ゲームの始まり
沈黙が、刃のように場を裂いた。
誰もが息を潜める中、ただ一人、エミリウスだけが一歩、また一歩と男に近づいていく。
「……ここにあなたがいるってことは、もう……時間がないのね」
独白のような言葉が、彼女の唇からこぼれ落ちた。
シーリウスは、その圧倒的な存在感とは裏腹に、柔らかく、どこか愛しげな眼差しで彼女を見下ろしていた。
まるですべてを見透かすように。
「わかったわ、シーリウス。あなたの“ゲーム”に乗るしかなさそうね」
対峙するエミリウスの青い瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「ゲームを始めましょう。結末は――お楽しみよ」
彼女は次第に自分を取り戻し、背筋を伸ばすと、少し屈んだシーリウスの首に腕を回し、その唇に自らの唇を重ねた。
その唐突な行動に、一同は言葉を失い、ただ見守るしかなかった。
「お互い、楽しみましょう」
シーリウスから離れたエミリウスは、挑むような眼差しで微笑みを浮かべる。
シーリウスの瞳には、愉悦の兆しが宿っていた。
そして、すべてを飲み込んだようなエミリウスの視線と交差し、絡み合う。
ふっと口元に笑みを浮かべ、シーリウスは皆に背を向ける。
「がっかりさせないでくれよ、愛しのエミリウス」
そう言い残し、シーリウスは霧のようにその場から立ち去った。
「エミリウス! 今のは……なんなんだ!?」
恋人たちのやり取りを目の当たりにし、レオニスの胸には言いようのない感情が渦巻いていた。
その熱は怒りとも嫉妬ともつかず、ただ彼の心をじりじりと焦がしていく。
他の仲間たちもまた、言葉を失ったまま、複雑な面持ちでエミリウスを見つめていた。
「話をするわ。ついてきて」
短くそう告げると、エミリウスはくるりと身を翻し、迷いのない足取りで城の外へと歩き出した。
その背中からは感情の一切が読み取れず、ただ静かな決意だけが滲んでいた。
促されるように、レオニスを含む仲間たちは、言葉もなくその後を追った。
彼女の沈黙が、何よりも多くを語っているように思えた。
――その影で、王宮にはどす黒い陰謀が垂れこめていた。
日に日に衰弱していく王の容態を受け、王妃をはじめとする王侯貴族の間では
「早急に次期王を推戴すべきだ」
という声が高まりつつあった。
アルセイン王家には、王位継承権を持つ三人の王子がいる。
第一王子・セリウス・アルセイン。
初代王妃の遺児であり、王族として恥じぬ魔力と高い学識を備えている。
王太子としての資質に不足はないが、何より健康面に恵まれず、床に伏すことが多いため人前に出る機会が少なく、彼を推す貴族は多くなかった。
第二王子・レオニス・アルセイン。
王族に求められる魔力こそ持たないが、それを補って余りある身体能力と豪胆な性格を持ち、王の寵愛も厚い。
その人柄から自然と民の信頼を集め、宰相アグナス・ヴァルトの後見もあり、最も王座に近い人物と目されている。
しかし、レオニス自身に権力欲はなく、冒険者として生きることを望んでおり、奔放な行動も目立つため、王太子擁立の意見は貴族の間で真っ二つに割れていた。
そして、もう一人の有力候補が現王妃ロクサーヌの息子――第三王子・マリオン・アルセインである。
王侯貴族出身の王妃を母に持ち、貴族たちの支持も厚く、王族としての魔力と高い学識を備えている。
しかし、彼もまた権力欲がなく、学者を志している。
問題は、その性格だった。
気弱で心優しい彼は、王としての英断力を欠いていた。
それが、王侯貴族が彼を押し切れない最大の要因である。
つまり、王の器ではないのだ。
マリオン自身もそのことを理解しており、王太子には長子セリウスが就き、補佐としてレオニスが摂政となることを望んでいた。
だが、母ロクサーヌの野望は尽きることなく、マリオンはその母に逆らうことすらできない気の弱さを抱えていた。
王宮の盤上には、静かに駒が揃い始めていた。
そして、誰が最初に動くか――それが、すべてを決っする。
王妃はジリジリと焦りを隠せずにいた。
「王はいつになったら、マリオンを王太子に据える決断をしてくださるのかしら?」
その言葉は誰に向けられたものでもなく、薄暗い私室の空気に溶けていった。
窓の外では、王宮の庭が静かに揺れていたが、王妃の心は嵐のように荒れていた。
王の容態は日々悪化していた。
だが、それは自然の衰えではない。
王妃が密かに買収した侍医が、処方薬に微量の毒を混ぜ続けていたのだ。
急激な死は疑念を招く。
だからこそ、王妃は“ゆるやかな死”を選んだ。
王が退位を決断するまでの時間を、毒と焦燥で削り取る。
だが、思惑通りには進まなかった。
王は頑なに王太子の指名を避け、三人の王子の間で揺れていた。
第一王子セリウスは病弱、第二王子レオニスは奔放、そして第三王子マリオン――王妃の息子は、気弱で王の器ではない。
「このままでは、あの子は玉座に届かない」
王妃は唇を噛み、机の上の書簡に目を落とした。
そこには、ある名が記されていた。
星霜の賢者――シーリウス。
エルナ族の末裔とされ、その知識と魔力で、諸国を放浪し奇跡を数多く残した今は消息不明とされていた男。
王妃は密かに彼を召喚し、私室に招いた。
「あなたの知恵が必要なの。盤を整えて。マリオンを王太子に据えるために」
シーリウスは静かに現れ、王妃の言葉を聞き終えると、薄く笑った。
「盤上の駒は揃っています。あとは、誰が最初に動くか――それだけです」
その夜、王宮の空気は一層冷たくなった。
そして、王妃の策略は、静かに動き始めた。
エミリウスは宿屋の自室に皆を招き入れた。
窓の外には、夜の帳が静かに降りていた。街灯の灯りが遠くに滲み、風が木々を揺らす音だけが、宿の一室に微かな気配を残していた。
ランプの柔らかな光が、木製の壁に淡い影を落とす。誰もが言葉を探しあぐねる中、エミリウスは窓辺の椅子に腰掛け、頬杖をついたまま外を見つめていた。彼女の背中は、どこか遠くを見ているようで、誰もその表情を読み取ることができなかった。
窓の外には、夜の帳が静かに降りていた。街灯の灯りが遠くに滲み、風が木々を揺らす音だけが、宿の一室に微かな気配を残していた。
ランプの柔らかな光が、木製の壁に淡い影を落とす。誰もが言葉を探しあぐねる中、エミリウスは窓辺の椅子に腰掛け、頬杖をついたまま外を見つめていた。彼女の背中は、どこか遠くを見ているようで、誰もその表情を読み取ることができなかった。
レオニスが問いかけようと口を開きかけたが、エミリウスの気配に押し返されるように、口を噤んだ。彼女の沈黙は、どんな言葉よりも重く、誰もがその言葉を待つしかなかった。
やがて、エミリウスはゆっくりと口を開いた。青い瞳が、街の灯りに照らされて静かに揺れる。
「あの男の話をする前に……これから、エミリウス・レイヴェルのある物語を話すわね」
宿の一室。ランプの灯りが揺れる中、エミリウスは窓辺の椅子に腰掛け、静かに語り始めた。声は独白のように、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。
「風の大陸にある、セレナ=ヴェイル公国の貧民街に、一人の孤児の少女がいました。彼女は、ある理由で国を離れなければならなくなり、あてもなく放浪して……たどり着いたのは、炎の大陸にあるソル=マグナ公国だったのでした」
その語り口は、まるで他人の人生をなぞるように淡々としていた。
