第53話 ふわふわパンと過去と未来と
オーブンを開けると、パンの焼ける柔らかで芳しい匂いがキッチンにぶわっと広がった。
わずかに、ほの甘い葡萄の香りが混じったそれに、胸がいっぱいになる。
茶に色づいたシンプルなテーブルロールが並んだ天板を取り出し、作業台の上に置いて、りのは一個をはいっとロゼリアに手渡した。あっつあつのそれを自分もひとつ手に取り、ぱかりと割る。
「わぁ……!」
同じようにパンを割ってみたロゼリアの感嘆が聞こえる。
ところどころ胚芽の粒も混じってはいるが、基本的には白いパンだ。ふかふかだ!
「さ、食べようロゼ。味見だよ」
「は、はい、では、遠慮なく……!」
お手玉のように右と左の掌をいったりきたりさせながら、はむ、とかじりつくと、ぱりっと歯に皮が当たった後は、焼きたてならではの柔らかさが一気に押し寄せる。ほの甘い小麦の味が口いっぱいに広がった。
向こうの世界の高級生食パンのような問答無用の柔らかさではないが、こちらのハードなライ麦パンやサワードゥを使ったパンに比べると段違いの柔らかさと甘さだ。ふわふわというには少し足りない、きゅっとつまったパンだけど、まあ満足! おいしい!
今度は生クリームも入れた生地を試そう。これをベースに総菜パンや甘い菓子パンを作るのもいいなあ。
さらに上を目指すなら、パンに向いた小麦粉、強力粉だけで作ってみたい。今回一番苦労したのが、パンにあった小麦粉を探すことだった。
こちらでは、種類ではなく地域で小麦をわけている。そのため、硬質小麦と軟質小麦が混ざっていることがけっこうあるのだ。パンに向いた硬質小麦と、お菓子に向く軟質小麦は、同じ小麦でも性質がかなり違うので、料理しにくいったらない。今回はなんとか強力粉をメインで作っている産地を教えてもらい、そこを指定して持ってきたもらった小麦で作ったので、まあまあよくできた。
それに、純粋なイーストも培養したい。「鑑定」をガンガン鍛えているので、良質なイースト菌だけをつまんで取り出し、増やすようなこともできるのではないだろうか。それができれば、きっともっとふわふわのパンになるはず!
りのが明るい未来の展望にほくほくしている前で、ロゼリアはうっとりと目を閉じてパンをかみしめている。
ゆっくりと白い頬が動くさまはどこかなまめかしいが、ぱっと開いた眼にはあどけないような喜びが満ちていた。
「リン」
「うん? なあに?」
「おいしいです……!」
いつも控えめな表情のロゼリアには珍しく、満面の笑顔を見せた。かわいい。とてもかわいい。
「やわらかくて、ふわふわで、あつあつで、甘くて……!」
「ふふ、焼きたてだからよけい柔らかいんだよね。冷めても柔らかさや甘さはある程度残ると思うけど」
「それは素敵ですね。――リン、実は私、子どものころにすっぱいものを食べてあたったことがあるんです」
「え、悪くなってたのかな?」
「そうだったみたいです。いえ、私が美味しかったものをこっそり部屋のクローゼットにしまいこんでいて、それを食べてしまったせいなのですが」
一晩、ひどい腹痛で寝込みました、両親にも兄姉たちにも、ものすごく叱られてしまって、としみじみするロゼリア。
なにそれ、すごくかわいい!
