学び
朝の喫茶店には、今日も変わらぬ光が注いでいる。カップの中のコーヒーが静かに揺れ、窓の外では風が木々の葉を優しく撫でていく。その音は聞こえないけれど、揺れ方で、風の言葉を少しだけ想像できる気がする。
僕はノートパソコンを開き、ゆっくりと呼吸を整える。そしてひとつ、心の内で言葉を転がす。
――この世界の全ては、学びに繋がっている。
そう言うと、大げさに聞こえるかもしれない。だが、僕にとってそれは、真実のひとつだ。
世間で言われる「学び」は、たいてい学校の教室のような印象に縛られている。黒板に書かれた文字を写し、テストで点を取ること。確かにそれもひとつの学びだ。でも、それだけでは到底足りない。人がほんとうに深く学ぶのは、むしろ教科書の外側にあるものたちからだと、僕は思っている。
例えば、子どもが遊びの中で覚えること。鬼ごっこの途中で友達の表情を読む術や、砂場で作った城が崩れるときの儚さ。そんな場面にも、確かに学びはある。負ける悔しさ、譲る優しさ、待つことの大切さ――教えられなくても、心と身体で知っていく。
僕たちは常に、何かを感じ、考え、気づいている。失敗のあとに残る痛み。誰かの言葉に救われた夜。雨の音に、なぜか涙がこぼれた日。それらすべてが、「学び」だ。名前のない気づきこそが、人生を深く耕していく。
思えば、僕自身もそうだった。小説を書くようになったのは、授業では習わない感情の揺れを、自分の手で確かめたかったからだ。どうして人は怒るのか、泣くのか、笑うのか。それらを考え続けてきた。何度も失敗し、何度もやり直し、それでもまた、言葉を探してしまう。
学びは、決して「正解」にたどり着くためだけのものではない。むしろ、問いを増やし、迷いの中に留まる力を育ててくれるものだと思う。だから僕は、すぐに答えを欲しがるよりも、問いを手放さないことのほうに価値を感じるようになった。
道端の雑草にさえ、学びがある。踏まれても、風に吹かれても、そこに生きる力がある。コーヒーの香りが立ちのぼるとき、過去の誰かの記憶に繋がることがある。それだって、僕にとってはひとつの「学び」だ。
誰かと話すときも同じだ。意見が違うとき、そこに苛立ちではなく「なぜだろう」と思えたとき、学びの扉が音を立てて開く。人を変えようとするのではなく、まずは自分が変わること。そこから始まる理解がある。
僕らは、ただ生きているだけでも、学んでいる。心が揺れた瞬間、すでに何かを受け取っている。怒り、喜び、寂しさ、満足――それらすべてが、生きるという営みの中で編まれていく「学びの織物」なのだ。
今、この文章を読んでくれているあなたも、きっと何かを感じている。それが正解である必要はない。ただ、「ああ、そうかもしれない」と小さな風が心を通り過ぎたなら、それこそが、かけがえのない学びなのだと思う。
学びは、教えられるものではない。それは拾い上げるものだ。風景のなかに、誰かの表情に、自分の独り言にさえ、ヒントが隠れている。けれど、それを見つけるかどうかは、自分次第だ。目を凝らす者だけが、それを手に入れる。
今日、僕はこの喫茶店の片隅で小さな学びを拾った。コーヒーの熱で少し曇ったカップの縁に、静かな光が差していた。何気ないその瞬間に、心がふっと動いた。
学ぶとは、感じること。迷うこと。ときには立ち止まり、また歩き出すこと。誰かの言葉にうなずき、自分の思いに気づくこと。
僕たちは、今日もまた何かを学んでいる。そして、それはきっと明日の自分を少しだけ変えてくれる。
この一行も、あなたの中に、何かの種になればいいと思う。芽が出るかどうかは分からない。でも、きっと風が吹いたとき、ふとその存在に気づく日が来る。そんなことを願いながら、僕はまた静かに言葉を綴っていく。