古代の遺産――後編――
エミリウスの合図に皆が頷き、それを確認すると、彼女は水を泳ぐように空間の裂け目へと身を投じた。
裂け目を抜けた瞬間、突然重力が全身を襲う。
「ぐはぁ!」
エミリウスはずるりと滑り落ち、どこかの回廊の石畳に叩きつけられた。
続いて、腕を掴んでいたレオニスが彼女の横に落ち、さらにロープで腰を繋いでいた一行――メイアース、アジノ、ガイアス、イザークの順で、次々とエミリウスの上に滑り落ちてきた。
「ぐぇ!」
一人落ちるごとに骨がきしみ、カエルが潰されたような呻き声が漏れる。
「し……死ぬ……」
エミリウスは必死にもがきながら叫ぶ。
「あんた達、いつまでも人の上に乗っかってないで、早く降りて!潰される……!」
叱咤と呻き声が混ざる。
イザークが慌てて立ち上がり、続いてガイアスが
「おお……これはすまん」
と一言謝って立ち上がる。二人が降りただけでも、肺に入る空気の量が格段に増えた。しかし、まだ二人が彼女の上に乗っている。
アジノが
「ごめん! エミリウス!」
と急いで降り、最後にメイアースが
「す、すみません!」
と立ち上がると、ようやくエミリウスの肺が空気で満たされた。
レオニスも立ち上がる。
イザークは、縛る必要の無くなったみんなの縄を腰に差した短剣で切り離していった。
地面に這いつくばるように倒れるエミリウスを見て、イザークが心配そうに声をかける。
「大丈夫か? エミリウス」
その様子を見たレオニスは慌てて彼女の側へ駆け寄り、イザークが肩を抱いて助け起こそうとする反対側の肩を掴む。こうしてエミリウスは、二人の男性に挟まれる形で地面から起こされた。
「ありがと」
短く礼を言うと、軋む肋骨を軽く触診し、深く息を吸って吐いた。どうやら鎧のおかげで骨折はしていないようだった。
体についた土埃を払うように叩くエミリウスの頭上で、レオニスとイザークの視線が静かに交差する。
先に視線を外したのはイザークだった。
彼はエミリウスの肩に手を置き
「男四人も乗っかってたんだ。重かったろ? 大丈夫か?」
と、ガーネットのような深紅の瞳で青い目を覗き込む。
エミリウスは顔が赤らむのを感じ、隠すように髪をかきあげて言った。
「骨も異常ないし、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
どこかつっけんどんな口調だった。
「それはよかった」
イザークは彼女の頭にぽんと手を置き、三日月のように瞳を歪ませて落ち着いた声で軽く撫でた。
その様子を見て、レオニスの心の奥がざわめく。
じっとしていられず、イザークの手を払うようにエミリウスの頭に手を置き、乱暴に撫でると、満面の笑みを浮かべて言った。
「何もなくて良かったな! エミリウス!」
彼女の顔を覗き込んだ瞬間――
スパ――――ン!
小気味よい音が回廊に響き渡った。
エミリウスがレオニスの頬を思い切り叩いたのだった。
青い瞳の奥には怒りの炎が燃えている。
彼女はイザークの碧眼を真正面から捉え、言い放った。
「あんた……何やってんのよ? あれほど軽率な行動は控えろって言ったでしょ? 何聞いてたの? 今回はこれで済んだけど、あんたの軽率な行動ひとつで、皆の命が危険にさらされたのよ」
「エミリウス……」
叩かれた頬に手を当て、レオニスは呆然と彼女を見つめた。
正直、父王以外――いや、父王からでさえ手を挙げられたことはなかった。
それを年下の、しかも女性から渾身の力で叩かれたのは初めてだった。
あまりの衝撃に、レオニスはエミリウスの名を口にする以外、何も言えなかった。
誰も彼女を止めようとはしなかった。
ただ、放り出された場所も分からぬ回廊に、重い空気がのしかかっていた。
「いやー!何があったか知らんけど、綺麗なお嬢さんがそんなに目くじら立てるもんやないて。せっかくの美貌が台なしやろ!」
重たい沈黙を破ったのは、炎の大陸の一部地方で使われる言葉遣いの男の声だった。
皆が落下の衝撃でカンテラを壊してしまい、地面に転がった光る月光石を拾い上げて声の方を照らすと、そこに立っていたのは――なんと、スカルアンデッドだった。
その姿に皆が驚いて飛び退き、反射的に武器に手をかける。
だが、暗闇でも『見えている』のか、スカルアンデッドの男は穏やかな口調で言った。
「まぁまぁ、そんな殺気立たんと。仲良く行きましょうや」
皆を宥めるように、彼は両手を上下に振って、腰にさす剣へてもかけなかった。
「いやぁ、えらい派手に落ちてきたな。ここは“深層回廊”やで。普通はもっと段階踏んで来るもんやけど……裂け目通ってきたんか?」
陽気な口調に反して、ロキスの眼窩の奥には赤い光が揺れていた。その不気味さに、パーティの面々は警戒を強める。
エミリウスが一歩前に出て、剣の柄に手をかけたまま問いかける。
「あんたは……ここの住人なの?」
「せや。ワイはロキス。骸骨の村の門番みたいなもんや。死んでるけど、まぁ、話はできるで」
アジノが小声で呟く。
「骸骨の村……? そんなものがこの塔の中に?」
ロキスは骨の指で頭蓋をぽんぽんと叩きながら、回廊の壁を指差した。
「見てみぃ。この壁画。あんたら、幾つか回廊を降りて来たんなら端々にこの建物って言うてもえぇのかな?この場所…そう!場所や!この場所の根源は幾つか目にしてきたやろ?この場所の成り立ちは一つはワイらの村――“生ける死”の象徴。そしてもう一つは、根を張る巨木。そこには“死せる生”が宿ってる。そして安定の宝玉を竜の始祖が守ってる事で『調和の塔』は均衡を保ってるんや。ここの壁画はその総集編が彫られとる。まあ、階層事に説明説明で少しくどいけどな。1回説明されたらわかるっちゅーねん!て話だけどな。」
ロキスは一人ノリツッコミをして、カラカラと笑った。
イザークが壁画に目を向けると、確かに骸骨の群れと、巨大な樹木が円環の両端に描かれていた。その中央には、宝玉を抱えたドラゴンが浮かんでいる。
「じゃ、ここは壁画の文献通り、エルナ族が作った”安定の根源の回廊”なんですか?」
興味深げにメイアースが尋ねた。
ロキスは頷いた。
「せや。始まりにして終わりの種族。彼らはこの塔の“歪み”を安定させるために、ワイらアンデッドと、あの巨木の力を封じたんや。負と陽――相反する力が交わることで、均衡が保たれる。ワイらはそのためにここにおる」
