第1話「初配信、入ります」
机の上だけは、妙にきれいだった。
きれいにした、というより――散らかす余裕がなかった。
「よし……配線、よし。バッテリー、よし。予備回線、よし」
声に出して確認しないと落ち着かない。落ち着かないと手が震える。手が震えると、スマホが落ちる。落ちたら終わる。終わったら――今日は始まらない。
ミナトは、狭いアパートの一室で機材を順番に撫で回した。安いマイク、安い小型カメラ、古いスマホ。小さなモバイルバッテリーが二つ。予備のケーブル。
それから、ちょっと大げさなくらいの応急キット。
絆創膏。包帯。消毒液。痛み止め。
ダンジョン配信者は派手な人ほど軽装に見えるけど、実際は持っている。持っていないと、事故が起きた瞬間に本当に終わる。
分かっている。分かってるのに。
スマホを持ち上げた瞬間、手汗でつるりと滑った。
「うわっ」
反射で両手でキャッチして、机の角にぶつけそうになるのをギリギリで止める。心臓が、変な音を立てた。
喉の奥が一気に乾く。
「……落とすな。落とすな。今落ちたら、配信より先に俺が泣く」
自分に言い聞かせて深呼吸。胸の奥がきしむみたいに固い。
そのまま配信アプリを開いた。
画面の上に、赤い丸いマーク。「配信準備中」。
その下に、小さく表示される文字。
――視聴者数:0
ゼロ。
数字ひとつで、人の気持ちは簡単に沈む。
「……まあ、そうだよな」
笑ってみせる。誰も見ていないのに。
胸のあたりが、きゅっと痛む。胃が冷たい。
初配信だ。
SNSで告知もした。「今日、初ダンジョン実況やります」って。
それでもゼロ。
当たり前だ。世の中には配信があふれている。強い人も、面白い人も、派手な人も、山ほどいる。
無名の新人にわざわざ来る理由なんて、まだない。
分かっているのに、数字は刺さる。
ふっと目を閉じて、息を吐く。
逃げるなら今。ボタンを押さずに終わらせれば、誰にも笑われない。傷も浅い。
――でも、浅い傷は、じわじわ効く。
「……よし。ゼロでも、やる」
ミナトはスマホを固定し、マイクの位置を調整して、もう一度だけ鏡を見た。
髪、変じゃないか。顔、青くないか。目、死んでないか。
死んでる気がする。
でも死んでる顔のまま外に出たら余計に死ぬので、口角だけ上げた。
配信開始ボタンを押す。
赤い丸が、確かに点灯した。
「えーっと……聞こえてますか? テスト、テスト。聞こえたらコメントください。……はい、えっと」
コメント欄は、静かだった。
笑うしかない。
「……うん。初回だし。そういうもんだし。よし、行こう!」
自分の声が、少しだけ裏返った気がした。
ミナトはリュックを背負い、機材を大事に抱えて部屋を出た。
⸻
ダンジョン入口のあるエリアは、駅から少し歩いた先にある。
コンクリートの建物、仮設みたいな柵、制服の警備員。入口だけは妙に現代的で、観光施設みたいでもあった。
けれど、ゲートの向こう側は別だ。
空気が違う。匂いが違う。
湿った土と、金属と、古い石の匂い。壁の内側から、別世界の気配が漏れてくる。
入口の前には注意喚起ポスターがずらりと並んでいた。
『危険行為禁止』
『無許可配信は禁止区域あり』
『救護要請先:緊急通報は〇〇』
『単独潜入は推奨されません』
見慣れた文字なのに、読むたび背筋が冷える。
ここは遊び場じゃない。下手をすれば死ぬ場所だ。
「えっと……」
ミナトは配信者っぽく、ポスターの前でスマホを向けた。
「一応、注意事項読みますね。危険行為禁止、救護要請先……はい。みんなも気をつけような!」
読み上げながら、内心は早く潜りたかった。
怖い。怖いけど、ここで立ち止まると、もっと怖くなる。怖さが増えて、逃げたくなる。
それに――今さら引き返したら、配信は「入口で終わりました」になる。
ゼロがゼロのまま、終わる。
「よし。入ります」
警備員に入場証を見せる。装備の確認。ライト、ヘルメット、手袋、応急キット。
最後に、警備員が真面目な顔で言った。
「深いところには行かないように。万が一のときは、ここに連絡してください」
「はい」
返事はちゃんとできた。
できたぶんだけ、喉が乾く。
ゲートをくぐる。
ひんやりした空気が頬に触れた。天井の照明が白く、そこだけは少し安心できる気がする。
でも、その光の先は暗い。
少し進むと、石造りの通路に変わった。壁が古くなる。足音の響き方が変わる。
そして、最初の分岐が現れた。
床に、くっきりと刻まれた文字。
A。
B。
簡素な刻印。矢印もない。説明もない。
ただ、二つの道が分かれている。
「……え、これ、どっち」
ミナトは苦笑してスマホを掲げた。
「えーっと、みなさん。初っ端から分岐です。AとB。どっち行こう。投票、出します」
配信アプリの投票機能を開く。
A。B。開始。
画面下に投票バーが出た。
――動かない。
コメント欄も、動かない。
「……うん、そうだよね。初配信だし。投票、来ないよね」
笑って言った。
笑い声が石の通路に反響して、少しだけ寂しく響いた。
心細い。
自分で選ぶしかない。分かってるけど、こういう時に「誰かが見てる」ってだけで人は強くなる。
「……自分で決めるしかないやつ!」
わざと軽いノリで言った。
でも、手袋の中で指が冷たかった。汗だけがじっとりしている。
Aの道は暗い。奥が見えない。
Bの道は少し明るい。照明が続いている気がする。
普通に考えればBだ。安全そう。戻りやすそう。初回にはちょうどいい。
――でも。
