常套的ノスタルジック
一、
「私、ちょうど十八歳のときに子供おろしたの。」
小さな反芻を乗せた鈍行列車は、夕暮れの田舎道をゆっくりと走っていった。先頭車両の一番前、ここが私の特等席だっけ。いつも走ってここまで来て、窓ガラスに鼻を付けて外の迫ってくる景色を見ていた。線路は果てしなく前に伸びている。山の麓から地平線に向かって伸びやかに心地よく敷いてあった。
三車両構成の列車内にほとんど乗客はいない。隣の車両には互いにもたれ合いながら眠る女の子と男の子。両脇を両親らしき男女が挟んで座っている。おそらく観光客か帰省なのだろう。この車両の乗客は立派な黒光りのするカメラを抱えた中年男性と私のふたりきり。男性はぼんやりと焦点の合わない目で流れていく風景を眺める。そんな情景すべてを言語化もせずに絵画を鑑賞するように、私はこの小さな空間に存在していた。
「風景だけは綺麗だから」
この地は昔から確かによく言われていた。しかし、その台詞は常に苦笑と共にあった。
「風景だけは綺麗だけど、何にもないの、なあんにもないんだから」
それは物心つく前から母がずっと繰り返し唱え続けてきた言葉だった。そうか何も、なんにもないのか。今日も、いつもと何ら変わりなく、山の稜線へ太陽は消えてゆく。あまりにも平凡で、なんだか世界のおわりみたいだった。
「私、ちょうど十八歳のときに子供おろしたの。」
これは昨晩の夕食の母の台詞だ。都内の大学に合格し、春から一人暮らしを始めた私にとっての、初めての帰郷の最終日だった。確かテレビでは残暑のニュースから水族館で人気のイルカの話題に移り変わっていた。姉が暑いからと扇風機の風量を“強”にした直後だった。
唐突に放った母のその言葉。その威力がどれだけ凄まじかったことか。
「子供をね、おろしたの。ヒヨリ、今のあなたと同じ歳の時」
もう一度母は繰り返した。ちらりと母と目が合う。二度目のその台詞は一度目よりも小さく、消え入りそうだった。母はゆっくり息を吐き出すと、御味噌汁を啜った。
あの夜の、あの情景はいやらしいほど鮮明に脳内に張り付いている。窓ガラスには気持ち悪いほど大きな蛾がとまっていたこと。あの日に出てきた大根の煮付けが絶品だったこと。父の頭に白髪が少し増えていたこと。姉から嗅いだことのない、いい匂いの香水の香りがしたこと。母の額に皺が増えていたこと。
私が家にいないうちに、少しずつだけれど、確実に取り巻く世界は変化していた。もう、以前の生活が戻ってこないということに気付き、感傷に浸っている矢先に母はなんてことを言うのか。十八の私に何を突きつけたのか。
十八歳の前に母は父以外の男性と関係を結んでいたのか。どこでどう知り合った人だったのか。どんな場所で行為に至ったのか。どんな面持ちで妊娠を確認したのか。おろすことに罪の意識はなかったのか。そしてなぜ、今日娘らに告白するに至ったのか。
口に含んだ沢庵がしょっぱすぎて焦った、ふりをした。
ただ、そうするしかなかったのだ。
○
私の母は都会育ちだった。大学で地方の国立大へ行き、そこで父と出会い卒業後すぐに結婚。父は地方公務員となり、姉が生まれ、私が生まれた。私が生まれる前、つまり両親と姉の三人暮らしの時に家族はトウキョウで暮らしていたらしい。姉が六歳の時に私が生まれ、それを機にこの地まで引っ越してきたのだった。都心から電車を乗り継いで三時間弱。交通の便も悪いこの地に、何故両親は引っ越そうと決断を下したのか。
私が生まれてからも父は、何度か単身赴任を繰り返した。「なんで家族みんなで行かないの? 父さんだけ一人ぼっちは可哀そうだよ」
高校一年の夏、一人東京へ単身赴任する父を気遣って、母に告げた言葉。本音と建て前。実際、少しだけ父のことも可哀そうだとは思っていた。けれど、そんなの本心じゃない。本当は私が都会で生活したかっただけだったのだ。何度も同じ台詞を鸚鵡返しする私を母は、きっと私の下心がわかっていたのだろう。やれやれと苦笑しては、私の肩を優しく小突いた。
「ここが一番いい場所なのよ。私にとってもヒヨリにとっても」