イザークが眉をひそめる。
「じゃあ……俺たちはその均衡を乱したことになるのか?」
ロキスは肩をすくめた。
「それは分からん。しかし、先だっての地震のおり、ドラゴンの始祖様に何かあったんは確かや。前から”地の力”が滞り始め、何かが起きそうな予感はしてたんや。”次元”が綻び始めてきたんやからな。裂け目を通ってきたってことは、歪みが増えた証拠や。けど、あんたらがここに来たのも、何か意味があるんかもしれへん。塔は、必要な者を引き寄せることもあるからな」
エミリウスは壁画を見つめながら、静かに言った。
「……わたし達は、この塔の最下層に眠るドラゴンの始祖の様子を見に来たの。”地の力”が滞り、均衡が少しづつ崩れ始めてきてるわ。”調和の塔”が少し傾きを見せてるの。その原因を突き止め、元に戻す名目で、この場所の調査を命じられて来たって訳。先の地震で、この場所が姿を出し、調査目的で派遣されてるけど、真の目的は多分前者ね。」
ロキスは骨の顎を撫でながら、にやりと笑った。
「ほんなら、ワイが案内したる。ただし、この階には“試練”がある。均衡を守るための儀式や。通るには、あんたら自身が“歪み”に向き合わなあかん」
ガイアスが槍を構えながら言った。
「試練ってのは、戦いか?」
「戦いかもしれんし、”心の闇”との対話かもしれん。塔はそれぞれに違う顔を見せるんや。ワイは見届け人や。あんたらが通る資格あるか、見させてもらうで」
レオニスがエミリウスに目を向ける。
「どうする?」
彼女はおどけるように肩をすくめると
「やるっきゃないでしょ。ここで止まれば、歪みはさらに広がる。”地の力”の滞りも何とかしないとね。ロキス、案内して。」
ロキスは満足げに手を打った。
「ほんなら、ついてきぃ。骸骨の村を抜けた先に、巨木の根が広がる場所がある。そこが試練の場や。あんたらが均衡に値するか、塔が判断するやろ」
こうして、エミリウスたちはスカルアンデット・ロキスを先導に、塔の深層へと足を踏み入れた。
骸骨たちが暮らす村は、予想に反して穏やかだった。
軋む骨の音と乾いた笑い声が交差する路地には、死者の静けさではなく、長く続く営みの温もりが漂っていた。
石造りの広場には、地下にもかかわらず太陽が柔らかな陽光を降り注ぎ、皆にその恵みをもたらしていた。光は回廊の影を優しく撫で、空間全体に静かな安らぎを与えていた。
「すごい……地下のはずなのに、雲や空、太陽がある……」
メイアースが空を見上げて驚愕の声を漏らす。
「太陽も、空も、水も、土も、なんでもあるでぇ。なんなら食いもんもある。まぁ、食いもんあっても、わてらには意味がないんやが……なんて言うんやろな? 生への執着なんやろか。肉体を持ってた頃の習慣が抜けきらんで、今も昔と同じように暮らしてる。まぁ、その矛盾が“死せる生”として、均衡の一端を担ってるんやろな。」
ロキスの言葉に、誰もがしばし沈黙した。
その後、ロキスの案内で、エミリウスたちは村の中央にある休息所へと通された。骸骨の村人たちは物珍しげに彼らを見つめながらも、敵意はなく、むしろ歓迎の気配すら感じられた。
「ここで少し休んでいき。旅の疲れは、骨にまで染みるもんや。」
ロキスの言葉に、エミリウスは一瞬だけ警戒を緩め、仲間たちに目配せする。
「……少しだけ。警戒は怠らないで。」
皆が頷き、それぞれ腰を下ろした。アジノは広場で大きな紙を広げてスケッチを始め、メイアースは壊れた装備や失われた備品の点検に取りかかり、ガイアスは静かに目を閉じて瞑想に入った。
イザークは少し離れた場所で、太陽の光を見つめながら、エミリウスの背中に視線を向けていた。
彼女は座りながら鎧の留め具を緩め、深く息を吐いていた。肩の力が抜けたその横顔に、イザークはふと目を奪われる。
『あの強さの裏に、どれだけの重圧があるんだろうな』
彼はそっと立ち上がり、エミリウスの隣に腰を下ろす。
「……少しは休めそうか?」
エミリウスはちらりと彼を見て、わずかに微笑んだ。
「この村が、こんなに静かだなんて思わなかった。骸骨たちが、こんなにも穏やかに暮らしてるなんて。」
「死んでも、心は残るのかもしれないな。」
イザークの言葉に、エミリウスはしばし黙りこんだ。太陽の陽光が彼女の瞳に映る。
一方、レオニスは少し離れた場所からその様子を見つめていた。
イザークの隣で穏やかな表情を浮かべるエミリウス。その姿に、胸の奥がざわめく。
『あいつ……あんな顔、俺には見せたことない』
レオニスは拳を握りしめ、陽光に照らされた彼女の横顔を見つめ続ける。怒りでも嫉妬でもない、ただ言葉にならない感情が胸を満たしていた。
彼は立ち上がり、何気ない風を装ってエミリウスへと近づいた。
「エミリウス、喉乾いてないか? 村の連中が水をくれた。」
彼女は驚いたように顔を上げ、少しだけ微笑んだ。もう怒ってはいないようだった。
「ありがとう、レオニス。」
その笑顔に、レオニスの胸が少しだけ軽くなる。
イザークはそのやり取りを見て、静かに立ち上がった。
「俺は少し歩いてくる。村の構造、見ておきたい。」
そう言って背を向ける彼の歩みに、エミリウスは一瞬だけ視線を送った。
空が、広がっていた。
地下にあるはずの骸骨の村に、青く澄んだ空が広がり、太陽が柔らかな光を注いでいる。小川のせせらぎが石畳をなぞるように流れ、骸骨たちがその水辺で静かに暮らしていた。
死者の村とは思えないほど、穏やかで、どこか懐かしい空気が漂っている。
イザークは、ひとりでその川沿いを歩いていた。足音を忍ばせるのは癖のようなもので、誰に気づかれることもなく、ただ水音と風の音だけが耳に届く。
(……こんな場所が、塔の深層にあるとはな)
けれど、心は風景に溶け込めずにいた。
エミリウスのことが、頭から離れない。
出会ってから、まだ日が浅い。
だが、彼女の言葉、視線、怒り、そしてあの一瞬の微笑み――そのすべてが、胸の奥に焼きついていた。
『俺は……何をしている』
彼女の動向を探る。それが自分に与えられた任務だった。王直属の隠密部隊の長として、彼女の力を見極め、必要とあらば排除する。それが影の役目だ。
だが、彼女を見ているうちに、任務の輪郭が曖昧になっていった。
