人の価値
朝の淡い光が差し込む喫茶店の奥、僕はいつもの席でノートパソコンを開いていた。店内に漂うコーヒーの香りと静かなジャズが、心地よい集中を促す。窓の外で車のエンジン音や人々の行き交う音が聞こえるが、僕の世界はこの木製テーブルの上にある。
――人の価値とは、いったい何だろう。
小説家として、行き交う客や店員の声を耳にしながらも、その問いが頭の中でこだまする。自分自身の価値を定義するための確かな答えは、未だ手にしていない。ただひとつ、胸の奥で確信めいた思いが渦巻いている。――人の価値は、物事をどう考えるかの深度と広がりによって決まるのだと。
その仮説を最初に意識したのは、中学二年生のときだった。美術の時間、クラスメイトが描いた風景画を前に、僕は見慣れない色彩の組み合わせや構図に目を奪われた。なぜその色を選んだのか、なぜその視点で描いたのか。絵を描いた友人に単純な質問を投げかけたところ、返ってきた答えは予想を超えて深かった。「この角度から見ると、いつも気づかない光と影のバランスが際立つから」――その言葉が、中学生の僕の思考の枠を一気に押し広げた。
思考のレベルには階段がある。浅い階層では、目の前にある現象をただ受け止め、感情として反応する。少し深い階層に入れば、なぜそう感じたのか、自分の価値観や背景を見つめ直し、「自分事」として捉え直す。さらに深めれば、社会的・歴史的文脈や哲学的視点を交え、事象を普遍的な視座から問い直すことができる。
一方で、その階段を登ることを放棄したとき、人は浅い価値観に縛られる。人の言葉を受け売りし、自分で考える努力を怠り、流行や権威にただ迎合するだけの存在となる。それはまるで、小さな庭の囲いの中でしか花を咲かせられない植物のようだ。花びらは確かに美しいが、広い大地に根を張り、風雨に晒されながら成長する力とは比べものにならない。
自らの思考を深め広げる――それは余計なエゴを削ぎ落とす作業でもある。僕は自分の文章を読み返すたびに、そこにどれだけの深みがあるかを自問する。言葉は武器にも道具にもなり、ひとたび発せられれば元には戻せない。だからこそ、僕は書く前に何度も自問し、俯瞰し、手を止める。浅薄な言葉で読者の時間を奪いたくはないからだ。
この朝、僕はノートを開き、タイトルをひとつ書いた。
――「人の価値とはモノの考え方なんだろう。」
ペン先にほんの少し力を込め、最初の文章を紡ぎ始め、僕は問いを放つ。そして、問いを文字に変換する作業の中で、自分の思考が鍛えられていくのを感じる。
物事の考え方は、単なる思考の羅列ではない。それは自分自身の軸を形成する営みだ。どの角度から世界を眺め、どの視線で他者を捉え、どの声で自分の意見を届けるのか――その選択の一つひとつが、自分の価値を形作る。浅い視点のままでは、世界は平面図でしかなく、色彩も質感も乏しい。深い視点を獲得すれば、世界は立体的に広がり、見落としていた細部が浮かび上がる。
例えば、通りを行き交う人々を見てみる。ある者は高価な時計を手首に巻き、ある者はスマートフォンに没頭し、ある者は荷物を抱えて足早に歩いていく。表面的には「成功者」「呑気な若者」「働き盛り」といったラベルが貼られるかもしれない。しかし、彼らが何を考え、何を悩み、何を夢見ているかは、外見からは分からない。物事にどれだけ深く想いを巡らせ、自分なりの視座を築いているか――それが見えざる本質であり、人の価値を決定づける。
僕は原稿の行間に、そんな想いを刻み付ける。ひとつの比喩を紡ぎ出し、次に自らの体験を織り交ぜ、最後に読者への問いかけを投げる。書き終えた文章を、何度も読み返し、削り、練り直す。そこにこそ、僕の価値が現れるのだ。
そしてこの物語は、単なる自己完結型の断章では終わらない。これから先、多様なテーマ――時間、愛、技術、自然、社会……あらゆる事柄について掘り下げるための土台となる。各話ごとに異なる「モノ」を取り上げ、その本質を探求することで、僕自身の思考をさらに深め、読者の思考も刺激したいと願っている。
「人の価値とは、モノの考え方のレベルで決まる」――この仮説は、未だ検証の途中にある。だがその検証こそが、小説家としての僕の使命だ。問い続け、考え続ける。その営みこそが、自分を、そして読者を、生きた思考へと導く。
ノートパソコンのキーを打つリズムと、店内に静かに流れるジャズが融け合う。僕は息を吐きながら、次の一行を綴る準備を整える。問いを抱えたまま生きること……それこそが、僕の価値を証明する行為なのだから。