きっと都会にはまだ見たことのないものがいっぱいあるに違いない。山に囲まれる代わりに高層ビルがあるだろうし、発売前の漫画だって沢山あるはず。夜でも街頭で空が明るいって聞くし、朝の駅は人が多すぎて歩けないらしい。きっと芸能人だってそこらへんを歩いているし、流行りの音楽も洋服もすぐに分かるはずだ。
姉から時々、トウキョウに住んでいたころの話を聞いた。しかし姉自身幼かったころの記憶であるから、曖昧なことが多かった。それでも姉の話やラジオや新聞、テレビから想像するその街は、これ以上ないほど輝いていたし、同時にとても遠い存在だった。
そんな私が都内の大学へ進学を志望したのもよく分かる話だろう。私自身、頭はよいほうだった。要領がよかったのか、器用だったのか。両親が逆に教育に対して無頓着だったから、気楽に居られたのだろう。
姉は地元の短大へ進み、今は小さな町工場に勤めている。私には姉の気持ちが知れなかった。何故、地元から離れないのか、理解が出来なかった。せっかく世界は私たちに開いているのに、それに踏み込めばいいのに、それを怠るのか。姉が短大に合格した時、私は憤った。「…えへへ」姉は困ったように頭を掻いた。母も姉と同じような顔をしていたのだろう。都会に住んでいたのに、この片田舎に引っ越してきた母の気持ちもよく分からなかった。しかし、母はトウキョウの多くを語りたがらなかった。いつもは笑って誤魔化していた。その妙に謎のベールに包まれているその存在の大きさが腹立たしく感じた。私の心に何年間居座って、思考を邪魔したことか。
この手で、自分の居場所を都会に作ってやる。
その言葉だけで私は何だって出来た。不可能に思える量の英単語と世界史の年号を暗記し、数え切れない数式を駆使して問題を解いた。クラスメートが放課後、他校の男子と密会しているのも知っている。アルバイトをしているのも知っていた。彼氏がいて、もう処女じゃない友達も幾人か居た。
それでも私は、この狭い世界から抜け出したくて、全身が痒くて仕方なかったのだ。
○
鈍行列車はゆっくりと停車した。やっと終点に到着ようだった。二両目の家族は手を繋いで駅のホームへ降りた。カメラを持った中年男性は名残惜しげに車内で一度シャッターを切った。キャリーケースを引いて、私もあとに続く。まだトウキョウまで遠い。帰路はまだ始まったばかりだ。
空はもう藍色に染まっていた。とても、とても綺麗な色だった。橙色が去って、深い宇宙の色に染まる。その寸前の空。あの男性ではないが、きっとカメラを持っていたら私も夢中でシャッターを切っていたに違いない。しかし、この景色を素直に美しいと思うこと自体が、何かへの敗北を認めることになりそうで、それでもそんな意地を張っている自分が子供みたいで、思考を止めた。
とにかく、今、この瞬間だ。
ひとつに結っていた髪を解く。ひゅるりと風がすり抜けていった。秋ももう近い。
二、
「また何てもの拾ってきたのよ」
中学生の私はいつも彼女の説教ばかりしていた。羽の折れた扇風機に、両目の書かれた達磨。鼻のとれた石膏像。そんなものが私たちの秘密の隠れ家にひしめいていた。
「だって、音がなくて寂しかったんだもの。これまだ使えるって、電池式だから外でも使えるのよ」
それは古びた蓄音器だった。焦げ茶色の塗装に幾重もの傷が付いている。時代はもうCD全盛期だ。世代交代とでもいうように、この蓄音器は廃棄されてしまったのだろう。
「何のレコード持ってきたの?」
「急いでいたから、父さんの書斎から適当に持ってきちゃった。だから何の曲かは流れてからのお楽しみね」
彼女はそう微笑むと、レコードをセットした。彼女の艶のある黒髪がさらりと揺れる。その動きだけで周囲が爽やかに弾けた。
田舎のこの村にはなにもない。ただ、果てしなく広がる田園風景。それに、知らない土地から続いてくる、一本の高速道路が私たちの日常。
あ、という小さな声が上がった直後、籠ったピアノの音が聞こえた。
「ショパンの幻想曲第二番」
言い終えると刹那、彼女は立ち上がりくるりと小さな回転をする。とても可憐なターンだった。
