003
リアを村まで送り届け、そそくさとオンボロの我が家に戻ったその日の夜。
森の静寂は、何かの予兆を孕んだ重苦しい沈黙へと変貌していた。
安物のランプが放つ頼りない光に照らされているのは、骨董市なけなしの財産――そして人生のいくらか――を叩いて入手した、あの「黒い棒」だ。
その真の姿は「変化の杖」。
所有者の望むままに万物の姿を書き換えるという、伝説の裏側で煤にまみれていた禁忌の魔道具。
伝わる御伽噺の中では、王を蛙に変え、乞食を富豪に変えたとされる代物だが、魔術師たちの間では「等価交換の法則を無視したペテン」として、嘲笑される存在でもあった。
ジークの手元にあるそれは、山火事の跡から拾い集めた燃え残りの薪にしか見えなかった。だが、ジークがその表面を撫でると、煤の下で微かな脈動が指先に伝わる。
「……伝説級にもかかわらず誰にも見向きもされず、ガラクタに紛れていた貴様と、五十の坂を越えて何一つ成し遂げられなかった私。これほど相応な組み合わせも、そうはあるまい」
自嘲気味な独白が、湿った壁に跳ね返る。
ジークは震える手で、自らの血を依り代とした魔法陣を描き、魔力を杖に流し込んだ。
変化の杖の力と自身が編み出した魔法。
自分の理論が正しければ――
その瞬間、森の静寂を物理的に切り裂き、世の理を無慈悲に蹂躙する「変容」の歯車が回り始めた。
「――っ、ぐ、あぁあああああああ! 竜化!」
それは魔法と呼ぶにはあまりに暴力的で、洗練とは無縁の破壊だった。
「変化の杖」がジークの細りかけた魔力を、その根こそぎを喰らい尽くす。
血管に沸騰した鉛を流し込まれたような、絶望的な熱が五臓六腑を駆け巡った。
絶叫はもはや悲鳴の形を保てない。骨が軋み、一度粉々に砕けてから再構築される音。
肉が不自然な速度で膨張し、皮膚を引き裂く音。そして、千切れた肉の隙間から、月光を鈍く弾く硬質の灰色の鱗が、破壊の旋律を奏でながら芽吹いていく。
一秒が永遠に感じられるほどの苦悶の果てに、不意に視界が跳ね上がった。
地面は遥か足下へと遠ざかり、先程まで見上げていた巨木の梢さえ、今や足元の苔のように眼下にある。
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、人間だった頃のそれとは密度が違った。
五感は神の領域へと研ぎ澄まされ、数キロ先の森を駆ける獣の心音、大気が震える微かな摩擦音までもが、鮮明な情報として、濁流のごとく脳を支配する。
『……ああ、これだ。私は、ついに……』
自分の声さえ、空気を震わせる重低音へと変わっていた。
泥を啜りながら憧憬し続けた最強の存在――灰色の“竜”へと昇華したのだ。
背中に生えた巨大な翼を一振りするだけで、周囲の樹木が暴風に煽られてひれ伏す。
全能感。地べたを這いずり、重力に縛られていた惨めな男は、今この瞬間、世界の条理から解き放たれた。
だが、その至福は、氷細工が陽光に晒されるよりも早く、残酷な刹那で終わる。
念願叶い、その願いを十分味わったジークは、元の姿‥人の姿に戻ろうと、変身を解除するための解除魔法を唱えた。
『輪廻還生!』
しかし――内側を流れる膨大な魔力の奔流が、冷徹な鉄鎖によって一点に固定されていることに気づく。
『……な、んだ……? 元の姿に戻らぬ‥‥』
戻れない。
その事実は、冷え切った井戸の底に突き落とされたような、静かで、しかし逃れようのない重圧となってジークの意識を圧し潰した。
媒体とした変化の杖が、長年の経年劣化で肝心な戻りの術式を摩耗させていたのか。あるいは、己が半生をかけて編み上げた魔法式に、致命的な欠落があったのか。
憧れの力を手に入れた代償に、皮肉すぎる結末に、ジークが声にならぬ嘆きを漏らそうとした、その時。
鋭敏すぎる竜の耳が、風に乗って運ばれてきた「音」を捉えた。
それは、麓の村――リアたちの住む場所から上がる、引き裂かれるような絶望の悲鳴だった。
空気を震わせる魔獣たちの咆哮と、逃げ惑う人々の足音。
黄金の月光の下、平穏だったはずの村が、今まさに血と炎の饗宴に包まれようとしていた。