「エミリウスは、当時十二歳。金も、家も、家族もなく、ただの孤児として街を彷徨っていた。口にできるのは、オアシスの水か、捨てられた残飯くらい……そんな生活を続ける彼女は、ある日、食べ物を求めて『炎の神殿』に忍び込んだのです」
彼女の瞳は、今もその夜の闇を映しているかのようだった。
「供物に手を伸ばしたところで神殿の者に見つかり、捕らえられて……長巫女アゼリアの前に連れていかれました。アゼリアは、彼女の姿を見て気の毒に思ったのか、巫女見習いとして神殿に引き取ることにしのです。そして、彼女に”炎の儀式”を施し、その身に”炎の加護の烙印”を刻んだのでした。」
『……炎の烙印』
ぽつりと、メイアースがつぶやいた。
「なんだ? その”炎の烙印”ってのは?」
レオニスが小声で尋ねると、メイアースはテーブルの中央に身を乗り出し、囁くように答えた。仲間たちも自然と耳を寄せる。
「”炎の烙印”とは、一生を”炎の精霊・イグナリア”に捧げる誓いとして、”炎の儀式”によって魔法経路に刻まれる加護の印です。授けられるには、基本的に”清い身”であることが前提で……つまり、一生の”貞節”を誓わなければならないんですよ」
「”清い身”とか”貞節の約束”って、具体的にはどういう意味だ?」
イザークが眉をひそめて問いかける。
「例外もあるけど、基本的に神殿に仕える者は異性交渉を禁じられているんです。精霊の加護を受ける代わりに、生涯を精霊に捧げるってこと。もしその誓いを破れば……それ相応の罰があるとされています。」
メイアースの声はさらに低くなり、部屋の空気がひときわ重くなる。
そのとき、ガイアスが顔を真っ赤にしながら、もじもじと口を開いた。
「でも……エミリウスは、その……あの髪の長い男に……接吻をしておったぞ」
沈黙が落ちた。
「そうね」
エミリウスの声が、静かに響いた。まるで他人の話を肯定するように、淡々と。
その一言に、誰もが言葉を失った。彼女の過去と現在が、静かに、しかし確かに交差していた。
その声は、まるで自分自身に語りかけるように、静かで、しかし確かな響きを持っていた。
エミリウスは窓辺の椅子に腰掛けたまま、遠く霞む空の向こうに、過去の記憶を見つめていた。
十四歳の頃――。
アゼリアの友人として紹介された男性、シーリウスとの出会いは、彼女の人生を大きく変えた。
青銀に輝く長い髪。
そして、深く底知れぬ星霜の瞳。
その眼差しに見つめられた瞬間、エミリウスは初めて「恋」というものを知った。
シーリウスもまた、彼女を欲した。
彼女の身に刻まれていた『炎の烙印』に触れるため、彼は自らの右手を炎に焼かせた。
痛みを超えて、彼女に触れたその瞬間――烙印は消え去り、二人は禁を破った。
母のように、姉のように接してくれたアゼリアの元を、何も告げずに去ったことへの後悔。
それでも、エミリウスはシーリウスの背を追い、共に放浪の旅へと踏み出した。
彼の傍で、魔術を学び、剣術を磨き、学問に触れ、生きる術を身につけた。
そして、ある夜――初めて結ばれた夜。
その記憶は、静かな叙情詩のように、彼女の脳裏に優しく蘇り、そして過ぎ去っていく。
窓の外に広がる風景は変わらずとも、彼女の胸の内には、あの夜の星々が今も瞬いていた。
そして、紡がれる彼女の物語を、誰も言葉を挟まずに黙って聞いていた。
エミリウスの声は静かだったが、その響きは確かに空気を震わせていた。
「そして……ある日、シーリウスがわたしに提案したの」
彼女の時間は、あの日へと遡っていた。
思い出すだけで背筋が凍る、あの言葉が脳裏に蘇る。
――それは、夜の帳が降りた静かな森の中だった。
焚き火の揺らめきが彼の横顔を照らし、星々が沈黙の証人となっていた。
シーリウスは、炎を見つめながら言った。
「どうやら私は、終わりを迎えそうだ。
過去に封印した魔王因子が、今にも封印を破ろうとしている。
封印が破れれば、私は魔王と化し、すべてを滅ぼすだろう。
エミリウス……君の存在も、記憶も、何もかも忘れて、私は魔の性に飲み込まれ、世界を破滅へと落とす。
だから、エミリウス……君とゲームをすることに決めた。
世界を賭けたゲームを始めよう。
――君が私を殺して、世界の安寧を守るか。
それとも、私が魔王因子に飲み込まれ、己の性に従い、世界が崩壊していく様を見守るか。
二つに一つだ。愛するエミリウス……君が決めるといい。
安寧か――滅亡か……」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の世界は音を立てて崩れた。
愛していた人が、自らの破滅を語り、彼女にその命を託すという現実。
それは告白ではなく、選択だった。
そしてその選択は、彼女の心を引き裂いた。
焚き火の音だけが、沈黙の中で燃え続けていた。
エミリウスは、静かに口を開いた。
彼の言葉――世界をかけた選択の記憶を、仲間たちに告げる。
誰も口を開かず、ただ彼女の声に耳を傾けていた。
その沈黙は、彼女に課された重さを、誰もが理解していたからだった。
「……わたしは、気づいたらイザークの宝物庫から、旅に必要なものをかき集めて逃げ出していたの」
声は震えていなかった。けれど、その言葉の奥にある感情は、誰の胸にも届いた。
「彼の中に潜む”魔王因子”を消し去る方法を探す旅――そう言えば聞こえはいいけど、ただの言い訳だったのよ」
エミリウスは、自嘲するように微笑んだ。
その笑みは、過去の自分を許せないまま、それでも前を向こうとする者のものだった。
焚き火の灯が、彼女の横顔を揺らめかせる。
誰も言葉を返さなかった。
ただその場にいた全員が、彼女の物語の続きを、静かに待っていた。
た。
「でも、運命って言葉は嫌いだけど……逃げられないものって、あるのねー!」
沈黙を破るように、エミリウスが明るく言った。
彼女は笑顔を浮かべ、焚き火の灯に照らされた顔を仲間たちへ向ける。
「わたしが彼に唇を重ねたのは、誓いよ。あれは、始まりの合図ね。
……この“ゲーム”に、わたし達も乗るしかない。盤上は、シーリウスが整えているはず。
なら、わたし達も駒を進めて――勝つしかないわ!」
その言葉には、迷いのない決意があった。
燃えるような青の瞳に宿る光が、焚き火よりも強く、静かに場を照らす。
誰もがその瞳に魅せられ、そして頷いた。
それぞれの胸に、戦う理由が芽生え始めていた。
この物語は、もう彼女ひとりのものではない。
仲間たちの物語として、盤上に刻まれようとしていた。
「盤上とやらは、多分――王位継承権争いだろうな」
レオニスが静かに口を開いた。
その言葉は焚き火の揺らめきに溶けるように、場の空気を変えた。
「彼は王妃の呼んだ客人だ。確か……”星霜の賢者”とやらを、弟のマリオンの師として召喚する願いを、義母上が父上に伝えていたな」
遠い記憶を手繰るように、レオニスは言葉を紡ぐ。
その名が出た瞬間、メイアースが息を呑み、驚愕の声を上げた。
「――”星霜の賢者シーリウス・ノクス・ヴァルディア”ですか!?」
悲鳴にも似たその声に、エミリウスは静かに頷いた。
名前を聞き、イザークも思案するように顎を撫でた。
「何じゃ?あやつは有名なのか?」
大きな体躯には似合わぬキョトンとした顔で、ガイアスが尋ねる。
その問いに、メイアースは目を輝かせながら、熱を帯びた声で語り始めた。
「エルナ族の末裔と噂される稀代の賢者――”放浪の魔力と知恵”の異名を持つ、シーリウス・ノクス・ヴァルディアを知らないんですか!?