クラスメートのミヤ。小学校まで東京に住んでいたらしい。中学二年のはじめ。席が近く、ヒヨリが話し掛けたのが出会いのきっかけだった。
「それってカフカの『変身』だよね?」
はっとして顔を文庫本から上げる仕草。その肩から滑り落ちる一握りの黒髪。驚きと喜びと警戒心が入り混じったその表情。すべてが新鮮なものだった。新風とでも言おうか、何処か遠くの異国の地からやってきた風のようにヒヨリの心に吹き込んだ。
どきどきする。頬が火照る。新しい出会いは、こうやっていつも突然やってきては日常を何処かへさらってゆく。
本が好きで静寂を好む。男子は苦手で大人も怖い。これらの共通点が自然と私たちを引き寄せていた。気がつけば私たちはお互い心地良い場を求めるかのようにいつも二人でいた。放課後は共に中学の近くにある高速道路の高架下で時間を過ごしていた。二人の会話の数はとびきり多いわけでもない。私たちに会話は必要なかった。
「へえ、ちゃんと再生できるじゃない」
「そりゃあ私だって毎回不良品を持ち込むわけありません」
小さく肩を揺すりながら笑う。彼女の行動は逞しく、同時に乙女らしい。すらりとした身長も白い肌も、透き通るような声も羨ましかった。しかし、彼女には何の嫌味もない。
○
「そういえば、せいり、どう?」
三日前に彼女は初潮を迎えていた。
「うーん、特に痛くもないし。変よね、こんなに血が出てるのに痛くないって」
「お陰で血見るの慣れるね。これからミステリー番組で血とか出ても驚かなくなるのかなあ」
「うっわあ、可愛げのない女ぁ」
彼女は少しおどけて言った。
三日前、学校をミヤは珍しく遅刻した。定刻になっても空席の右斜め後ろを気にしながら、一時間目の数学を受けていた。授業開始から二十分過ぎたころであろうか、教室の後ろのドアが小さな音を立てて開いた。
「すみません、遅れました……」
今にも消え入りそうな声が聞こえる。振り向くとそこにはミヤがいた。一時間目の終了後、ミヤは顔を伏しながらぽつりと呟いた。
「あのね…とうとう生理がね……」
「えっ、せい…!」
思わず大声で言いそうになり、自分の口を押える。クラスの女子のほぼ半数以上はもう生理が始まっていた。その中で彼女と私はまだだったのだ。しかし、ミヤコが一歩先に進んでしまったことが少しだけ寂しく感じた。だが、そんなことを打ち明けられるはずもない。「ええと…こういう時にはおめでとう、なのかな?」
「そうね、なんだか誕生日でもないから変な感じだけど」
「女として新たに誕生したんじゃないの、この世にさ」
ふいにミヤは吹き出した。つられて私も笑う。隣を通りかかった野球部の男子は、怪訝そうな表情を浮かべて足早に通り過ぎて行った。彼からは汗と土と、少し柔軟剤の香りがした。「女って言い方、 新しい!」
「そうかなあ、だってそのまんまでしょ? これから大人の女性になるっていう意味で」
ミヤが顔を上げる。笑ったせいで少し顔が赤くなっていた。
○
夏休みが到来した。朝か昼か分からないような時間に起きだし、そのまま隠れ家へ直行する日々が続いた。私は鼻のない石膏像の隣で適当に漫画や本を読み、彼女は様々な難しそうな本を読んで一日を潰した。
隣にあるひんやりとした石膏像は艶美な女性の像だった。いつも微笑みを浮かべ、宙を見ている。彼女の表情に私は時折、恐怖心を抱くことがあった。私の邪心すべてを見透かしているのではあるまいか、と。しかし、それ以上に言い知れぬ魅力が彼女にはあり、初めて出会う憧れの成熟した大人の女性だった。
「これって何の像なの?」
この石膏像をミヤが持ち込んで来たその日、私は彼女に尋ねた。きっと怪訝そうな顔をしていたに違いない。私は余計なものが空間に増えるのが嫌だったのだ。初めは彼女の拾い癖をどうにかしよう悩んだものだった。しかし、毎日のように何かをせっせと持ち込む彼女の姿に呆れ、同時に慣れてしまった。もう今では何も気にならない。そのことを以前本人に告げたら、「だいぶ汚染されてるね」と苦笑された。
「よく分からないけど、美術室の傍の裏庭に野ざらしにされてたんだ」