あの目を、あの声を、あの背中を――ただの対象として見ることができなくなっている自分に、イザークは気づいていた。
『惹かれている……? 俺が?』
自分でも信じられなかった。感情を切り離すことに慣れたはずのこの身が、彼女の一挙手一投足に揺れている。任務のために近づいたはずが、気づけばその距離を保つことが苦しくなっていた。
そして、レオニスの存在が、その感情をさらに複雑にする。
彼は王族でありながら、冒険者を夢見る変わり者で、王位継承権争いのさなかに身を置きながら、自由を求める自分とは対極の人間だった。
『だが、あいつは……』
エミリウスに向ける視線は、演技ではなかった。出会って間もないはずなのに、彼女に惹かれている。本人もその感情に戸惑っているのが、見ていて分かる。
『俺と同じだ……』
イザークは立ち止まり、小川の水面に映る自分の顔を見つめた。冷静であるべき自分が、感情に揺れている。任務と心が、真っ向から衝突している。
『俺は、彼女を見張る者としてここにいる。だが、もしこの想いが本物なら……』
彼女の隣に立つ資格が、自分にあるのか。彼女の信頼を裏切ることなく、この感情を抱き続けることが許されるのか。
答えは出ない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。
――彼女の笑顔を、守りたい。
それが任務であろうと、個人の感情であろうと、今の自分にはもう区別がつかない。ただ、彼女が前を向いて歩けるように、その背を守りたい。それだけだった。
イザークは深く息を吸い、空を見上げた。地下にあるはずの空は、どこまでも高く、どこまでも青かった。
「まぁ、人間とさほど変わりないな。むしろ王都の平民街より穏やかで、羨ましくさえあるね。」
イザークが探索から戻ってきて、まず発した感想だった。
ロキスは笑いながら
「わてらは、役目以外はしがらみがあらへん。そこが本当に生きている人間の街との違いなんやろな。平和そのものやで」
と答えた。
エミリウスはライトアーマーの留め金を強く留め直すとすっと立ち上がり
「それじゃ、一息ついたことだし、そろそろ『試練』とやらに挑みに行きましょうか!」
バシッと手のひらと拳を胸の前で打ち合わせ、皆に声をかけた。
「えぇ意気込みや!ほなご一行さん『試練の門』へご案内~!」
ロキスが即席で作った『試練の門』と染料で書きなぐられた案内用の旗が掲げられた。
エミリウス、メイアース、アジノ、ガイアス、イザークは街のスカルアンデットの歓声に見送られ街を後にした。
街を抜けると小川があり、そこを越えた所に樹齢何千何万年とかけていそうな、巨大な大木がそびえ立っていた。
ロキスはその根元まで皆を連れてくると、木の根で覆われた一寸見では分からない、石造りの扉を大地からはみ出た根元からかき分け出した。
「ここが、”試練の門”や。中にはモンスターが居るのか、はたまた幻影か、何が起こるか分からへんが、”己の根源を試される何か”が、潜んでる。それを各自で挑み、クリアしたものだけが、扉の向こうに居らっしゃる”ドラゴンの始祖”様にご対面できるって訳や。わてはここの門番。」
そう言うと、ロキスは首から下げた複雑な形をした、魔法金属でできた棒を取り出すと、門に小さく空いている穴へと差し込んだ。
すると、門は内側から光を放ち、ゆっくりと開いていった。
「ほな!皆さん気張ってや〜」
ロキスに促され、エミリウス一行は門の放つ光の中に身を投じた。
――根源の試練・エミリウス
光の柱に包まれた瞬間、エミリウスの意識は深い闇へと落ちていった。
目を開けると、そこは塔の最上階。だが、誰もいない。仲間の姿はなく、空は灰色に染まり、風は冷たく吹き抜けていた。
「……みんな?」
声は虚空に吸い込まれ、返事はない。
足元には、折れた剣。血に染まったマント。アジノのスケッチブックが、風に吹かれてパラパラと音を立てて、ページをめくっていった。
その最後のページではエミリウスが、みんなの手にかかり、血を流して倒れている絵が描かれていた。
「――なんなのよ……これ……」
エミリウスの驚愕の声が喉に張り付き口から出た声は小さく紡ぐ言葉は震えていた。
そんな彼女の前にひと振りの剣が放り出される。
訳が分からず呆然と投げて寄越された剣を見つめると
「拾え!エミリウス!この裏切り者め!」
と、レオニスの怒声が響いた。
顔を上げると、皆が憎しみの籠った視線で彼女を見つめていた。
「何……?どういうこと?……」
頭が混乱して上手く思考が追いつかないでいると
「――の申し子め!」
聞きたくない言葉をイザークが浴びせる。
「まさか君が――だったなんて……」
認めたくない単語をアジノが口にし
「――傍観者め!」
恐れていた言葉をガイアスが吐き捨てるように言い
背後にメイアースが立っていた。
「エミリウスさん、自分を護るために私を犠牲にしましたね?どうして私を殺したんですか?」
その体は透けていて、胸にはエミリウスの剣が深々と突き刺さっていた。
エミリウスの視界が徐々に歪み、青いアーモンドアイから、一筋の雫がこぼれ落ちる。
それは彼女のしているペンダントヘッドのように……
「違う……!わたしは殺してない!仲間を手にかけるなんて……」
言いかけた瞬間
『仲間?本当にそう思っているの?』
『誰にも干渉されたくない』
『――の傍にいるならひとりがいい……』
『面倒事に巻き込まれるのは御免だわ』
『そう思っていたのはわたし自身でしょ?ねぇ?わたし?』
もう1人の自分が現れ小馬鹿にしたように膝を折ってへたり込むエミリウスの隣にしゃがんで、同じ青いアーモンドアイが、その目を覗き込む。
『誰も信じない。信じられない……私に仲間なんて居ない。必要ない……そうでしょ?”わたし”』
皮肉めいた笑みを浮かべ、もう1人の自分が肩をだき、転がった剣を拾い上げ、彼女に手渡す。
『さぁ、心の重荷など、捨ててしまいなさい。”あの頃”のように……』
耳元で囁きかける。
「そうね……」
エミリウスは剣を受け取り、ゆらりともう1人の自分と共に立ち上がり、皆に剣を向けた。
そして――
「――な……ぜ……!?」
エミリウスが刃を翻して刺したのはもう1人の自分だった。