定住をせず、各地に数々の奇跡を起こしたと伝説に語られる大賢者ですよ!
知力、魔力、武術――そのすべてにおいて、中央公立図書館の七大司書ですら足元にも及ばないと噂されているんです!
私が憧れる方の一人です!エミリウスさんの師匠が、あんな有名な方だなんて……!」
メイアースの瞳は、憧れと羨望に満ちていた。
その視線がエミリウスに向けられたとき、彼女は少しだけ目を伏せた。
「”星霜の賢者”の噂なら、多少耳にしたことがある」
イザークが低く、静かに口を開いた。
焚き火の灯が彼の横顔を照らし、その瞳には揺るぎない光が宿っていた。
「弱気を助け、強気をくじく――”正義の大賢者様”って噂では聞いてたんだが、エミリウスの話を聞くと、随分身勝手な男だな」
その言葉には、怒気が滲んでいた。
誰かを裁くような鋭さではなく、誰かを守りたいという熱が込められていた。
「俺だったら……惚れた女に、そんな選択は迫らねぇ」
そう言い切ると、イザークは熱い視線をエミリウスに向けた。
その眼差しは、過去の彼女ではなく、今ここに立つ彼女を見つめていた。
エミリウスはその視線を受け止めながら、何も言わずに微かに笑った。
その笑みは、痛みと誇りを抱えた者だけが浮かべられるものだった。
焚き火の揺らめきが静かに場を包む中、レオニスが真剣な面持ちで口を開いた。
「王室は……父上の具合が悪くなったことを皮切りに、今、あまりいい状況とは言えない状態にある」
その声には、王子としての責任と、ひとりの人間としての葛藤が滲んでいた。
「父上が病に伏すやいなや、”王太子擁立”の声があがり始めてな。今や王侯貴族までが動き出している。これが、シーリウスの言う盤上だとしたら、まるで、動く俺たちは王座を奪い合う盤上の駒のようだ」
仲間たちは静かに耳を傾けていた。
「アルセイン王家には、王位継承権を持つ三人の王子がいる。
長兄――第一王子セリウス・アルセイン。初代王妃の遺児で、魔力も学識も申し分ない。
だが、兄上は残念な事に健康面に恵まれず、床に伏すことが多い。人前に出る機会も少なく、彼を推す貴族は少ないのが現実だ」
レオニスは一息つき、焚き火の炎を見つめた。
「次が……俺だ。第二王子レオニス・アルセイン。魔力はないが、身体能力と胆力には自信がある。
幸いなのかどうなのか父上の寵愛も厚く、なぜ俺なのか知らんが、宰相アグナス・ヴァルトの後押しもある。
民の信頼も、ありがたいことに集まっている。
だが、俺自身に王座への欲はない。冒険者として生きたいと願っている。
そのせいで、貴族たちの間では俺を推す声と否定する声が真っ二つに割れている」
その言葉に、エミリウスはそっと彼を見つめた。
彼の奔放さの裏にある、静かな誠実さを知っていたからだ。
「そして、もう一人。現王妃ロクサーヌの息子――第三王子マリオン・アルセイン。
貴族出身の母を持ち、魔力も学識も備えている。貴族たちの支持も厚い。
だが、彼もまた権力欲がない。学者を志していて、こう言ってはなんだが、マリオンは気が弱くて王としての英断力には欠ける。
気弱で心優しい彼は、王の器ではないと見られている。
本人もそれを理解していて、王太子には長兄セリウスが就き、俺が摂政として補佐することを望んでいる」
レオニスの声は、静かに締めくくられた。
その語りは、王宮の盤上に並ぶ駒たちの姿を、誰の目にも鮮やかに映し出していた。
焚き火の灯が揺れる中、レオニスは沈黙を破った。
その声は低く、しかし確かな重みを帯びていた。
「何より疑問なのは、父上のご病状だ」
皆が彼に視線を向ける。レオニスは炎を見つめながら、言葉を続けた。
「父上は元々、体は丈夫だった。胆力もある。
だが、侍医の治療はまったく成果が見られず、白魔法も効かない。
衰弱していく一方だ。……俺は、これには何か裏があるんじゃないかと踏んでいる」
その言葉に、場の空気が張り詰めた。
誰もが、王の病がただの自然な衰えではないことを、薄々感じていた。
イザークが焚き火越しにエミリウスを見た。
彼女の瞳には、すでに覚悟が宿っていた。
そして、彼自身もまた、気づき始めていた。
これはただの王宮の権力争いではない。
これは――シーリウスが仕掛けた「ゲーム」の盤上なのだ。
「駒は揃っている。王妃、王子たち、そして……俺たちもだ」
イザークは静かに呟いた。
その言葉に、アジノが眉をひそめ、メイアースが息を呑む。
「シーリウスは、盤上を整えている。王の病も、王妃の動きも、すべて彼の意図の中にある。
そして俺たちは、知らぬ間にその盤上に立たされている」
エミリウスは立ち上がった。
その瞳は、かつてシーリウスに向けたものとは違う。
迷いを越えた者の、静かな炎が宿っていた。
「なら、わたし達も駒として動くしかない。
でも、ただの駒じゃない。――選ぶ者として、盤上を揺るがす者として――」
その言葉に、仲間たちは次々に頷いた。
王の病の真相を暴き、王妃の陰謀を止める。
そして、シーリウスの「ゲーム」に、ただ巻き込まれるのではなく――挑む。
物語は、盤上の中心へと進み始めていた。
焚き火の炎が静かに揺れる中、エミリウスはぽつりと呟いた。
「とりあえず、これからどう動くのか……。相手の動きを見ながら、私たちも動くしかないわね」
その声は決して大きくはなかったが、場にいた全員の胸に深く響いた。
迷いを越えた者の言葉には、静かな力が宿る。
彼女の瞳は炎の向こうを見据え、すでに盤上の先を読もうとしていた。
仲間たちはその言葉に黙って頷いた。
それぞれが、自分の駒としての役割を胸に刻みながら――
「まず、侍医を探ってみよう。父上のお体が心配だ」
レオニスの声は鋭く、場の空気を引き締めた。
焚き火の灯が彼の横顔を照らし、王子としての威厳が静かに滲み出る。
「アジノ、メイアース。侍医に気づかれぬよう動向を探り、父上の薬から治療法まで、すべて洗い出してくれ」
アジノとメイアースは黙って頷いた。
それぞれの役割を理解し、すでに動く覚悟を固めている。