野ざらしにされても、石膏像はきっとこの高貴な雰囲気をずっと纏い続けていたのだろう。少しの汚れも気にならないほど、凛と逞しい姿だった。木漏れ日がその石膏像を照らす。石膏像の周り、この空間だけ幻想のような気がした。
「これ、確か歴史の教科書に載っていたような……」
今ではもう知っている。これはミロのビーナスの石膏首像だ。
「今日はもう帰ろうか」どちらともなく呟く言葉が二人の帰りのサイン。夕暮れが空いっぱいに広がる。他愛のない会話で埋め尽くされた二人だけの帰り道だった。この日も相変わらず、悲しくなるほど綺麗な夕景が目の前に広がっていた。ミヤの押す自転車の音と、私たちの足音が田圃道に吸い込まれてゆく。
「私、ここに来てよかったと思うんだ」「トウキョウという場所はなんだかこわいの」出会った当時からのミヤの口癖だ。
「あの場所って自分がわからなくなっちゃうんだ。どこにでも情報とか、活気とか、話し声で街が溢れている。確かに豊かだとは思うよ。何にもしなくても、流行はわかるし世間の動きだって丸見えだもの。
それでもね、自分がなくなるの。それはあっちにいたときには気づかなかった。ここに来てやっと分かったんだ。引っ越してきたはじめは、夜が暗くて、静かで、とにかくびっくりした。でも、自分の存在が確かに分かったの。でも同時に外の世界と自分の輪郭がどんどんあやふやになって、でも確かに私は今この時間を確かに生きてるんだな……って、ふふふ何言っているかわかんないよね」
毎日のように高速道路を見上る彼女。淡々と語る先に何が見えているのか。自分の存在なんて考えたことなかった。生きているから生きているのだし、存在するから存在する。それでいいじゃないか、これ以上考えても答えなどあるわけがない。だって、この地を踏みしめていること自体が正解でしょう? だからミヤ、私はあなたが言ってること、よくわかんないよ。
自分の知らない世界、トウキョウの話をする彼女を私は好いていなかった。自分には考えの及ばない、哲学的なことを彼女は考えて、立派にいろんな世界を知っていて、この片田舎を肯定できる。私はこの土地しか知らない。だからトウキョウについて何も言及することはできないし、ただ月並みな羨望しか抱けない。彼女が高架下で目を伏せ、遥か遠くの街のことを語る度、私の矮小さが突きつけられる。それは決定事項のように、冷酷で、現実味を帯びていた。
不意に彼女の手を取る。こんなに距離はゼロなのに、心は何光年も離れているように感じる。決して分かり合えない。手を取られた彼女は私の方を驚いたように見る。どことなく悲しげな笑みを浮かべ、ミヤは顔をそむけて言った。
「夕陽、綺麗だね。」
○
八月の中旬のある日、いつも通りに隠れ家に行くと、彼女はまだ来ていなかった。レコードが流れていない。ほぼ毎日、彼女のほうが早く到着していたので少し不審に思ったが、気に留めてもしょうがない、とゆっくり腰を下ろした。
レコードの量はこの何週間で増大した。ミヤと私が協力して少しずつ自宅から持ってきたのだ。クラシックもあればジャズもあり、シャンソンもありロックもある。まさに選り取り見取りだ。適当にレコードを抜き取ると蓄音器の針を置いた。陽気にトランペットがスイングする。今日はジャズの日のようだ。
その日は午前中に学校の水泳の授業があった。原則参加だが、ミヤは水泳の授業を極度に嫌がった。体育の授業でも、何かとつけては見学し続けた。勿論今日の授業にも彼女は来ていなかった。「まったく、問題児なんだから」
風が吹いて木漏れ日が揺れた。さわさわという音に合わせて、ジャズのリズムが体を包む。何とも心地よい午後の始まりだった。体がやるせない感じになる。きっとこれは水に浸かったから疲れているんだな、そう思った頃にはミルクティーのような眠りに私は落ちていた。
遠くで名前を呼ばれた気がして、ふと意識が戻った。目の前にはミヤがいた。
「なにがあったの?」
彼女の頬は少し紅潮していた。息も荒い。なんだか落ち着かない様子だった。
「笑わないで聞いて。あのね……。」
そういったきり彼女は口をパクパクさせて、何も言わなくなってしまった。
「もしかして、誰かに告白でもされたの?」
