001
カビの生えた智慧は湿った絶望の臭い。
それこそが、ジークという男が五十年の歳月を煮詰め、澱のように積み上げてきた人生の香りだった。
人里を離れた辺境の森に、時が止まったかのように佇むあばら家。
腐りかけた木材で無理やり繋ぎ止めたような建物は、さながら主の精神を象徴するような、危うい均衡の上に成り立つ建築物だ。
隙間風が容赦なく入り込み、冬の先遣隊のような冷気を運んでくる室内で、ジークは震える指先に力を込め、羽ペンを走らせる。
羊皮紙の上で歪に踊る術式は、彼が二十年という、人生の最も脂の乗った時期を全て捧げた「竜化の魔法」の断片だ。
だが、どれほど緻密な理論を積み重ね、幾千の仮説を等式で結ぼうとも、それらは穴の空いた革袋から漏れる水のように、実現という名の杯を満たす前に虚無へと消えていく。
「……っ、ぐ……」
不意に膝の節々を走った鋭い痛みは、どんな精密な時計よりも正確に、彼の肉体の「賞味期限」を突きつけてくる。
冬の到来を告げる冷気よりも冷酷で、抗いようのない負債の督促状のようだった。
魔術師としての天分は、百年続く日照りに喘ぐ村の井戸のように、とうの昔に枯れ果てている。
冒険者として華々しい名を成すこともできず、英雄たちの背中を遠くから眺めることさえ許されなかった、凡庸という名の檻に閉じ込められた男。
そんな彼が、なぜこれほどまでに、魂を削り取られるような禁忌の深淵に指を伸ばし続けるのか。
その答えは、閉じた瞼の裏に今なお鮮烈な熱量を持って焼き付いている「黄金の残光」に他ならない。
若き日に戦場で目撃した、古龍“ファフニール”の姿。
天を焦がす咆哮は世界の理を震わせ、その翼が描く軌跡は条理を塗り替えるほどに圧倒的な美を湛えていた。あの気高く、そして絶対的な孤独に触れた瞬間から、ジークの魂は美しき呪いに侵されてしまったのだ。
あんな風になりたい。
地べたを這いずり、金貨の数や明日のパンの心配に追われる「人間」という矮小な束縛から、翼を広げて解き放たれてみたい。
その渇望だけが、彼の老いた心臓を動かす唯一の燃料だった。
「ジークさん、またそんな難しい顔をして。まるで一週間前に腐らせた煮込みの味を思い出して、胃を痛めているみたいだわ」
停滞し、澱んでいた部屋の空気を軽やかに揺らしたのは、村の娘、リアの声だった。
食べ物が入った籠を抱え、春の陽光をそのまま連れてきたような彼女の足取りは、日陰に籠もっているような生活をしているジークにとっては、あまりに眩しすぎる。
世捨て人を気取るジークを、唯一「手のかかる頑固な隣人」として扱う彼女は、机の上に広げられた、国家機密にも等しいはずの羊皮紙など紙屑同然に扱い、窓を勢い良く開け放った。
「リア! 勝手に開けるなと言っとるだろう。繊細な術式が風で飛んだらどうする!」
「はいはい。そんなに眉間に皺を寄せているから、より老けて見えるんですよ。ジークさん、本当はウチのおじいちゃんよりも一回り以上若いはずなのに、見た目だけなら双子でも通りそうだわ」
「うっさいわい。放っておけ。老いぼれには老いぼれなりの思索というものがあるんだ」
「そんなことより、ジークさん……今日は街まで行く護衛をお願いしていたじゃないですか」
リアは腰に手を当て、ジークの言い訳を先回りして封じ込める。
「……護衛だと? 確かにそんなことを頼まれた記憶はあるが。見ての通り、こんな老いぼれに、一体何を期待しているのかね? もっと若くて、剣の一振りでもまともに振れる男を雇えばいいだろう」
「あら、ジークさんは昔、冒険者としてあちこちで腕を鳴らしていたんでしょ? それに父さんが言ってましたよ。『ジークは腐っても魔術師だ。彼がいてくれたら、森の野犬も魔獣も、煙に巻いて追い払ってくれる』って。魔法が使える人が横にいてくれるだけでも心強いんです。それに――」
リアはニヤリといたずらっぽく笑うと、ジークの背中を力任せに叩いた。
「たまには身体を動かして、外の空気を吸わないと。そのままだと本当に、その羊皮紙と一緒にカビが生えて消えてなくなっちゃいますよ。さあ、立って!」
リアの軽快な毒舌と、彼女の父親――村で唯一ジークにまともな食料を回してくれる男――への断りきれない義理に押され、ジークは重い腰を上げた。
「……やれやれ。これだから、若い娘の相手は研究より骨が折れる」
錆びついた関節が、古い機械のように悲鳴を上げる。ジークは唸り声を上げながら、立てかけてあった古い杖を手に取った。
それが、彼の長く停滞し続けていた人生を完結させ、全く新しい運命の歯車を回し始める「清算」の始まりになるともしらずに。