「イザーク、お前は裏で王妃が何をしているのかを探ってくれ。父上に何か手出しをしてこないよう、影の護衛も頼む」
イザークもまた、無言で頷いた。
その瞳には、任務を遂行する者の鋭さが宿っていた。
「ガイアスと俺は、普段通りに行動しよう。こちらの動きを怪しまれてはかなわん」
その言葉に、ガイアスはレオニスを真っ直ぐに見据え、膝を折って礼を取った。
「レオニス王子の仰せのままに!」
軍人としての礼儀が自然と滲み出たその所作に、誰もが一瞬、感心の眼差しを向けた。
そして何より、今のレオニスには、かつての奔放な姿はなかった。
そこにいたのは、王子然とした風格をまとった、ひとりの「指導者」だった。
「そして、エミリウス。君はシーリウスの動向から目を離さないでくれ。
何かあったら、すぐに報告してほしい」
真剣な声でそう告げられ、エミリウスは思わずレオニスを凝視した。
まじまじと見つめられたレオニスは、居心地の悪さに眉をひそめる。
「な……なんだその目は!」
声を上げるレオニスに、エミリウスは唖然とした口調で言った。
「嘘でしょ?バカレオニスが、ちゃんと王子に見える……」
「バカレオニスとはなんだ!?バカとは!お前、一国の王子捕まえて失礼だぞ!」
たまらず叫ぶレオニスに、エミリウスは平然と肩をすくめて言い放った。
「だって、遺跡探索の時は正直、足でまといだったじゃない」
その言葉に、レオニスを除く全員が、無言で頷いた。
焚き火の灯が揺れる中、場には一瞬だけ、穏やかな笑いが広がった。
だがその笑いの奥には、確かな絆と、これから始まる戦いへの覚悟が、静かに息づいていた。
翌日から、アジノは王の肖像画を描くという王命を受けたとして、リアリティを増すために王の普段の生活をスケッチするという名目で、王の執務室や、寝室へ堂々と出入りを始めた。
そこで行われる、王の食事や治療風景を精密にスケッチしていった。
メイアースは、白魔道士と、『中央王立図書館』の『副司書』として、王の健康管理を任され、今までの治療方法の記録を調べたり、侍医の治療から食事の献立までつぶさに調べあげた。
また、王に回復魔法を施す王直属の白魔法使いの術を見守り、術式や魔導回路に異常は見られないかを念入りに観察した。
イザークは、隠密部隊の総隊長として、路地裏や街中、宮中の至る所に部下を配置し、隠密部隊ならでわの動きで
噂話や機密情報を集める傍ら、王妃と、表に全く出ないシーリウスの動向に目を光らせ、王の影の護衛を務めた。
特に王の寝所では、怪しい者は全て排除する覚悟で護衛に当たっていた。
アジノは、絵筆を手に王宮の回廊へと向かう。
侍医の動向を探るため、彼は絵師としての立場を利用し、王族の肖像画制作を名目に医務室の近くへ出入りする。
絵の中に密命を隠す技術を持つ彼は、侍医の手元にある薬草や処方を、絵の細部に記録していくつもりだった。
メイアースは、白魔法使いとして王族の健康管理を任されている。
彼は侍医の補佐という名目で医務室に入り、王の治療記録を確認しながら、魔力の流れを診る術を使って病の正体を探る。
白魔法が効かない理由――それがシーリウスの術によるものかどうかを、彼は誰よりも知りたかった。
イザークは、影のように王宮の裏路地へと消えていった。
王妃の動向を探るため、彼は隠密部隊の技術を駆使し、王妃の私室や侍女たちの会話を密かに記録する。
同時に、王の寝所の周囲に目を光らせ、誰かが不審な動きを見せれば即座に排除する覚悟でいた。
ガイアスとレオニス、エミリウスは、あえて普段通りに振る舞た。
ガイアスは、己の騎兵隊を鍛えるべく、普段と変わらず訓練を隊員たちと重ねる毎日。
レオニスは、王室鍛錬場で、護衛兵士相手に剣を振るって鍛錬を重ね、たまにクエストに繰り出すエミリウスにくっついては、手伝うつもりが何かしら邪魔になり、その度彼女に正座させられ、こっぴどく叱られ、時にはどつかれたりしていた。
エミリウスは、『冒険者ギルド』で、クエストを受けつつ、レオニスに邪魔されて、彼を説教し、時にはどついたりして、表向きは平凡な毎日を送っていた。
しかし、影では誰よりもシーリウスの動向に目を光らせていた。
盤上は『王位継承権争い』――駒も揃ってる。
この状況でどう動くのか…予想もつかないまま、内心ジリジリと焦燥に胸を焦がしていた。
五人は時々エミリウスの部屋に集まって定例会を開いていた。
「じれったいな」
ただ何も無く過ぎていく毎日。しかし何かは動き出してる気配はするが、手を出せずにいる自分にレオニスは、焦りを感じて歯噛みした。
王位継承権争いは膠着状態で、進展のないまま王侯貴族が己の権力争いを続けている。
そして、アルセイン王の容態は目に見えない速さだが、確実に弱まっていた。
アジノも首をかしげながらスケッチブックを取り出し、ページをめくりながら
「見てのとおり、特別な異変はないよ。王の侍医が容態を見て治療する様子も特におかしい所はなく、食欲もあまりなさそうだが、それでもしっかり、少しでも召し上がってる……しかし、絵で見てもわかるように、王の顔色、から顔つき、体つきは、徐々にではあるが悪化している。」
イザークが、アジノのスケッチブックをめくりながら
「よく描けているもんだ。」
と感心しながら眺めた。
アジノはテーブルに垂れ下がった赤いマントをバサりと肩に掛け直すと、少し自慢げに
「これでも代々王室直属の絵師・ルクヴェール一族の次期当主だよ?ナメて貰っちゃ困るね!」
と鼻を膨らませた。
アジノの様子に部屋の空気が少し和んだ。
次にメイアースが口を開く。
「侍医の治療薬、処方まで見ましたが、不信な点はありませんでした。白魔法医療も、魔導回路に以上はなく、通常施される『精霊の加護』の強化魔法、魔力を安定させて体の抗体を強める『魔導回路回復魔法』そして、病魔を祓う『身体回復魔法』どれも正常に施され、王の体にある魔導回路にも正常に起動されています」
メイアースも、自身のレポート用紙の束をいくつかめくって、成果を報告した。