冗談よ、と続けようとした次の瞬間、彼女の表情にはこう書いてあった。
図星だ、と。
彼女の話を簡略化するとこうだ。学校を出た彼女に、同じクラスの少年に入学当時から好いていた旨を伝えられたらしい。それを話す彼女の表情は焦りと恥じらいとそして、少しの歓喜のせいでコロコロと変わった。いつもは気にならない仕草が、その華奢な腕が、艶やかな髪が、私の心の奥底の閉ざしていた感情をいちいち逆撫でした。
なんでこんな気持ちになっているのかしら。ミヤの事を素直に喜べないなんて、なぜこんなに子供みたいな気持ちになっているんだろう。私って馬鹿みたい。それでも、何だか彼女の話が、時折見せる笑顔が、頬の紅潮が、どうも癪に触って。
「でもね私、男の子苦手だから断ろうと思って。だって今十分楽しいもの。ヒヨリとこうやって毎日いるのが、一番私にとっては大事な時間なの」
「ふうん」
ミヤの表情が凍りついたのが分かった。
それ以上に、自分の背筋が凍りついたのが分かった。
嫉妬というべきなのか憎悪というのか羨望というのか。それともただ、劣等感が私一個人に突き付けられただけなのか。一元化出来ない入り混じった感情が私の心を埋め尽くす。
いつもミヤだけが。自分は彼女と比べて劣っていて、そして。いつも私は彼女の隣で背伸びばかりしている。勝手に比較して自分の不甲斐なさに落胆している。生理にしろ、何にしろ。トウキョウへの羨望だって、きっと彼女に植え付けられたものなんだ。今までショートカットしかやってない私が、春から髪の毛切ってないの。わかる、ミヤみたいになりたかったから! 陽に焼けないでおこうと、慣れない日焼け止めを頑張って塗り始めたのも、その白い腕が羨ましかったから。
でもね、知ってるの。どんなに背伸びをしたって、真似をしたって、結局自分に囚われてしまうことくらい。むしろ、そんな自分を眺めるのってとても惨め。
所詮、自分はこの田舎の町しか知らない。これが私の世界だし、それ以外は何も知らない。でもミヤと一緒にいると自分も変われる気がして、そんな期待を寄せている自分がとても気持ち悪くて。無理してその感情を押し込めてたのよ。
やめてよ、私の前でトウキョウの批判なんてしないで。田舎を、ここを肯定しないで。私の無知さが証明されちゃうじゃないの。そんなことを私の前で話すなんて…ミヤは何も考えてなかったかもしれないけど、残酷なことなの。
感情の噴出に自分自身追いついていなかった。どこまで言葉にしてしまったのか、彼女に聞かれてしまったのか。なんて酷いことを私は彼女に言っているのか。
震えが止まらなかった。声はもう掠れている。心臓の音がやかましい。心地の悪い汗が、全身から噴出する。きっと次の言葉を言ってしまったら、おしまいだ。口が震えて、涙が零れて、嗚咽が漏れる。息を吐き出すと同時に、どうしても言わないでおこうと思った台詞が零れ出でた。
——結局は仲良しごっこなのかしら。
目の前がショートする。白昼夢のようだった。地面はゆらゆら揺れているけれども、確かにそこにある。確かに私も起きているし、彼女の気配も感じる。
きっともう、失ってしまった。大切だった友人の目を私は一生直視できないはずだ。そして何より、制御不能になった自分が一番怖い。
私は無我夢中に家へ向かって走り出した。
深く吸いこんだ空気は少し湿気を帯びており、夕立が近いことを知らせた。
その日から、ぐずついた天気が長く続いた。季節の変わり目を暗示するような天候だった。縁側の風鈴は腹立たしいほど静止し続け、高い湿度が気を滅入らせる。
自己嫌悪することさえ、もう飽きてた。何度反芻したって、事実は変えられない。反省という名の現実逃避はしたくない。いくら反省したって、もう失ってしまった。
日めくりカレンダーは薄くなっていった。
トマトの味にキレがなくなった。
お中元で贈られてきたカルピスは、昨日底を尽かせた。
いつの間にか夏休みは終盤に差し掛かっていた。
○
久しぶりの晴れ間。ずるずると音を立てそうなほどの、重々しい気持ちを引きずりながら高架下へと向かう。ミヤとどんな顔をして話せばいいのだろう。結局、私は彼女をどう思っているのか。友達なのか、好敵手なのか、羨望の存在なのか。けれど、今行かなければ一生それが分からない気がした。