「お生憎様。こんな安っぽい幻影に囚われるほど、安い女じゃないのわたし。」
そう言うとエミリウスはもう1人の自分に剣を突き立てたまま
「どうせ手にかかるなら――」
武器を構えて、侮蔑の視線を送る仲間たちの元へ手ぶらで駆け出し次々にその刃を受け止める。
「この”仲間”の手にかかって死ぬわ!」
刃を受け苦痛に顔を一瞬歪めるが、その後すぐ微笑みを浮かべて
仲間たちを抱きしめるように両手を広げて
「レオニス、アジノ、ガイアス、メイアース、イザーク…あなた達を信じるわ。」
エミリウスの胸には仲間たちへの想いが去来する、レオニスが水を差し出してくれたこと。アジノが記録を続けていたこと。メイアースが選択を共にしてくれたこと。ガイアスが黙って背を預けてくれたこと。イザークが心配して声をかけ、隣に座ってくれたこと。
彼女は全ての想いをだきしめる。
「わたしは、信じる。彼らは、私を裏切らない。私も、彼らを裏切らない」
「疑念は、わたしの中にある。でも、それを越えて、私は選ぶ。信じることを」
その瞬間、空が晴れ、灰色の雲が裂けて光が差し込んだ。
幻影は消え、仲間たちの声が遠くから届く。
「エミリウス!」
刃を受けた傷は消え彼女は微笑み、歩き出す。
《根源の試練》は、彼女の『信頼』によって打ち破られた。
――根源の試練・レオニス
光の柱を抜けたレオニス。
目を開けた瞬間、レオニスは王宮の玉座の間に立っていた。
天井は高く、壁には重厚な紋章。だが空気は冷たく、誰もいないはずの空間に、宰相アグナス・ヴァルトの姿が現れる。
「感情は不要です。レオニス王子。王家のものに余計な感情は必要ありません。愛?自由?そんな絵空事忘れてください。王家は世界の秩序と民衆の暮らしのためにあり、そのために絶対的な権力が王族には約束されているのです。」
レオニスは拳を握る。その言葉は、幼い頃から何度も聞かされてきた。感情を持つことは弱さ。誰かを想うことは、王族に許されない。
そして、エミリウスが現れる。
彼女は冷たい目で言う。
「あなたはただの駒よ。私のために動いてくれる、それだけの存在」
その言葉に、胸が軋む。彼女に惹かれていた。無邪気な感情だった。だが、それは一方通行だったのか。彼女は自分を利用していただけなのか。
『俺は……必要とされていない?』
玉座の間が歪み、壁が崩れ始める。孤独が、彼を飲み込もうとしていた。
だが、レオニスは仮面を外した。
王族としての顔ではなく、ただの一人の人間として、彼は声を発した。
「それでも、俺は信じる。彼女の意思を。彼女の選択を。俺の感情を押しつけるんじゃない。彼女がどう思おうと、俺は……彼女を尊重する」
その言葉と共に心に炎が立ちのぼる。
体が熱くなり、凍えた心や思考を焼き尽くす。
それは、誰かを想うことを恐れず、相手の意思を受け止める強さだった。
《根源の試練》は、彼の信頼によって打ち破られた。
――根源の試練・アジノ
アジノが光の柱から抜けだす。
目を開けると、アジノは静まり返った戦場に立っていた。
空は墨のように黒く、風は止まり、時間さえ凍ったような空間。足元には散らばった記録スケッチ。インクが滲み、絵が崩れ、誰の表情や情景も読めなくなっていた。
前方には仲間たちの倒れた姿。エミリウスが剣を落とし、イザークが膝をつき、レオニスが血に染まり、メイアースが叫び、ガイアスが沈黙する。
アジノはただ立ち尽くす。手には筆。だが、何も書けない。
もう1人の自分が囁く。
「お前はただの傍観者だ。誰もお前を必要としていない。お前の絵など誰も見ない。」
その言葉は、静かに胸を締めつける。
『僕は……何もできないのか?』
彼はスケッチブックを拾い、ページをめくる。そこには、仲間の思いが籠った絵が描かれていた。
エミリウスが、なにかに迷い、でも打ち砕いて前に進む様子。
イザークが何かに思い悩むが、解消させ、微笑みを浮かべる様子。
なにかに思い悩み、不安を抱えながらも笑顔を絶やさないレオニスの様子。
何かを選ぶことを迷い、しかし決断を下し、覚悟を決めたメイアースの様子。
誰にも言えない苦悩を抱え、でも強い意志で己を律するガイアスの後ろ姿の様子。
それは、誰にも見えない瞬間を、アジノが記録していた証だった。
彼は筆を握りしめる。
「僕は、戦えない。守れない。でも、見届けることはできる。記録することで、彼らの存在を刻むことができる。それが、僕の役割だ」
もう1人の自分が揺らぎ、倒れていた仲間たちがゆっくりと立ち上がる。誰も彼を責めない。むしろ、彼に向かって微笑む。
筆が光を放ち、空間を貫く。
《根源の試練》は、アジノの自己肯定によって打ち破られた。
――根源の試練・メイアース
彼が光の柱を抜けると、意識が中へと落ちていった。
目を開けた瞬間、そこは見覚えのある戦場だった。空は赤く染まり、地面には仲間たちの影が倒れている。風はなく、時間が止まったような静寂の中、私の手には血のついた杖が握られていた。
「……これは、私の選択の結果?」
どこからともなく現れたもう1人の自分が囁く。
「君の判断で、彼らは死んだ。君は、誰も救えない……」
エミリウスが、血の涙を流しながら言う。
イザークが、笑いながら世話向ける。
レオニスが、剣を杖のように突き立てる。
アジノはスケッチブックを閉じ、ガイアスは無言で剣を突き立てる。
私は言葉を失った。私の中にある恐れ
――「また誰かを失うかもしれない」
「自分の選択が、誰かを殺すかもしれない」
――それが、今まさに形となって私を責め立てていた。
『私は……選べない』
足がすくむ。杖が重くなる。選ぶことが、怖い。
けれど、私は知っている。
この恐怖は、私の中にずっとあったものだ。臆病な性格。控えめな態度。けれど、知識だけは誰にも負けないという誇り。それが、私を支えてきた。
そのとき、目の前の光景にもう一つの声が響いた。
「メイアース、あなたの選択を信じる。あたしたちは、共に選ぶ!あんたは独りじゃないわ!」
それは、エミリウスの声だった。幻影ではない、記憶の中の、確かな声。
「あたしたちは、あなたに背負わせたりしない。一緒に選ぶ。一緒に進む」
私は目を見開いた。そうだ!わたしはひとりじゃない。
これまで皆と志を共にし、一緒に歩み進んで来たじゃないか!