そんな中、イザークが鋭い視線をメイアースに向けて、慎重に口を開いた。
「お前さん、『サナーレドロップ』って薬草を知ってるか?」
射抜かれるようなイザークの視線に縮み上がりながら、
メイアースは、自分のレポート用紙をめくる手を止めた。
「”サナーレドロッ”ですか?もちろん知ってますよ。怪我の治癒に使われる古代植物でなかなか手に入りませんが……それが何か?」
突然出てきた薬草名に、メイアースはキョトンとした表情を浮かべイザークを見つめ返す。
「実は部下の報告によると、街の裏路地にある、まぁ、正直真っ当とは言えないであろう薬店でこの”サナーレドロップ”を腕に包帯を巻いた女が買って行ったらしいんだが、あまり市場に出回ってない薬草の上にどうやら、マントから見えた女の服装が侍女の制服だったらしい。しかし、治療に使われるなら……」
と、イザークが何か考え込むように腕を組んだ瞬間、メイアースはあ!と、声を上げた。
「確か……!」
と、メイアースは自分の魔導書を広げ、レポート用紙と組み合わせる。
「あった!」
メイアースは、魔導書を広げ、机の上置くとあるページを指さした。
そこには『サレーナドロップ』と書かれており
「この薬草は古代から外傷の薬として重宝されていたんです!しかし、その取扱と、入手の難しさに、薬店からはほとんど姿を見れなくなった、古代草なんですよ。
今は白魔法も発達してますし、安価で手に入りやすい傷薬が市場に出回ってますからね!見てください。『サレーナドロップ』は、本来傷にすり潰して、患部に塗布するものなんです。
しかし……ここの部分をよく読んでください。
”サレーナドロップ”は、クラレ草・トクニム・アドヴァレースや、レフキェンダース等の強壮作用のある薬草と併用して煮詰めると、微弱ながら毒性を発します。
その症状は”即効性は無いが服薬者の病勢を強化し、体内に蓄積され、臓腑の疾患を引き起こし、頭痛、倦怠感などの症状が出て…”」
メイアースが口を噤むと
「”服薬者を徐々に死に至らしめる…”父上の症状じゃないか!」
メイアースは頷く。
「もちろん薬草だけじゃありません。」
「”トニック”・”ロボランス”・”フォルティス”系の回復魔法が施されてたら病弱は悪化する一方ね」
メイアースの言葉に続けて、窓の外に目を向けながら、エミリウスが呟いた。
「クラレ草やアドヴァレースが王の薬に使われています。更に”トニック”の魔法も施されていますね……」
レポート用紙を捲りながら、王の医療記録と、魔導書を照らし合わせながら、メイアースが独白のように言った。
「しかし……王妃が”サレーナドロップ”を知っていたとは……それにどうやって、僕たちの目を盗んで”サレーナドロップ”の液体を?」
驚きを隠せないメイアースに、エミリウスはボソッと口を開いた
「シーリウスよ」
と、その名を口にした。
「彼は言ったでしょ?”盤上は用意した”と……それが”王位継承権争い”だとしたら、国王も、王妃も――レオニス、あんた達王子達も格好の駒だわ。自分で”駒”だと認めたでしょ?」
エミリウスはこともなげに言い放った。
そして、首を傾げながら魔導書を見つめるメイアースに
「王宮の食事は色んな人間の手を通って、王の口に入るわ。元々薬草の汁なら毒薬反応は示す事の方が稀よ。」
と、メイアースに言うと
「面白いじゃないの……!このわたしを駒にして、ゲームを始めたこと、アイツに後悔させてやるわ!」
エミリウスは、まるで見えないシーリウスの胸ぐらを掴むような勢いで窓枠を掴むと燃える瞳を皆に向けた。
「イザークのゲームに乗ったからって思い通りに動いてやるもんですか!皆もそうでしょ?あんた達が黙って人の指示で、動くタマじゃ無いって事は遺跡のクエストで旅してよくわかってるわ。」
エミリウスは、ニヤリと口元を歪ませると皆を見回して
「黙って言いなりに動くわけないわよね?」
と、確かめるように皆に言った。
皆も笑みを浮かべて、頷く。
「さー!”思い通りにならない駒”として、番上の上で暴れるわよ!」
エミリウスの決意あるかけ声にみんなは
「おう!」
と声をかけあって、シーリウスと王妃に立ち向かう決心を新たにした。
皆が解散する部屋の中で、イザークだけが残った。
「何?なんか用?」
訝しげに問いかけるエミリウスにイザークは
「ちょっと、これから俺と城までデートしね?」
と、彼女の耳に囁くように耳打ちした。
「はぁ!?デート!?」
イザークの突然の申し出にエミリウスは、素っ頓狂な声を上げる。
「あんたねー。これから何が起こるか分からないってこんな状況で何を……」
と、言いかけてなにかに気づく
イザークは、優雅に礼をすると
「それでは”王の間”まで、ご案内致します。お嬢様」
と、軽くウィンクして手を差し出す。
エミリウスは、その手を取って夜の帳が降りた室内をイザークと共に後にした。
「まさか、貧民街にある古代水路が王宮の水路と繋がっているなんね……」
初めて『空中階段』を使わずに王宮の水路を、イザークと共に歩くエミリウスの声が水路に僅かに反響する。
「この王宮は古代遺跡あとの上に立てられてるからな。下町にも遺跡あとが、ゴロゴロあるだろ?そんな遺跡あとのの一部と繋がってるんだよ。足元気をつけろ。滑るからな」
イザークは後ろにエミリウスを連れて、王宮内部の隠し通路を歩いていた。隠し通路には転々と、ろうそくが灯り、淡い光で通路内を照らしていた。
イザークは、なんの迷いもなく、影が滑るようにエミリウスを気にしながら、王宮通路内を二人で歩いていた。
2人は水路から遺跡の残骸を抜け、言葉を交わすことなく、王宮内部へと足を運んでいた。
エミリウスは、自分のことやイザークの事をあまり詮索せず、静かに寄り添うように行動するイザークには好感が持てた。
「あたしと、シーリウスの事、聞かないの?」
不意に沈黙を破って、エミリウスはイザークに問いかけた。
イザークは言葉が詰まった。本当は聞きたいことが山ほどある。でも、それを根掘り葉掘り聞いてどうする?
