止マルナ
男は、ある温泉施設で働く従業員であった。
その施設は山の上にあり、麓からはそこそこ距離があるため、男は通勤に毎日車を使っていた。
ある日、乗っていた車が壊れたため、男はこの機会に車を買い替えることにした。なんでも、最近ではAIを搭載した車が流行っているらしい。セールスマンの説明では、AIが状況を分析し、最適な行動を液晶パネルに表示してくれるのだとか。
運転に自信のなかった男は、迷わず購入を決めた。決して安くはなかったものの、その性能に非常に満足した男は、今まで避けていた深夜までの残業も喜んで行うようになった。
その日も、男は戸締りを終え、駐車場にただ一つ残った車に乗り込んだ。辺りは真っ暗だが、もう見慣れた光景である。
手慣れたように自宅までの経路を設定し、あとはいつも通り帰宅するだけ――そのはずだった。
「……止マレ?」
山道を下っていると、男は正面に見慣れない標識があることに気づいた。しかし、ここは信号もない一本道である。この時間だと、人通りはおろか車ですら滅多に通ることはない。
男は腑に落ちないながらも、標識の通り減速しようとして――ピコんと、パネルに何かが表示される。
男が目を向けると、そこにはたった四文字でこう書かれていた。
『止マルナ』
男は、ゆっくりとブレーキペダルの上から足を離した。このAIが間違えたことは、これまでに一度もない。先ほどの標識は、ただの見間違えだったのだろう。
男は止まらず、山を下り続ける。
「見間違え……ただの見間違えだ……」
男は、目の前の一定間隔で置かれた『止マレ』を全て無視し、アクセルペダルを強く踏み込んだ。
そうしてしばらく走っている内に、いつの間にか標識は見なくなった。
勾配も緩やかになり、肩の力が抜けた男はスピードを落とす。
先ほどのは何だったのかと男が疑問に思っていると、前方の対向車線で幼い子供が倒れているのを見つけた。どこかを怪我したのか、血を流しギャーギャーと泣き叫んでいる。
男は急いで救急車を呼ぼうとしたが、携帯の充電が切れていることを思いだし、仕方なく病院まで運ぼうと減速し――再び、『止マルナ』とパネルに表示される。
「……ッ!なんなんだいったい!?」
それを見た男は慌ててアクセルをベタ踏みし、その場から離れる。
しかし、堰を切ったように次々とナニかがやってきた。
行き先の分からない看板を掲げ、ヒッチハイクを迫る男から目を逸らし。
目の前に飛び出して来た老人を避け。
「お金!お金あげるから止まってええええぇぇ!」と叫ぶ婦人の声から耳を塞ぎ、男は一心不乱に山を下る。
そうして、気づけば麓の町まで下りてきた男の後ろに、一台のパトカーがついた。
「そこの車!スピード違反だ止まりなさい!」
男は安堵して、言う通りに減速しようとするも、パネルには変わらず『止マルナ』の文字が。
「……くそッ!!」
男は後ろのパトカーを振りきり、赤信号も無視して交差点に突っ込んだ。
それから。
記憶にはないが、無事に家には帰れたらしい。あの日以降、特におかしなことも何も起きていない。今では、本当にそんなことがあったかも怪しいものだ。
男は、今日も朝から通勤のため車に乗り込む。パネルにも、特に変なことは――
『曲ガルナ』?
「すいませーん、この先水道工事中なんで、迂回お願いしまーす!」
いつもの道は、バリケードのようなもので封鎖されているようだ。曲がるなと言われても、進めないのではどうしようもないだろう。
男は、前の車についていくようにその道を左折し――
男は曲がったことを一生後悔した。