くすくす笑うりのに笑い返しながら、ロゼリアは両手で大事にパンを包みながら、言葉をかみしめるように続けた。
「それから私、すっぱいものがとても苦手になりました。騎士になりたければ、体を作るためにも好き嫌いせずに食べなさいと言われて、ほとんどのものは克服したのですが、どうしてもすっぱいものだけは苦手意識が抜けなくて」
「ああ、それじゃあいつものパンはなかなかつらかったでしょう」
「はい……食べられるだけありがたいとわかってはいるのですが、シェフによっては酸味がとても強いパンになりますし、遠征などで日にちのたったパンはとてもすっぱくて、固くて、食べるのも苦痛で、――私、パンがあまり好きではなくなってしまいました」
主食が苦手というのはつらいことだろうなあ、とりのは頷きながら気の毒に思った。
様々な主食を好みや気分で選べるあちらとは違い、この国では主食はパン一択だ。それも基本は酸味の強いパン。
パスタもないしうどんなどの麺類も見たことはない。トウモロコシやソバも見たことがない。そしてなんと、この国ではジャガイモが一般的ではないようなのだ。少なくともりのは見たことがない。
まあ私が知ってる食材なんて、持ってきてもらうものだけだから、市場とかに行けばあるのかもしれないけど、とりのは考える。
「だから、パンが美味しいって思えるのが、とても嬉しいです」
騎士として食べないという選択肢はなかったのだろうし、パンが好きじゃない自分に嫌悪もあったのかもしれない。ロゼリアは食べること自体は好きみたいだから、毎食出てくるパンが好きでないというのはきっとつらかっただろう。
だからこんなにうれしそうに、喜んでいるのかもしれない
りのはロゼリアに笑いかけた。
「うん、ロゼが喜んでくれたらとっても嬉しい。今は難しいけど、いつかウェルゲアでも、このパンが普通に食べられるようになって、堅いパンと柔らかいパンと選べるようになったらいいね」
「――今すぐは、やっぱり難しいですか?」
心なしかしょんぼりとしたロゼリアに苦笑した。
「今はね。ねぇロゼ、この作り方を教えるのは簡単なんだよ。でもきっと、それでいろんな問題が起こる」
材料となる干し葡萄の買い占め。レシピの占有争い。今まで流通していたパンの売り上げの減少。それに伴って妨害も山ほど起きるだろう。
そこに貴族の権力争いなんかが絡めば、あっという間に金の亡者どもが群がって独占してしまうに違いない。
みんなが柔らかいパンを選べるなんて状況はとてつもなく遠くなってしまう。
おまけに、レシピを伝えたりのの意見なんて、あっさり無視されるに違いない。
自分の考えたレシピではないので、意見なんてみんなが食べられるように広めてほしいという程度なのだけれど、この国の貴族を信用していないので、今このレシピを広める気はさらさらない。
そういった内心を覆い隠して、りのは笑う。
「その問題に対処できるようにすることが必要だと思うの。だから、もうちょっと状況が落ち着いたら、誰かに相談してみようかなとは思ってるんだ。それまでは私が作るから、その日を楽しみに待っててくれる?」
「リンが作ってくれるのですか? それは申し訳なく」
「いいのいいの。私は柔らかいパンも堅いパンも好きだし、料理も好きだから作るのは問題ないの。他に作りたいパンもいろいろあるから、食べたいものを食べたいときに作っていくつもりなんだ。レノアやイリットやメリルとおいしいパンを食べようね。今までのパンの美味しいアレンジも考えるからね!」
ありがとうございます、と顔を輝かせるロゼリア。
素直な質の彼女は、この件もきちんとアルフィオ宰相に報告として上げてくれるだろう。口止めなどもしていないし。そのうちカーティスにも渡す予定なので、そちらから知る可能性もある。
そうすれば彼は、そして彼の上司であるフィンレー国王はりのの潜ませたメッセージに気づくだろう。
だって彼らは、異世界人の知識が役立つものであること、価値のあるものだということを知っているのだ。
ある程度、条件や状況を整えてから、りのに接触にしてくるに違いない。
レシピの開示は、それからでいい。
『トラブル起こすようなら教えませんので、状況整えてくださいね!』
ふふ、とご機嫌に笑いながら、りのはもう一口ふかふかのパンを頬張った。
お昼はこのパンを使って何を作ろうかなあ、と考えながら。