彼女に、科せられたゲーム。
元恋人と戦う覚悟を決めた彼女――どれも容易に聞いてはいけないものだと感じ取っていた。
「過去のアンタに興味は無いさ。あんたがなんと言おうと、あの野郎なが言うゲームとやらは始まってるんだろ?だったら、そのゲームとやらに乗っかって、”駒”として、俺は奴の思い通りにならないジョーカーとして動いてやるよ。それが、あんたの望みでもあるんだろ?エミリウス」
一瞬足を止めて、振り返りざまにエミリウスにそうなげかけた。
輝石のような緋色の瞳には、優しさと覚悟が揺らめいていた。
その瞳にエミリウスは、驚くように目を見開くと、口の端に笑みを浮かべて
「そうよ。期待してるわイザーク」
というと、彼女も穏やかな陽光のような優しい光を湛えた瞳でイザークを見返した。
彼女の笑みにシーリウスは口角を上げてニッと笑った。口の端から犬歯が零れる。そんな親しみを感じさせる笑顔だった。
「さ……お嬢様。そろそろ出口だぜ。」
イザークがそういうと、何が仕掛けを引いた
『ガコン』
と音がして、石壁と思っていた場所がスライドして開く。
石壁の扉の向こうは『王の間』に、繋がっていた。
エミリウスが扉を潜ると、石壁は大きな本棚の裏であることがわかった。イザークは順番に本を動かす。すると、本棚は横にスライドして、隠し通路の入口を塞いだ。
「ようこそ……エミリウス・レイヴェル……」
柔らかいが、重圧のある威厳が宿った声が、室内に広がった。
エミリウスは、王座に鎮座する全ての大陸国家を取りまとめる中央国家の頂点に君臨する『セオリス王国』国王・アレックス・アルセイン王の前に立っていた。
エミリウスは慌てて膝を折り、正式礼儀をとった。
続けて、エミリウスの後ろで、イザークが、同様に礼をする。
アルセイン王は、魔導繊維でできている王服を着て、王冠を被り、黒目がちな瞳を携えていた。
たくさんのクッションが、王座の背に、置かれ、アルセイン王は、目に見えて憔悴仕切っていた。
おちくぼんだ眼窩、深いシワが刻まれた顔、やつれきった顔に、筋肉の衰えが見える手足。
それでも王の威厳を損なうことなく、背を伸ばして悠然と玉座に腰掛けていた。
「密命により、イザーク・カルデロ、エミリウス・レイヴェルと共に王に拝謁致します」
キリッとした、王子でも通じるような口ぶりで、イザークはそう言うと、深く礼をした。
「いきなり呼び出して、驚いたであろう……エミリウス」
王は優しく語りかけると、濃い茶色い瞳で彼女を玉座から見下ろした。
「いえ、アルセイン国王に拝謁出来ましたこと、光栄に存じます」
そう、例に乗っ取った挨拶を交わすエミリウスに、王は小さく笑い声を上げた。
「形式ばった挨拶はよい。今日はちと、お主に頼みがあって、そこのイザークに連れてきてもらったんだよ」
齢40を過ぎた王は、壮年の面影は今は見る影もなく、実年齢より年嵩に見えた。
しかし王は、病の進行を示すかのように時々咳をしながら、優しい瞳でエミリウスを見つめた。
「君は、セレナに少し似ているね。色は違うが、そのアーモンド型の瞳や、なにか言いたげに薄く開かれた唇が……彼女も風の大陸の出身だったかな……」
アルセイン王アレックスはエミリウスを見ながら、遠い記憶を遡って、思い出を彼女と重ねていた。
「……は?」
そんな王の独白めいたつぶやきにエミリウスは思わず声をかけた。
王はすまなそうに笑うと
「いや、ちょっとした昔を思い出していたんだよ」
と、どこか懐かしむ視線を宙で漂わせていた。
そんな王の様子をエミリウスとイザークが見守っていると、その視線に気づいたのか、王はハッとして咳払いを一つすると
「エミリウス・レイヴェル」
と、改めて重々しい口調で彼女の名前を呼ぶ。
「はっ!」
さらに礼を深くしてエミリウスが答えると
「これから、其方に密命を下す。第二王子レオニスの、護衛をせよ」
「――は?」
王の命に、エミリウスは思わず聞き返した。
こう言ってはなんだが、レオニスはお馬鹿だが、身体能力が高く、剣の扱いも熟練していて、感も鋭い。
自分の身くらい自分で守れそうなものだか…
とエミリウスが思っていると王は言葉を続けた。
「マリオンの勉学の師として、”星霜の賢者”を王妃が招いたのだが、あれをどうしても儂は信用出来ん。レオニスには其方も気づいておろうが、魔力がない。唯一使える”魔剣・翼の剣”を与えているが、肝心のところでどうもあやつは抜けているところがあってな。魔法戦に持ち込まれたり、陥れられたらどうにもならん。それで、エミリウス、イザークはレオニスの護衛を頼みたい。」
確かに父親。よく息子を見てる。
エミリウスは、レオニスの欠点を上げて息子を気遣う父親の姿に影で小さく笑った。
レオニスも同様に王から、顔を背け小さく肩を震わせている。
「……どうした?何かおかしなことでもあるのかな?」
不遜と捉えかねられない二人の反応を見て、アルセイン王は瞳を少し伏せて、二人に声をかけた。
「自分でも親バカなのはわかっておる。しかし、レオニスは、わしの青春の結晶だ。どうにも儂はあの子が愛おしい。分かった上での命令じゃ」
二人の心中を察し、王は少し顔を紅潮させると、恥ずかしさを隠すため、咳払いをひとつした。
その咳払いが、二人を現実に引き戻す。
また2人が、深く頭を下げると声を揃えて
「密命……賜りました。陛下」
と言うと、アルセイン王は、少し口の端を上げて笑みをつくると
「エミリウス・レイヴェルには、王子護衛の為、王宮への滞在を命ずる」
「――え!?」
アルセイン王の考えもしなかった命令に、エミリウスは驚きの声を上げる。
イザークも何か言いたげだったが、王はそれを手で制し
「仮にも王位継承権を持つ王子の護衛じゃ、片時も離れず、その身の安全を確保するのに、街からの通いは難儀じゃろうて、其方の部屋を王子の部屋の近くに用意させよう。2人して、しかと王子を守るように」
王の打診に断ることができようか?
