時間
朝の光は、今日も変わらず喫茶店の窓から差し込んでいる。湯気の立つコーヒーカップ、その向こうで、通りを行き交う人々の影が時折ゆっくりと横切っていく。僕はその光の粒子に目を細めながら、ノートパソコンの前で、ひとつの言葉をそっと呟いた。
――時間とは、なんだろうか。
秒針が進む音は聞こえない。けれど、確かに世界は回っている。目に見えない小さな水流のように、僕らの足元をすり抜け、過ぎ去っていく。
「時間は、誰にも平等に流れる」と人は言う。でもそれは、果たして本当だろうか。確かに数字の上ではそうかもしれない。誰の時計にも一日は24時間、朝は東からやって来て、夜は静かにすべてを包み込む。けれど、その一日を「どう感じるか」は、誰一人として同じではない。
楽しいとき、時間は羽根のように軽やかに過ぎていく。友と笑い、物語に夢中になり、創作に没頭するそのとき、時間はふわりと宙を舞い、まるで重力を忘れたかのようにすり抜けていく。一方で、退屈な会議、望まない沈黙、出口の見えない不安の中では、一分一秒が鉛のように重たくなる。それはまるで、同じ川の水が、あるときは軽快なせせらぎとなり、あるときはよどんだ泥流のように感じられるようなものだ。
僕がこの違和感を最初に覚えたのは、小学校の体育館だった。終わる気配のない長話。窓の外の風だけが自由に流れ、僕の時間だけが、そこに取り残された。そのくせ、放課後のゲームの時間は魔法のように過ぎ去り、気づけば夕焼けがすべてを赤く染めていた。
大人になった今も、変わらない。書くことに没頭する数時間は、ほんの一瞬のように感じられるし、言葉が見つからないときの十分は、凍てつく沈黙よりも長く感じる。
だから、僕は思うのだ。「時間が平等である」というのは、事実ではなく慰めなのかもしれないと。本当の時間とは、「感じ方」でできている。
ならば、時間を「どう過ごすか」ではなく、「どう感じるか」が、人生の豊かさを決めるのではないだろうか。目標に向かって計画的に使うのもよい。無駄なく意味のある一日を積み重ねることは、確かに素晴らしい。だが、それだけが正しさではない。
時間を浪費すること。目的もなく、ただ好きなものに沈み込むこと。無駄話、夜更かし、昼寝、独り言。それらの中にも確かに息づいているものがある。それは、言葉にならない「体温」だ。
数字には残らなくても、心に残る時間がある。それは効率の外にある、やわらかな無駄。そしてその無駄こそが、人を人たらしめるのだと思う。
時間を硬貨のように「得するか」「損するか」で測っていたら、人間の営みは窮屈になってしまう。人生は投資でも、計画表でもない。それは、風にゆれる木の枝のようなものだ。揺れ方に理由などなくていい。ただ揺れているそのことに意味がある。
時間を「使う」のではなく、時間と「一緒に過ごす」こと。それができれば、過ぎていった時間のどれもが、きっと大切なものになる。
そして最も大切なのは――
「悔いなく過ごせたか」という問いに、自分で静かに頷けるかどうか。他人の評価ではなく、自分の胸に問いかけたときに、「あれでよかった」と言えるかどうか。
もし誰かが、僕の時間の過ごし方を笑ったとしても、こう返すつもりだ。「楽しかったよ」と。それで、十分ではないか。
コーヒーの香りが、少しずつ冷めていく。ノートパソコンの上で、カーソルが静かに点滅している。今日の僕は、たぶん、時間に急かされていない。それだけで、少しだけ豊かな気がする。
そして、そっと次の一行を綴る。時間という名の船に乗って、僕は今日も言葉の海をゆっくりと漕いでいく。この時間の流れが、誰かの心に静かに届くことを願って。