「……そうだ。私は、独りじゃない」
私は杖を地に突き立て、仲間の幻影を見据える。
「選ぶことは、怖い。でも、私は逃げない。皆と共に、選んで進む!知恵は、分かち合うものだ」
幻影が揺らぎ、赤い空が裂けて光が差し込む。仲間たちの影が静かに消えていき、私の胸に、確かな温もりが戻ってきた。
私は杖を拾い直し、前を向く。もう、選ぶことを恐れない。仲間と共に歩む道を、自らの意志で選ぶために。
《根源の試練》は、メイアースの勇気と覚悟によって打ち破られた。
――根源の試練・ガイアス
光の柱を抜けると、静寂の中、ガイアスは一人、焼け焦げた村の跡地に立っていた。
空は鉛色に沈み、風は硫黄の匂いを運ぶ。足元には砕けた瓦礫、焦げた木片、そして――血に染まった剣。
彼の手には、かつて振るった槍が握られていた。重く、冷たく、記憶の重みを宿している。
幻影が現れる。
泣き叫ぶ子ども。崩れ落ちる家屋。仲間の断末魔。すべてが、彼の力によって引き起こされた過去の断片。
「お前は破壊者だ。守る資格などない。お前がいる限り、また誰かが死ぬ」
声は、かつての上官のものだった。
――あるいは、もう1人の自分自身の心の声だった。
ガイアスは沈黙したまま、幻影の村を見つめる。
『俺は……守れなかった』
その事実は、消えない。どれほど悔いても、過去は変わらない。彼の手は、確かに誰かを傷つけた。
だが――彼は思い出す。
骸骨の村で、エミリウスが背を預けてくれたこと。イザークが無言で並んで歩いたこと。レオニスが軽口を叩きながらも、彼を信じていたこと。アジノが記録に彼の戦いぶりや普段のたわいない行動をスケッチしていた事。メイアースが庇った彼に感謝の気持ちを伝えた事。
俺は、今を生きている。過去ではなく、今ここにいる仲間のために。
ガイアスは槍を地に突き立て、低く、静かに言った。
「俺は壊した。それは事実だ。だが、今は違う。俺は、守るために戦う」
幻影の村が揺らぎ、炎が静かに消えていく。泣き叫ぶ声が遠ざかり、空に光が差し込む。
ガイアスは槍を拾い直し、歩き出す。過去を背負いながらも、今の仲間を守るために。
《根源の試練》は、彼の覚悟によって打ち破られた。
――根源の試練・イザーク
光の柱を抜けると、イザークは、石造りの回廊に立っていた。壁には王家の紋章。足元には血のように赤い絨毯が敷かれ、空気は冷たく張り詰めていた。
前方に、宰相アグナス・ヴァルドの幻影が現れる。
「塔の歪みの核は、恐らくエミリウスだ。排除せよ。お前の任務は、均衡の維持だ」
その言葉は、かつて耳にした密命と寸分違わぬ響きだった。
イザークは黙って立ち尽くす。手には黒鉄の短剣。影の者として、命令を遂行するために鍛えられた手。
だが、彼の胸には、もう一つの声があった。
エミリウスの声。
あの焚き火の夜、彼女が見せた一瞬の笑み。仲間として、彼女が背を預けてくれた記憶。
幻影が揺らぐ。今度はエミリウスが現れる。だが、その瞳は冷たい。
「あなたは、私を排除するために近づいた。信じていたのに」
イザークの胸が軋む。任務か、感情か。彼女を守ることが、塔を崩すことになるのか。
『俺は……何を選ぶ?』
彼は短剣を見つめる。影としての自分。感情を切り離し、任務に徹すること。それが、これまでの生き方だった。
だが、彼は静かに短剣を地に置いた。
「俺は、命令に従ってきた。だが、今は違う。俺は、彼女を“対象”として見ていない。仲間として、守る」
幻影の宰相が崩れ、エミリウスの幻影が静かに微笑む。
「……ありがとう」
空間が震え、赤い絨毯が消え、壁の紋章が砕け散る。
彼は短剣を拾い直し、背に納める。それは、命令のためではなく、仲間を守るための刃となった。
《根源の試練》は、イザークの意志によって打ち破られた。
《遺跡の最深部》
「イザーク!」
試練を乗り越え、最後に門をくぐって現れたイザークに、仲間たちが声をかけた。
門の向こうに広がっていたのは、数え切れぬ年輪を幹に刻んだ古代樹が繁る森だった。森を横断するように清らかな小川が流れ、サラサラとした音が木々のざわめきと溶け合いながら響いている。
ここにも太陽があった。暖かな陽光が木漏れ日となって森の中に射し込み、緑の陰影を揺らしていた。
「ここが……遺跡の最深部……」
辺りを見回しながら、メイアースが呟く。
「どうやらそのようね」
その言葉に、エミリウスが静かに頷いた。
一行は小川を越え、森の奥へと足を進める。やがて、ひときわ太く、天を突くような大木が姿を現した。
それは、まるで《根源の試練》の門を再現したかのような威容だった。
ただ一つ違っていたのは――その根元に、巨大な竜が踞っていたこと。
ドラゴンの姿は半ば石化しており、岩のような質感が体の半分を覆っていた。
その上には、まるでドラゴンを抱くように巨大樹の根が張り巡らされていた。鱗は光を失い、色も褪せている。人間に喩えるなら、かなり年老いて弱っているような印象だった。
「……あなたが、ドラゴンの始祖?」
エミリウスが、ガイアスとはまた異なる、低く岩が擦れるような不思議な響きを持つ音を喉から発した。
その言葉の意味は誰にも分からなかった。けれど、彼女が何かを語りかけたこと――そして、竜がそれに応えようとしていること――それだけは、全員が確かに感じ取っていた。
年老いたドラゴンは、岩のように重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
「人間がここに来るのは……何千年ぶりか。しかも、我らドラゴンの言葉を操るとはな……」
呻くように紡がれたその声は、人の言葉だった。低く、岩が擦れるような響きが森の静寂に溶けていく。
「あなたは……人の言葉が話せるのか?」
驚きに目を見開いたレオニスが尋ねると、ドラゴンの始祖はゆっくりと首を動かし、答えた。
