第158話 彼女の一生
その日の夜の自由時間を、りのはそわそわしながら待った。
夕飯もちゃんと作って食べたし、お風呂もきちんと入ったが、やはりどこか心あらずだったのだろう。
帰り際にロゼリアが、夜更かししすぎないようにと、どこか緊張したように言っていた。
(私はもちろんだけど、この国の人にとっても気になることよね。だって、聖女たちがこの国の人たちにどんなことを考えてたのかが書いてある可能性が高いわけで)
一通り寝る準備を整えてから、りのは寝室のソファに座った。
テーブルにトルカリアのハーブティーをセットし、メレンゲクッキーの作り置きも出しておく。
ほとんど毎日ネットの小説サイトやホームページで日本語を見ていたのに、あの本で涙を抑えきれなかったのは、人の手のぬくもりがあったからだ。
りのと同じように、カノンと同じように、この世界にむりやり連れてこられて、もしかしたらこの世界で生を終えたのかもしれない人の体温が、その字から感じられた。
初めはアダム氏の英語から訳そうと思っていた。気になることがありすぎたので。だがその後に日本語の本を見たら、やはりこっちからどうしても読みたくなってしまった。
(正直言うと、けっこう怖い)
今のりのには想像もつかないような悲劇で終わっていたら。
小説の主人公が辛い思いをしているのを読んでさえこちらまで辛くなってしまうのに、それが同じようにこちらにさらわれた人の生の声なのだ。
けれど、読まないという選択肢はない。
この世界で生きていくための、そして帰るための情報は、どんな小さなものでもほしい。
そして、それをカノンにも教えたい。自分で読めればそれが一番いいけど、十五の女の子に重すぎる内容だったときは、りのが伝えなければならない。
それはカノンより長く生きているりのの、大人としての矜持だ。
「……よしっ、読むぞ!」
覚悟を決めて、りのはページを開いた。
それは、日本人の女性の手記だった。
彼女がこちらに連れてこられてしばらくしてから書き始めたもので、最初の方は思い出として書かれていた。
一番記憶が生々しい当日に書かれたわけではないのに、深い慟哭と憎しみのような思いが書き綴られている。
それもそのはず、この日本人の女性は、向こうの世界に子どもがいたのだ。
(お母さんだったのね……)
書かれてある向こうの思い出から察するに、おそらくりのより三十年か四十年ほど前に生まれた人のようだ。彼女がいつこの世界に来たのかはわからないが。
当時の女性の常として、高校を卒業後、企業の事務職に就き、結婚と共に退職。そのあとは三人の子どもを育てながら家事に励み、ある程度大きくなってからはパートにも出ていたようだ。
ただ、夫とは早くに死別したようだった。
一番下の子どもが短大卒業間近にこちらへ連れてこられていたらしく、卒業式に出たかった、子どもたちの結婚式に出たかった、孫の顔が見たかったと、繰り返し、何度も何度も綴られている。
初めのころは、向こうでの心残りや憎しみ、叫び、悲しみが乱雑に書きなぐられていて、りのは読みながらぽろぽろ泣いた。
やがて、その激情が少しずつおさまり、日常の記述が増えていく。その辺りからは日々の備忘録のようになっていた。
『この国の国王に言い寄られて本当に腹が立った。気色悪い。禿げでデブのくせに近寄らないでほしい。エロガッパ退散』
『体は若返っても心は還暦近いんだから本当に勘弁してほしい。この国は助平ばっかりだわ』
『政治が腐りきっている。頑張っているのは騎士団だけだ』
うわあ、と顔をしかめるような話もけっこうあった。
『城から出ていくと言ったら、食事に薬を混ぜられて地下に閉じ込められた。腹が立ったので、創造魔術で地下ごと揺らしてやった。やっぱりお仕置きは怖くないとですものねえ。城だけの地震、なかなかうまくいったと思うの』
『洗濯係の女の子が手で洗い物をしていて可哀想だったから、魔術で何とかならないかしらとやってみた。ゴジラの熱線のようになって驚いたわ』
『必要悪という言葉はあるけれど、悪いことは悪いこと。並べてお尻ぺんぺんよ! 大の大人が税金で贅沢して、まったくもう! 風を使って全員一斉にぺんぺんしたら、騎士団からこれ以上はさすがに哀れなのでお許しくださいと言われた。ぺんぺんしただけじゃない、失礼しちゃうわ』
本来はおちゃめで明るい、肝っ玉母ちゃんだったのだろう。そういうちょっと面白おかしい話も、少しずつ増えていった。
『エロガッパがやっと引退したわ! ざまあみろ! 奥さんに文句を言いたてたのがよかったのかも。お高くとまったつんけん女だけど。息子のリュペール君はまともだから、もう少し暮らしやすくなるかしら』
『リュペール君に、城は出てもいいけれど、アトラロからは離れないでほしいと言われた。どうして? 旅行にも行けないの? 帰れないんだからそのくらいいいじゃない』
『ますますこの国が嫌いになる。好きで来たわけじゃないのに、どうして帰れないの。家に帰りたい。子どもたちに会いたい。まり子、健太、宏美に会いたい』
やっと立ち直ったかと思ったら、今度はこの国の人間たちに傷つけられていく、一人の女性の嘆き。
それが、ある日を境に少しずつ幸福の色を帯びていった。
『ウルリックと魔獣退治に出かけた。信頼できる騎士数名と一緒だけど、彼の馬に二人乗りで。馬って揺れるのね』
『ウルリックは濃い茶色の髪で、派手な色をしていないから落ち着く。健太もこのくらい落ち着いたいい男になっていてほしいわ』
『ウルリックが魔術をほめてくれた。私には魔術が合っているのかしら。いやだわ、平々凡々な、特にとりえのないおばさんなのに』
ウルリックとは当時の騎士団関係者、それも結構地位の高い人物のようだった。
少しずつ彼と心を通わせ、やがて結婚したらしい。
還暦のおばちゃんなのにと自嘲しながら、恥じらいながら、それでも恋心は抑えきれなかったようだった。
『私はアトラロから出られないから、城の森の中に一軒家を建ててもらった。あの人と頑張ってためたお金で買った家よりずっと大きくてきれいで、複雑な気分』
『若返ったときは浦島太郎の逆みたいで気持ち悪かったけれど、ウルと二人で歩いていけるならよかったのかもしれない』
『子どもが生まれた。顔立ちは少し私に似ているけれど、色はまんまウル。黒髪の子だったらまり子たちを重ねてしまうから、これでよかったのかもしれない』
聖女としてさまざまに制限され抑圧されながら、一生を全うした。
それでも、筆圧が大分弱まった最後の方のページには、もともとの世界に対する、そして向こうに残してきた子どもたちに対する愛惜があふれていた。
『ウルとの子どもたちもかわいくてもちろん大切よ、そこに差なんてないわ。でも私の故郷は日本なの。まり子、健太、宏美は私のかわいい子どもたち。どんな大人になったかしら。家族はできたかしら。仕事はどうかしら。元気に生きているかしら。幸せでいるかしら。還暦を過ぎて、合わせれば百年以上生きているのに、私はあの子たちが恋しい。日本に、私の故郷に帰りたい』
故郷に帰りたい。
その一言を残して、彼女の手記は終わっていた。
(もう、何も考えないで眠ろう。深夜に考えたって悲しいだけだから)
りのはあふれる涙をぬぐって、ベッドにもぐりこんだ。
今日は私事につき更新はお昼のみとなります。ごめんなさい。
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