エミリウスと、イザークは深く礼をして
「王のお心のままに」
と、快諾すると、立ち上がり、もう一度礼をしてその場を後にした。
「なんか言いたげじゃな。アグナス」
王が声をかけると、衝立の裏から、宰相アグナス・ヴァルドが姿を現した。
宰相アグナスは、あごひげをに手をやり、毛を撫でつけるような上下させると少し厳しい目線で2人が、消えた扉に視線をやり
「確かに王子には魔導回路がなく、魔力が、ありません。しかし、剣術、武術は国随一でございます。護衛はイザークと、メイアースの二人で充分では?」
宰相アグナスは不満げに王に進言した。
「なにやらあのエミリウスとやらが、何かしてくれそうで楽しみでな」
そう、イタズラを思いついた子供みたいな様子を見せる王に、宰相アグナスは、呆れたため息をついたのだった。
――翌朝。
エミリウスは一旦宿を引き払い、イザークと共に城入りした。
今度は空中階段を、使っての正規の入城だった。
それは場内に
「王子に魔剣士の護衛がついた」
という王妃側に対しての牽制であり、シーリウスに対しての宣戦布告だった。
「ちょっと――なによ!これー!?」
王子の事実近くの部屋に通されたエミリウスは、その部屋の大きさ、調度品の豪華さに目を剥いた。
どう考えても護衛の部屋ではない。
その上メイドも二人ついて、どう考えても貴族の令嬢レベルの客人扱いだった。
あまりの待遇の良さに呆気に取られてると、イザークが目を細め
「あのおっさん、やろうとしてる事が、透けて見えるんだよ」
と、小さいながらも忌々しそうに呟いた。
入口で立ち尽くすエミリウスとイザークの前に、レオニスとアジノが姿を現した。
レオニスは、魔導絹の白い上下に藍色のマントを軽やかに羽織り、プラチナブロンドの髪が光を受けてきらめいていた。
その姿は、王子としての品格を如実に表していた。
後ろを歩くアジノは、赤い『アカデミーマント』を肩にかけ、白い絹のチュニックを皮のベルトで引き締めていた。
腰にはパレットホルダーと染料入れ、マジックバックを下げ、濃紺のスラックスが彼の容姿に見事にマッチしている。普段の彼の常装だった。
二人が並ぶと、エミリウスは開口一番、目の前の豪奢な部屋を指さして言った。
「レオン……何?この部屋」
レオニスは満面の笑みで振り返り、誇らしげに答えた。
「あぁ、この部屋か?どうだ?気に入ったか?」
その無邪気な問いに、エミリウスは呆れた顔で肩をすくめた。
「……あのね、普通護衛にこんな豪華な客室を与えるバカがどこにいるのよ!しかもメイド付きなんて、悪目立ちするじゃない!」
レオニスは首を傾げ、まったく悪びれずに言い返す。
「そうか?俺付きの護衛なんだから、これくらいの待遇当然だろ?」
その言葉に、エミリウスは地の底を這うような深い息をついた。
「王子の感覚って、ほんとズレてるわね……」
アジノは苦笑しながら視線を逸らし、イザークは肩をすくめて黙っていた。
王宮の高塔にある書斎。
夜の帳が降り、窓の外には星々が瞬いていた。
その光を背に、シーリウス・ノクス・ヴァルディアは静かに立っていた。
彼の指先が、見えない盤上の駒をなぞる。
セリウス、レオニス、マリオン――王位継承権を持つ三人の王子。
そして、その周囲に集う者たち。
護衛、学者、魔導士、影の者。
すべてが、彼の意図通りに配置されていた。
「ようやく、揃ったか……」
低く、満ち足りた声が書斎に響く。
その瞳は、盤上ではなく、盤の“先”を見ていた。
「王位継承権という盤上。
それに伴い揃った駒たち。
それぞれが己の意志を持ち、動き始める。
――美しい。実に、美しい」
シーリウスは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
指先でグラスを回しながら、口元に笑みを浮かべる。
「さあ、始めよう。エミリウス――これはただの争いではない。
これは、安寧と、破壊を“選ぶ者”たちの物語だ。
そして私は、その物語の“語り手”であり、“仕掛け人”である。
君が勝ち、安寧を取るのか、このまま見過ごし傍観者になってしまうのか。実に楽しみだね。」
彼の声には陶酔があった。
だが、それは狂気ではない。
冷徹な知略と、深い確信に裏打ちされた歓喜だった。
――翌朝。
王宮の厨房に、いつもとは違う空気が流れていた。
銀の鍋に火が灯り、香草の香りが立ち上る。
その前に立つのは、エミリウスとガイアス――毒の混入を防ぐためエミリウスの提案で、レオニスの指示として、エミリウスと料理が趣味のガイアスが、王の厨房に立つことになった。
エミリウスはなれた手つきで包丁を操り、味を整え、数々の料理を披露していった。
意外なのはガイアスであった。
その体躯に似合わず、彼は家からレシピ本を持って、大きな体見合わない小さな包丁を巧みに扱い、数々の家庭料理を作っていった。
王の周りの給仕は皆宰相の息がかかった者に入れ替わり、イザークの監視の元、王の前には次々と暖かい料理が運ばれていった。
ご馳走とはいえ、宮廷料理ではなく兵士と冒険者の作った料理だ。見栄えは劣るがその心のこもったある意味『素朴』な食事を王は久しぶりに心から楽しんだ。
その裏で、メイアースは侍医と共に密かに動いていた。
王の衰弱の原因――『サレーナドロップ』という希少薬草の痕跡を突き止めた彼は、解毒のための魔力調整と薬草調合に取り掛かっていた。
メイアースの白魔法の光が、希望の光のように王に注がれた。
数日が過ぎるごとに、王の顔色は少しずつ戻っていった。
声に力が宿り、目に意志が戻る。
侍医は首を傾げながらも、奇跡のような回復に驚きを隠せなかった。
だが、仲間たちは知っていた。
これは奇跡ではない。
それぞれが役割を果たし、ひとつの命を繋いだ結果なのだ。
王の寝室の窓が開け放たれ、秋の風が静かに吹き込む。
その風に乗って、王の回復を祝う夜会の準備が始まっていた。
だが、誰もが知っていた。
この夜会は、祝福だけでは終わらない。
盤上はまだ動いている――そして、次の一手が迫っていた。
数日すると王は完全とは行かないが、良好な回復をみせ、体つきも少しずつ以前のように骨ばった手足に肉がつき、顔色も良くなっていた。
王の回復を祝う夜会は、王宮の大広間で盛大に開かれた。
黄金のシャンデリアが灯り、絹のカーテンが夜風に揺れる。
楽団の奏でるワルツが、祝福と陰謀の狭間を漂っていた。
エミリウスは、アジノの婚約者・フローラに手を引かれ、鏡の前に立っていた。
淡い藍色のドレスに身を包み、髪は緩やかな編み込みでまとめられ、耳元には月光石のピアスが揺れていた。
太腿には、もしもの自体に備え、密かに仕込んだ短剣がひとつ。
フローラは、貴族令嬢とは思えない人柄の良さと、親しみがこもった接し方をする女性だった。
エミリウスの、髪を整えながら
「もし……私に妹がいたらこんな感じなのかしら?ドレスを替えっこしたり、こうやって髪を整えてあげたり……ほら!できたわ。可愛いから見てご覧なさい」
フローラはエミリウスを鏡の前に押し出して彼女の姿を見て、満足そうに微笑んだ。
フローラは、エミリウスの腕をとって
「今日は姉妹として楽しみましょう!仕事があるのは承知してるけど、時には休んで殿方に面倒事はまかせましょ!」
と、エミリウスと腕を組むように会場へ向かった。