「千年以上生きていれば、大概のことは理解できるものだ……」
喉の奥から地を震わせるような唸りが響き、森の空気がわずかに揺れた。
「その……ですが、宝玉は!?伝承では、竜の始祖が”安定の宝玉てを護り抱いていると……。ですが、あなたはそれを持っていない!」
メイアースが熱を帯びた声で問いかける。その言葉に、ガイアスが顎を擦りながら思い出したように呟いた。
「そういえば、ドラゴンの壁画には何かを抱えておったのう……」
「宝玉はどうしたんだ?壊れたのか、それとも……」
イザークが冷静に問いかけると、ドラゴンはゴロゴロと岩を転がすような音を立てて、喉を鳴らした。どこか可笑しげな響きだった。
「……あれは宝玉などではない。我らの卵だよ」
「えぇっ!?」
一斉に驚きの声が上がる。
「では、”安定の宝玉”は存在しないということ?それなら、どうやって”調和の塔”やこの回廊の次元を安定させているの?」
エミリウスも、自らの知識と異なる事実に戸惑いを隠せなかった。
竜の始祖は、静かに瞳を閉じた。まるで、遠い記憶を手繰るように。
「我ら”デュボルト”族は、命が尽きる直前に卵を産む。その卵を抱いたまま、静かに自然へ還るのだ」
年老いた竜は、岩のような体をわずかに動かしながら語り始めた。その声は、森の奥深くに響くような重みを帯びていた。
「卵を抱えたまま土に還ることで、その命のエネルギーは”死せる生”となる。やがて卵が孵化し、砕けた殻の欠片を集めて抱くことで、森の精力と卵に残された魔力が融合し、我らは再び命を得る。そして次の世代へと受け継がれていく。そうして”死と生の輪廻”が繰り返され、我らは”永遠”となるのだ」
語り終えると、ドラゴンは疲れた様子で身を伏せ、静かに息を吐いた。
「しかし――その輪廻も、私の代で終わるだろう……」
その言葉に、一同は息を呑んだ。
「えっ!? それじゃあ、調和の塔やこの回廊はどうなるんですか!?」
驚きと焦りを隠せず、メイアースが竜に問いかける。
竜は難儀そうに瞼を持ち上げ、ゆっくりと答えた。
「片方の力だけでは、次元は安定しない。回廊は崩れ、塔は均衡を保てなくなるだろう……。だが、それもまた一つの”運命”かもしれないな」
そう言い残すと、ドラゴンは再び瞼を閉じ、深い眠りに沈んでいった。
「”運命”は流されるものじゃない! 時には流れに身を任せるのも大事だけど、自分で舵を取って、目的地に突き進んでいくのよ!」
エミリウスはそう叫ぶと、力強く拳を握りしめた。
「だから、あえて聞くわ! どうすれば、あなたは卵を産めるようになるの? 何か条件があるんでしょう?」
前のめりになって問いかけるエミリウスに、ドラゴンは億劫そうに身を起こし、重々しく口を開いた。
「……長い年月のうちに、川の流れが変わってしまった。森に水が行き渡らず、”地の力”が滞っている。水量も減り、私は水を飲むことすらできなくなった。体力を失い、卵を産む力も尽きかけている」
ドラゴンはそこで一息つき、静かに続けた。
「もし、かつてのように川の流れが森全体に行き渡り、私が再び水を飲めるようになれば……おそらく、卵を産むこともできるだろう。だが……どうやら”お迎え”の方が早そうだ」
それだけ言うと、竜は疲れ切ったように再び身を伏せ、瞼を閉じた。
「それじゃあ、川を元に戻せば……あなたは卵を産めるのね?」
エミリウスの問いかけに、ドラゴンは目を閉じたまま、低く応えた。
「……おそらくな」
その言葉を最後に、ドラゴンは沈黙した。
エミリウスはアジノの方へ振り返り、声をかけた。
「アジノ、確か遺跡の回廊の彫刻に森の絵図があったわよね? そこに、以前の川の様子は記録されてなかった?」
呼びかけに応え、アジノはマジックバックを探り始める。ゴソゴソと音を立てながら、ぶつぶつと呟いた。
「これ……じゃない、これか? いや、違う……あ、これだ!」
何かを見つけると、慎重にカバンの奥から取り出し、エミリウスに手渡した。
「見つけたよ。森の様子が描かれたスケッチ画だ」
エミリウスが受け取った一枚のスケッチ画を広げると、仲間たちが自然とその周囲に集まり、五つの頭が画の上に並んだ。
「つまり……川上の上流にある泉の水を、このスケッチ画のように森全体に張り巡らせて流せばいいのね?」
エミリウスの言葉に、皆が静かに頷いた。
エミリウスは静かに宝玉が施された、長剣の柄の部分を掲げ、『ウィンデール』と唱えると、彼女の体がふわりと浮き上がり、風に乗ってそのまま上昇していった。
ふわりと宙に浮かび上がる彼女の姿に、メイアースは思わず見とれた。
(……やっぱり、すごい。あれは高等魔法……私にはまだ無理だ)
彼はそっと胸元の魔導書を握りしめた。羨望と、少しの悔しさが胸をかすめる。
エミリウスは森の上空を旋回しながら、地形の変化を観察する。かつて川が流れていた痕跡は、今は干上がり、苔に覆われていた。だが、泉はまだ生きている。流れを導く道さえ整えれば、森は再び息を吹き返すはずだった。
「泉は健在。でも、流れが遮られてる。地形を少し整えれば、森全体に水を巡らせられるわ!」
地上に降り立ったエミリウスの言葉に、イザークがすでに動き出していた。地面を蹴り、岩を跳び越え、枯れた水路の先端に立つ。
「俺が道を切る。水が通るなら、どんな障害でもぶち抜いてやる」
その動きはまるで獣のようだった。瞬発力と判断力で最短の突破口を見つけ、迷いなく駆け抜けていく。
イザークの様子を見たレオニスが、腕をまくり
「よーし!俺も負けてらんないな!」
といって、剣のを鞘を抜くと刃を振り下ろす。
刃が振り起こされる時に繰り出される衝撃波で、水路の余計な障害物や苔を切り、吹き飛ばしていく。
「なるほど……こういう使い方もアリだな。」
レオニスの技にイザークが感心して眺めた。
