逃げ出す俺たち
「ねぇ、君」
とんでもない物を見せてしまったのでは、とそう言った男性の顔色も真っ青だった。
その声に優衣ちゃんは、慌てて部屋を飛び出し、俺も慌てて優衣ちゃんの後を追う。俺たちのその先には、さっき男性が乗ってきたエレベータが止まっていた。
優衣ちゃんがエレベータのボタンを押すと、じれったいほどゆっくりとドアが開いていく。優衣ちゃんは待ちきれなくて、その足だけはせわしく駆けているかのように足踏みしている。
ドアに人が乗れるスペースができると、全開するのを待たず、優衣ちゃんはエレベータに飛び乗った。 俺がその後に続く。優衣ちゃんが1階のボタンを押すと、1階のボタンが明るく点灯し、エレベータのドアはゆっくりと閉じはじめた。
そのゆっくりさに耐えきれないのか、優衣ちゃんはドアを閉めるボタンを連打し始めた。まるで、何かアクション系のTVゲームをコントローラで操作するかのように。
ドアが閉じると、エレベータは静かに上昇を始めた。優衣ちゃんは今度も1階のボタンを連打し始めた。ここから少しでも早く逃れたいのだろうけど、そんな行為に意味が無い事は分かり切っている。それだけ、優衣ちゃんは動揺している。そう、俺は感じていた。いや、俺自身も動揺しているが、こんな優衣ちゃんを見ていると俺自身の中に、冷静さがよみがえってくる。
エレベータが地上に着き、ドアが開くと、優衣ちゃんは外を目指して走り出した。開発棟と呼ばれるこの建物の1階は広いエントランスになっていて、受付には常時女性が待機している。
エレベータから飛び出して、逃げ出すように駆けて行く優衣ちゃんに、受付の女性たちが驚き気味の表情を向けている。怪しまれかねないと思いつつも、俺もその後を追って、駆け出す。
全力疾走。
おそらく、それほどのスピードで優衣ちゃんは走っている。小柄な女の子の優衣ちゃんである。体力的には強くない。もう限界ではないのか?と思うのに、走り続けている。
今見た事を忘れたい。
この場から、少しでも離れたい。
そう思っているのだろう。それは俺だって、そうだ。
男の俺より、きっと優衣ちゃんが受けた衝撃はそれ以上なはずだ。
それだけ、優衣ちゃんも逃げ出したいのだろう。
いや、心優しい優衣ちゃんである。それだけではないかも知れない。
俺の心の片隅にさえ、罪悪感が芽生えている。
優衣ちゃんの心の中には、もっと大きな罪悪感。
あんなひどい状況から、クローンたちを助けてやれない無力感。
全てを置き捨てようと、逃げているのかもしれない。
悪いのは優衣ちゃんじゃないのに。
そう思った時、俺は優衣ちゃんの腕を握りしめ、立ち止まった。
二人の手が、ぴんと伸びきったところで、優衣ちゃんは立ち止まると、泣き崩れた。
それほど広くはない、住宅街の生活道路。
そこにしゃがみ込んで、嗚咽する優衣ちゃん。
俺は何もできず、横にしゃがみ込んで、優衣ちゃんの肩をそっと抱きしめた。
どれくらい時間が経っただろうか。
俺は何も言わず、ただ黙って肩を抱いていた。
やがて、優衣ちゃんが泣き止むと、俺は言った。
「俺、お父さんに言うよ。
何であんなひどい事をしてるんだって。
すぐに止めろって」
予想外だったが、俺の言葉に優衣ちゃんは首を横に振った。
「どうして?
いくらクローンだって、あんな事をしていいわけがないだろ?」
「私たちが知ったって事は言わないで」
「でも、あの男の人が言うんじゃないか?」
優衣ちゃんはそれでも首を横に振った。きっと、自分たちの口からは言えない。そう言うことなのだろう。