし。
(やるしか無い……! こんな事もあろうかとたくさん練習した、友好の舞を!)
自分の不気味な見た目を自覚している髑髏は、まず自分に対する警戒心を完全に解こうと行動を開始する。危険な魔族だと思われていてはダメなのだ。
決意を秘めた暗い眼窩に、ギラリと怪しい光が灯ったような気がした。
シンシアの見守る中、髑髏はくるりと回り、ゆらゆら揺れ、ふわふわと漂い、偶に歯を打ち鳴らす。
そうやってなんとか練習した通りの舞を舞おうとして、途中でとんでもない事実に気がついた。
(そういえばこの舞、まだ手足の骨が残っている頃のものでした……!)
髑髏は絶望する。こんな不完全なものでは、伝わるはずがないではないかと。風に煽られた木々がザワザワと音をたて、妙な緊張感を醸し出す。
気づくべきはそこではなく、傍目だと普通はただ怖いだけであるという点なのだが。
正直手足があった頃の友好の舞も、見ている人がいればほぼ全員が不気味な印象を抱き、精神力をガリガリと削られる錯覚を覚えてしまいそうな出来のものだったが。
だが髑髏は真剣に悔いていた。何故頭だけになってしまった時のことを想定して、それ用の友好の舞を作っていなかったのかと。これでは即興になってしまうではないか。
しかし今更止められぬ、と即興で舞を続ける。こちらを引き気味に見ているシンシアに、もう1度思いが伝わることを信じて。
そして最初は引いていたが、見ているうちになにか感じ取るものがあったようで、顎に手を当て真剣に髑髏の動きを見続けていた。
懸命に舞う髑髏をジーっと見ていたシンシアが、突如何かに気づいたようにハッとして、神妙な面持ちでポツリと言葉を漏らす。
「これはまさか……友愛のダンス……!?」
(やったー!!)
そんなバカな。
多少の違いはあれど、不気味かつ珍妙な動きで大まかなニュアンスが伝わってしまった。感性が同じとでも言うのか。
舞の意味を分かってくれたシンシアに対し、髑髏は自分の感情表現のセンスを認められた喜びも相まって、激しく首肯を繰り返す。しかし別にセンスが良いということはない。
ここぞとばかりに髑髏は一気に攻勢に出る。ゆっくりとシンシアの腹部に近づき、彼女が逃げないのが分かると、そのお腹におでこをくっつけ、グリグリとして押し付けて甘えてみた。変な踊りしないで初めからそうしておくべきではないだろうか。何故か伝わったからいいものの。
「わっ、めっちゃ懐いてきた……!」
(懐いてますよー、いい子ですよー)
その様子を見て、シンシアは驚いた表情を一瞬見せたが、次の瞬間には破顔していた。
髑髏のあざといくらいの積極的なアピール攻撃。どうやらその効果はかなりのモノのようだ。
シンシアは思う。髑髏は思えばずっと友好的だったではないか。そして”助けて”とも伝えてきたではないか。
それはきっとこの森に住む魔族に食われそうな自分を、という意味だったのだ。
ならば人語を解する眼の前の存在は、きっと自分の提案を受け入れてくれるはずなのだ。
「えっと、お前、ウチに来る……?」
(是非! 喜んで!)
緊張して顔が少しこわばりつつも、ほほ笑みを浮かべて声をかけたシンシアに対し、髑髏はお腹からぱっと少し離れて、シンシアと目線を合わせてガクガクと首肯した。
そして三度思惑が一致。両者の胸中を、なんとも言えない達成感が満たし、心のなかで同時に快哉を叫ぶ。
髑髏は半年間の苦難の果てについに味方を得られたことに。
シンシアは研究サンプルを手中に収められたことに。
思惑は一致しつつも、その方向性は3度とも全く違うものではあるが、当事者は非常に嬉しそうにしている。
今のようにベクトルは違えども同じ思いを抱いていたり、不気味で珍妙なダンスで思いが伝わったり。
案外、似たもの同士なのかもしれない。