「魔法は使えないが、貴族の庭園整備は得意だ。水の流れを導くには、角度と美しさが要る」
「角度と美しさで岩はどかせねぇよ」
「だから君が岩を砕き、俺が衝撃波で整える。役割分担ってやつさ」
「……チッ、言い方がムカつく。何なら衝撃波で岩も砕いて頂きたいもんですね」
そう言いながらも、イザークはレオニスの指示に従って岩を砕き、倒木を跳ね除けていく。
一方、メイアースはスケッチ画を広げ、地形と照らし合わせながら水路の分岐点を指示していた。
「この辺りに小さな導水路を作れば、森の北側にも水が届くはず……」
アジノはスケッチブックを片手に、森の古代の水路と、新しい導水路の設置をメイアースと検討している。
ガイアスは無言で岩を持ち上げ、倒木を肩で押しのけていく。その背中は、かつての戦場の破壊者ではなく、今を守る者のそれだった。
やがて、泉から流れ出した水が、ゆっくりと森の中へと広がっていく。
小川が再び歌い始め、木々が葉を揺らし、森が息を吹き返す。
「……流れた」
エミリウスが呟くと、ドラゴンの始祖がわずかに瞼を持ち上げた。
「……水の音……久しいな……」
その声は、かすかに微笑んでいるようだった。
「おお……森が喜んでおる。水の味も、久しい……」
竜の始祖は、前方に流れる小川へと長い舌を伸ばし、勢いよく喉を鳴らして水を飲んだ。その様子は、長年の乾きを癒すかのようで、森のざわめきと調和するように静かだった。
エミリウスは飛行魔法を解き、ふわりと着地すると、竜の目元まで歩み寄った。
「どう? これで卵、産めそう?」
囁くように問いかけると、竜は目を三日月状に細め、満足げに答えた。
「ああ……”地の力”も安定してきている。このまま何事もなければ、五日ほどで卵を産む体力も戻り、産卵できるだろう」
その言葉に、仲間たちは顔を見合わせ、静かに頷いた。
五人は相談の末、竜の始祖の産卵を見届けるまで森に留まることを決めた。
竜の傍らに野営地を設け、穏やかな日々が始まった。
イザークは森を駆け回り、釣り場を見つけては素早く魚を捕らえた。ガイアスはその魚を手際よく捌き、焚き火の上で香ばしく焼き上げる。レオニスは木陰に腰を下ろし、優雅に果物を剥きながら、皆に振舞った。
アジノはスケッチ画を広げ、森の水脈の変化を記録し、メイアースは記録をつけながら、エミリウスの飛行魔法の軌跡を何度も目で追っていた。
『あんな高等魔法を、あんな自然に……やっぱり、すごい』
彼はそっと魔導書を撫でながら、憧れと向上心を胸に刻んだ。
エミリウスは木の枝の上に寝転び、葉の隙間から差し込む光を眺めていた。風が髪を揺らし、森の息吹が静かに彼女の周囲を包んでいた。
こうして、森とドラゴンと仲間たちの間に、静かな時間が流れていった。
夕暮れの森。空は茜色に染まり、木々の影が長く伸びていた。
エミリウスは木の枝に腰かけ、足をぶらぶらと揺らしていた。下ではイザークが、釣った魚を焚き火のそばで黙々と捌いている。
「ねえ、イザーク。あなたって、いつも一人で動いてるけど……誰かと並んで歩くの、嫌い?」
エミリウスの声は、風に溶けるように柔らかかった。
イザークは手を止めず、少しだけ顔を上げる。
「別に嫌いじゃねぇよ。ただ、誰かに合わせると、遅くなる」
「ふふ、速さがすべて?」
「……違う。速さは、選べる自由だ」
その言葉に、エミリウスは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、わたしが隣にいたら、合わせてくれる?」
イザークは魚を火にかけながら、短く答えた。
「……お前なら、置いてかなくても済みそうだ」
エミリウスは枝の上で笑った。風が彼女の髪を揺らし、焚き火の光がその横顔を照らす。
少し離れた場所で、レオニスは果物を剥く手を止め、二人の様子を静かに見つめていた。
彼の目は、どこか遠くを見ているようで、けれど確かに二人を捉えていた。
「……ああいうの、いいな」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
その声は、焚き火の音にかき消され、誰にも届かなかった。
五日目の朝、森は静かだった。
霧が地を這い、陽光が木々の隙間から柔らかく差し込む。小川のせせらぎが、まるで子守唄のように響いていた。
ドラゴンの始祖は、根を張る大樹の下で身を横たえていた。その巨体がわずかに震え、深く、ゆっくりと息を吐く。
ドラゴンの予想通り、産卵の瞬間を迎えた。
「……始まるぞ」
ガイアスが低く呟いた。
五人は言葉もなく、ドラゴンの傍へと集まった。誰もがその瞬間を、静かに、敬意を持って見守っていた。
ドラゴンの腹部が光を帯び、岩のような鱗の間から淡い輝きが漏れ始める。大地が微かに震え、森の風がざわめいた。
「……これは……」
メイアースが息を呑む。彼の目には、魔力の流れが見えていた。地の力が、ドラゴンの体を通じて卵へと注がれている。
やがて、ドラゴンの胸元から、ひとつの卵がそっと産み落とされた。
それは、淡い金色に輝く、温もりを宿した卵だった。表面には微細な紋様が浮かび、まるで森の記憶が刻まれているかのようだった。
「……綺麗」
エミリウスが呟いた。彼女の声は、風に溶けるように優しかった。
イザークは黙って卵を見つめていた。その瞳には、何かを守る者の覚悟が宿っていた。
レオニスは、手を胸に当てて一礼した。王族としての礼節ではなく、命への敬意だった。
アジノはスケッチブックを閉じた。今は記録よりも、目に焼き付けるべき瞬間だった。
ドラゴンの始祖は、卵をそっと抱き寄せると、静かに目を閉じた。
「……これで、次の命が……」
その声は、風のようにかすかだった。
そして、最後の力を振り絞るように、ドラゴンは爪で胸元の鱗を一枚、ゆっくりと剥がした。
「これは……我が記憶。我が力。我が誓い」
鱗は、淡く光を放ちながら五人の前に舞い降りた。