「初配信で明るい道を歩いて、『何も起きませんでした』で終わるの……きついよな」
小声で呟いて、自分で自分に刺さった。
見せ場がない配信には人が来ない。人が来ない配信は続かない。続かないのが、いちばん怖い。
怖い。
でも、怖さを抱えたまま進むのが配信者ってやつだ。
ミナトはAの刻印を見た。
暗い。吸い込まれそう。
「……よし。Aだ。A行く。初回から攻める。攻めるって言い方がもう怖いけど!」
勢いで一歩踏み出した。
その瞬間。
空気が変わった。
湿度が上がる。匂いが濃くなる。
音が――少しだけ、減った。
さっきまで反響していた足音が、吸い取られるみたいに小さくなる。
背中側の白い光が、急に遠ざかった気がした。
「……え?」
背筋がぞわっとした。冷たい汗が首筋を流れる。
Aの道を進むほど、静かになる。
静かなのに怖い。
何も聞こえないのに、何かが見ている気がする。
ミナトはライトを点けた。
白い輪が足元を照らす。輪の外は、濃い闇。
「……や、やば。急に雰囲気変わったんだけど」
スマホに向かって話す。
コメント欄はまだ静か――と思った瞬間。
画面上の数字が変わった。
視聴者数:3
「……え、来た」
今さら見られている。
その感覚が喉を乾かす。背中が熱くなる。手汗が増える。
「いらっしゃい。初配信です、ミナトです。……今、Aの道に来たら急に空気が変わりました。普通に怖いです」
格好をつける余裕がない。むしろ正直に言ったほうが、息がしやすい。
通路は妙に綺麗だった。
埃が少ない。壁の傷も少ない。床も平らで歩きやすい。
危険の気配が薄い。
――それが逆に怖い。
「こういうのさ……当たりっぽいけど、当たりってこういう時ほど怖くない?」
自分で言って、自分で「何言ってんだ」って思った。
でも本当にそうだ。
危険が見えれば構えられる。
危険が見えないのが一番嫌だ。
ライトの輪の外は、暗いというより黒い。
そこに何かがいても、気づけない。
しばらく進むと、通路の先に巨大な扉が現れた。
装飾はほとんどない。
ただ、大きい。厚い。
石なのか金属なのか分からない、冷たそうな色をしている。
扉の前だけ、空気が重い。
「……え、何これ」
ミナトは立ち止まった。
扉がある。それだけでここが“何かの場所”だと分かってしまう。
視聴者数:5
増えている。
嬉しいより先に、怖いが来る。
今さら引き返せない。
引き返したら「逃げた」になる。
進んだら「死ぬかも」になる。
喉がカラカラだった。
「……とりあえず、扉の前まで来ました。あの、これ……開けていいのかな」
誰に聞いてるんだ、と自分で思う。
でも聞かないと、手が動かない。
扉に手を伸ばす。
指先が震える。
触れた瞬間、扉は思ったより簡単に動いた。
ぎ。
低い音が響く。石の腹の底から出るような音。
その音に、ミナトの心臓が勝手に合わせる。
どく。どく。どく。
「……開いた」
隙間から冷たい空気が流れてくる。
もっと暗い。もっと静か。
でもなぜか、外の空気じゃない。中の空気だ。
入るべきか迷った。
迷った瞬間が、一番危ない。
だから。
背中を押されるみたいに、足が動いた。
⸻
中は広かった。
大広間。
天井が高い。壁が遠い。声を出したらどこまでも響きそうな空間。
ライトの輪が床を照らす。
輪の外は闇。
闇の中に、何かの形がある。
奥に、玉座があった。
高い段。椅子。
そして――そこに、黒い影が座っている。
見える。
でも、はっきりしない。
ライトを向けても輪郭がぼやける。
そこだけ空気が厚いみたいに、影が影のまま残っている。
「……え、え、え」
声が勝手に小さくなる。
喉が鳴らない。
胃が冷える。
影が立った。
動きはゆっくりなのに、空気が一気に重くなる。
肩に見えない手が乗ったみたいに体が沈む。
息を吸おうとして、吸えない。
空気が薄いわけじゃないのに、薄く感じる。
影は、影じゃなかった。
人の形。長い髪。黒い服。
顔は見えるのに、見えない。目の位置は分かるのに、光が届かない。
それでも、声ははっきり届いた。
「……来客か」
低い声。
言葉が落ちるだけで、部屋の温度が下がる。
ミナトの頭の中が真っ白になった。
なのに、口だけが動いた。
配信者の習性だ。
怖くても、まず挨拶する。挨拶できないと、人として終わった気がする。
「こ、こんにちは! えっと、ミナトって言います! 初めて来ました!」
言ってしまった。
言った瞬間、心の中で叫ぶ。
――何やってんだ俺!
でも、もう遅い。
男が、じっとミナトを見た。
視線が刺さる。見られているだけで動けなくなる。
男は静かに一歩近づいた。
足音がしない。
それがまた怖い。
そして、ミナトの手元――スマホに視線が落ちた。
「……お前、その“箱”は何だ」
箱。
スマホのことだ。
その言葉で、ミナトの背筋が凍った。
配信。
赤い丸。
点いてる。
――切り忘れてる。
「……あ」
声が息みたいに漏れた。
今の、全部。
映ってる?
視聴者数の表示が目に入る。
さっきより増えている。
笑うことも、誤魔化すこともできなかった。
ただ、スマホを握りしめたまま固まる。
目の前の男が、ゆっくり首をかしげた。
「答えろ」
低い声が落ちる。
空気がさらに重くなる。
ミナトは喉を鳴らそうとして、鳴らせなかった。
心臓だけが、扉の音みたいに、ぎし、と鳴っていた。
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