夜会の中、エミリウスはレオニスとイザーク、二人からワルツに誘われた。
レオニスは王子らしい優雅さで手を差し出し、イザークは影のような静けさで彼女を見つめていた。
エミリウスは一度だけ迷い、そして微笑んで二人の手を取った。
三人の踊りは、まるで盤上の駒が交差するようだった。
レオニスの手は温かく、イザークの手は鋭く、どちらも彼女を守ろうとしていた。
だがその均衡は、突如現れた暗殺者によって破られた。
黒衣の影が舞踏の輪に飛び込み、刃が閃いた。
目標はレオニスと、国王だった。
エミリウスは即座に短剣を抜き、王を庇うように立ちはだかり、レオニスが剣を抜きイザークが影のように動いた。
だが、混乱の中でイザークの刃が誤って刺客諸共レオニスの肩を裂いた。
急所を突かれた刺客は絶命した。
血が舞い、音楽が止まる。
「反逆者だ!」
という声が響き、イザークはその場で拘束された。
レオニスは痛みに顔をしかめながらも、何かを言おうとしたが、衛兵たちの動きは早かった。
牢に投獄されたイザークの無実を晴らすため、仲間たちは動き始めた。
メイアースは侍医と共に毒の痕跡を纏め、アジノは晩餐の日のスケッチを纏めてメイアースと共に報告資料を纏めた。
刺客に狙われた王は警備兵とともに自室に避難し、
怪我を負ったレオニスは、侍医の治療と、メイアースの白魔法の処置を受けていた。
貴族たちは千々に散り、夜会は中止となった。
誰もいなくなったはずの会場でエミリウスはシーリウスに呼び止められた。
「踊ってくれるか、エミリウス」
彼は静かに手を差し出した。
その瞳は、すべてを見通す者の深さを湛えていた。
音のないワルツの旋律が2人の間に流れていた。
エミリウスは無言で頷き、シーリウスの腕の中へと身を預けた。
「駒が揃った。だが、盤上はまだ動き始めたばかりだ」
「イザークは誤った。だが、それもまた“選ぶ者”の試練だ。君が何を選ぶかで、この物語は形を変える。――さて、どちらを救う?」
シーリウスの声は、舞踏のリズムに乗って耳元に届く。
その言葉に、エミリウスは目を伏せ、そして静かに答えた。
「私は、誰も失いたくない。だから――私が動く」
シーリウスは微笑んだ。
「ならば、盤上は君のものだ。踊れ、エミリウス。選ぶ者として」
夜会の灯が揺れる中、エミリウスの瞳には、もう迷いはなかった。
イザークが反逆者として牢に囚われた日、王宮は事件に騒然していた。
だが、仲間たちは沈黙しなかった。
彼の無実を証明するため、それぞれが動き出していた。
メイアースは、王に盛られた毒――『サレーナドロップ』の痕跡を調査し、侍医と共に解毒の経過を記録していた。
その資料は、毒の性質と回復の兆候を克明に示していた。
一方、アジノは舞踏会の様子を詳細にスケッチしていた。
誰がどこに立ち、誰が動いたか――その絵は、生きているように当時の事実と時間克明に描き綴っていた。
二人はそれらを一つにまとめ、報告書として王に献上した。
さらに、エミリウスはその場で王を庇った自身の証言を提出し、
ガイアスは護衛としての配置位置と、イザークの動きに不審な点がなかったことを証言した。
そして何より、レオニスが自らの傷を負った経緯を語り、イザークの無実を強く訴えた。
審理の場で、証言と資料が重なり合い、真実が浮かび上がる。
王は静かに頷き、イザークの無罪を宣言した。
晴れて牢からイザークは解放され、仲間の元に戻ることが出来た。
だが、真の敵はまだ盤上にいた。
その頃、アジノはロクサーヌ王妃から、マリオン王子との母子肖像画の依頼を受けていた。
彼は言葉巧みに制作期間を引き延ばし、王妃の寝室、私室、マリオンの部屋、自室へと密かに足を運んだ。
絵師としての出入りを利用し、彼は静かに調査を進めた。
そして、王妃の所蔵する絵画の裏に隠された一枚の羊皮紙を発見する。
それは――王暗殺の計画書だった。
筆跡、印章、日付。
すべてが、王妃の関与を示していた。
アジノはこの計画書を王に渡し、王は王妃にその証拠を突きつけ、王宮裁判を設け、そこで正式に王妃はその地位を剥奪され、王室の牢に幽閉されることになった。
王はエミリウスとガイアスの料理、そして『サレーナドロップ』の解毒を完全にし、以前のように国政を摂ることになった。
王宮の空気は、事件の余波を静かに引きずっていた。
王妃ロクサーヌの陰謀が明るみに出たことで、王宮の秩序は一時揺らいだが、仲間たちの尽力によって真実は暴かれ、王の命も守られた。
その中で、マリオン・アルセインは静かに決断を下した。
事件そのものに関与はなかったが、母の罪の重さに耐えかね、彼は自ら王位継承権を放棄した。
「私は、王の器ではありません」
そう告げた彼の声は震えていたが、確かな意志が宿っていた。
王はその決断を受け入れ、王子としての地位は保たれることとなった。
マリオンは学者としての道を選び、より一層勉学に励むようになった。
彼の書斎には、古代語の辞典と魔導理論の書が積み重ねられ、夜ごと灯る蝋燭の光が、彼の静かな誓いを照らしていた。
王はこの一連の出来事に深く思うところがあり、ついに王太子を定める決心をした。
暫定的に、最初に打診されたのは第二王子レオニスだった。
だが、レオニスはこれを辞退した。
「俺は、王座よりも外の風を選ぶ。兄上こそ、王太子にふさわしい。そして……兄上の補佐はやはりマリオンに、任せたい。父上、もう俺を自由にしてくれ。俺は冒険者になってもっとこの世の中を見てみたい」
その言葉に、王は静かに頷き、第一王子セリウス・アルセインを正式に王太子として任命した。
そして、半ば強引にマリオンに、王太子補佐の役を命じた。
病弱ながらも誠実で、王族としての資質を備えた彼の即位は、王宮に安堵をもたらした。
――これで終わった。
エミリウス以外の誰もがそう思ってた。
しかし、彼女は知っていた。
これはシーリウスのしかけたゲーム。
そう簡単に終わりはしないと……
そう――影では、まだ盤上が動いていた。
王妃ロクサーヌは、密かに協力者の手によって牢から解き放たれていた。
その協力者は、王宮の監視の目をかいくぐり、自身の屋敷に彼女を匿っていた。
王位継承権を失ったとはいえ、マリオンはまだ王子である。
その可能性を、ロクサーヌは諦めていなかった。
ある夜、彼女は密かに使いを出し、シーリウス・ノクス・ヴァルディアを呼び寄せた。
屋敷の奥、仄暗い客間で、二人は再び顔を合わせる。
「あなたの知恵が必要なの」
ロクサーヌの声は、かつての威厳を失っていなかった。
「マリオンを、再び盤上に戻したい。彼こそが、王にふさわしい」
シーリウスは黙って彼女を見つめた。
その瞳には、計算と興味が交錯していた。
「盤上は崩れたようで、まだ形を保っている。
駒を戻すには、盤そのものを揺るがす必要がある。
――それでも、あなたは動かす覚悟があるのか?」
ロクサーヌは静かに頷いた。
その頷きは、母としての執念と、王妃としての野心が重なったものだった。
シーリウスは微笑んだ。
「ならば、物語はまだ終わらない。“選ぶ者”が誰であれ、盤上に立つ限り、私は語り続けよう」
夜の帳が深く降りる中、再び駒が揃い始めていた。
そして、王宮の静寂の奥で――新たな一手が、静かに打たれようとしていた。