「お前たちに、礼を言おう。この森を蘇らせ……この命を守ってくれた事に……」
その言葉を最後に、ドラゴンの始祖は静かに息を引き取った。
森は沈黙した。だが、その沈黙は悲しみではなく、命の継承を讃える静けさだった。
五人は、遺された鱗を見つめながら、深く、静かに頭を垂れた。
命は終わった。だが、命は始まった。
遺跡の森を後にした五人は、ドラゴンの鱗を胸に携え、王都へと戻った。
空は澄み渡り、塔の尖端が遠くに見える。旅の疲れはあったが、誰もがその歩みに誇りを宿していた。
王城の大広間。磨かれた石床に五人の足音が響く。重厚な扉が開かれ、宰相と王が玉座の前に立っていた。
レオニス王子は一歩前に出ると、静かに膝をついた。
「父上、そして宰相殿。我ら五人、ドラゴンの始祖のもとへ赴き、森の水脈を復元し、命の継承を見届けて参りました」
王は目を細め、ゆっくりと頷いた。
「……ドラゴンの始祖が、卵を?」
「はい。そして、我らにその鱗を託しました。これは、命の証であり、塔の均衡を守る鍵でもあります」
レオニスが手を掲げると、1枚の鱗が光を帯びて宰相の前に浮かび上がった。
宰相は目を見開き、静かに息を呑んだ。
「……確かに。これは、古代の記録にある“命の鱗”。塔の魔力を安定させるための、根源の触媒……」
エミリウスは一歩前に出て、補足するように語った。
「ドラゴンの命は尽きましたが、卵は生きています。鱗は、次元の安定と命の継承を繋ぐもの。”調和の塔”と”回廊の遺跡”は、これで均衡が保たれるはずです」
イザークは黙って立っていたが、その背には守り抜いた者の静かな誇りがあった。
メイアースは、王の前で魔導書を開き、水脈の復元図と魔力の流れを記した記録を差し出した。
アジノはスケッチブックを閉じ、深く一礼した。
王は立ち上がり、五人を見渡した。
「よくぞ成し遂げた。お前たちの行いは、王国の命を繋いだ。レオニスよ――お前は、王子としてではなく、一人の導き手として、誇るべき働きをした」
レオニスは静かに頭を垂れた。
「我らは、仲間として進みました。誰一人欠けては、成し得なかったことです」
王は微笑み、玉座へと戻る。
「ならば、王国はその絆を讃えよう。塔の均衡は保たれた。だが、命の継承は続く。次なる時代を、共に築いていくのだ」
王は玉座から立ち上がり、厳かに名を呼んだ。
「エミリウス・レイヴェル」
「――は!」
エミリウスは一歩前に進み、片膝を折って深く礼をした。
「この国にいる間、そちには”王立アカデミーによる王室部外顧問魔法剣士”として、マントを授けよう」
王の声は穏やかでありながら、確かな威厳を帯びていた。
それは『中央王室』が外部者に授ける最高の名誉。王国の信頼と敬意の証だった。
「は! 王に四大精霊の加護があらんことを!」
エミリウスは形式通りの言葉で感謝を示し、深く頭を垂れた。
五人は並んで立ち、胸に宿る竜の鱗の光を感じながら、王の言葉を静かに噛み締めた。
謁見の間を出ると、緊張の糸が一気にほどけ、五人は談笑しながら廊下を歩いた。
そのとき――
突き当たりのバルコニーへ続く窓辺、揺れるカーテンの影から、ひとりの長身の男がすっと姿を現した。
繻子のような光沢を持ち、角度によって色が変わる鴉の濡れ羽色の長髪。黒地に銀糸が織り込まれた魔導着を、異国情緒漂う優雅さで纏っていた。
その男は、まるで空気を裂くように静かに歩み出ると、五人の前に立ちはだかった。
男は静かに歩みを止めると、五人の前に立ちはだかった。
そのまま、ゆっくりとエミリウスの前へと歩み寄る。
「久しぶりだね、愛しいエミリウス……」
深灰色の瞳が、彼女を見下ろす。
エミリウスの顔色がみるみるうちに青ざめた。
男は彼女の顎をそっと捉え、薄い唇をわずかに開くと、深く口づけた。
その瞬間、空気が凍りついた。
四人は呆然とその光景を見つめていたが、すぐに違和感に気づく。
エミリウスの様子が、明らかにおかしい。
イザークが反射的に動いた。滑るように彼女の前に立ち、背に隠す。
「……なんだ、あんた」
燃えるガーネットの瞳が、男を鋭く射抜く。
男は静かに微笑みながら答えた。
「自分の恋人に挨拶をしただけだよ」
しれっと放たれた言葉に、空気がさらに張り詰める。
「彼女は喜んでいないようだが?」
イザークの声は低く、猛獣が威嚇するような鋭さを帯びていた。
「……いいの。ありがとう、イザーク……」
エミリウスが彼の影からそっと抜け出し、男の前に立つ。
その瞳には、恐怖と覚悟が入り混じっていた。
「ここまで来たのね……シーリウス」
震える声が、廊下に静かに響いた。
その瞬間、レオニスが一歩前に出る。王族としての威厳を纏いながら、エミリウスの横に立った。
「彼女の意思を尊重するのが、王国の礼儀だ。無礼は許されない」
アジノは静かにスケッチブックを閉じ、エミリウスの背後に立つ。彼の目は冷静で、状況を見極める者の鋭さを宿していた。
メイアースは魔導書を胸に抱え、魔力の流れを探るように男を見据える。そして男の魔力のキャパシティに驚いて目を見開いた。
『――これは!』
ガイアスは無言のまま、エミリウスの隣に立った。その巨体が、まるで盾のように彼女を包み込む。
五人は、自然と彼女を囲むように立ち、男の前に壁を築いた。
男――シーリウスは、薄く笑みを浮かべながら言った。
男は柔らかな口調で、穏やかな低い声を響かせる。
「さあ、私たちのゲームを始めようか」
その唇に浮かぶ笑みは薄く、しかし確かな圧を帯びていた。
その瞬間、空気が変わった。
男の圧倒的な存在感と、得体の知れない圧力が空間を満たす。
五人は本能的に警戒し、身構えようとするが、身体がわずかに硬直していた。
それは恐怖ではない。緊張と、過去の影が重なる予感。
誰もが、次に何が起こるかを見極めようとしていた。