蝉の大合唱が少しだけ緩和している。夏本番は知らぬ間にどこかへ去ってしまったようだ。この季節は罪なものだ。毎年、心を奪い去ってしまう。あんなに嫌だった暑さが急に恋しくなる。待って、行かないで。線香花火の今にも落ちそうな先端を必死につなぎとめるように、必死に夏の面影を探す。
高架下近づくにつれて、小さくひび割れたピアノの音がした。ミヤの拾ってきた蓄音器は壊れていなかったらしい。というよりも一度彼女が持ち帰ったのか、定かではない。曲は幻想曲第二番。初めてかけたレコードだった。
高架下に彼女は一人座っていた。
細長い肢体を綺麗に折りたたみ、布切れで石膏像を丹念に拭いていた。石膏像は食い入るように彼女の瞳を見つめる。ひとしきり拭けたらしく、彼女は布切れを地面に置いた。
久しぶりに見る彼女の姿は何だか眩しくて、見てないうちに少しだけ大人に近づいたような気がして胸がざわついた。白い肌が発光している。闇夜よりも滑らかな髪が、木漏れ日を受けて輝いている。雨上がりの高架下にはひっそりとした時間が流れていた。
これ以上美しい情景があっただろうか、鋭い震えが全身を駆け巡った。寒くないのに鳥肌が立って、思考がどんどん動かなくなって、気付けば涙がぽろぽろ零れていた。
「そうか、私は彼女が好きだったんだ」
とっても単純なことだった。行かなきゃ、彼女のもとへ。どうなるか分からないけど、謝らなきゃ。とにかく伝えなきゃ。私はきっとあなたのことがきっとたまらなく好きなんだって。小説や漫画で描かれる恋愛感情とはまた違う、悔しいし腹も立つし、時々とっても悲しくなる、それが私の好きなんだって。
鼓動が早まる。どきどきするけれど、確かに伝えられる。ちゃんと言いたい。今の私すべてが詰まった「ごめん」。ただ、その一言を。
——けれど次の瞬間。
彼女はゆっくりと石膏像に接吻をした。
彼女の存在自体が幻想だったのかもしれない。彼女が居なくなって私はそう感じた。九月一日、学校へ登校した私を待ち受けていたのは彼女の転校という事実。随分と急な話で、噂では夜逃げという話が出ていた。彼女の父の小さな町工場が倒産し、破産したとかなんとか。
そんなこと、私にとってはどうでもよかった。私はきっと彼女が好きだった。本当に、心の底から。彼女の存在によって自身を苦しめていたとしても、私は彼女と一緒にいずにはいられなかった。一緒にいたかったのだ。それはやはり、彼女を私が好いていたから。
ごめん、ただその一言が言いたくて、でもそれはもう叶わない。
高架下には石膏像に接吻をする彼女の残像がずっと居残っている。あの情景を思い出すたびに私は、なんだかいけないような気分になる。それは夏のプールの着替えの時にふとした瞬間、友達の乳房を見てしまったとか、そんな感じ。
そういえば、その年の九月の二週目に私は初潮を迎えた。
私はあの夏で少しだけ大人になった、らしい。
三、
「ところでお嬢さん、空が今日も綺麗ですね」
彼は、丁寧に私の目を見つめた。さまざまな皺で人生経験の多さを感じさせる顔、瞳の奥にきらめくお茶目な光。そして、休日の昼下がりのような柔らかな表情。人目で私は彼に惹かれた。
「そうですか? 今はもう夜ですよ。空が綺麗かどうかなんて、もう分からな……」
私ははっとした。今まで暗かったはずの外が、昼のようになっている。気がつけば、電車内の乗客は彼と私以外、誰も居ない。腕時計の針はすべて逆回りしていた。
隣の初老の彼は、ふふ、と小さく笑うと、被っていた帽子を軽く持ち上げた。
「わたくし、吉田というものです。どうかお見知りおきを」
○
三日間の帰省を経て、トウキョウ駅に着いた瞬間、また時間が走り出したような気がした。不思議な感覚だった。ずっと住んでいた家には、ぽっかりと穴が空いたように、居場所がなくなっていた。懐かしくもある反面、この家にはもう一生帰ってくることはない、そんな確信だけがあった。それでもなお、都心の西はずれにある六畳一間が居場所なのかと問われると、結局そんなことはなかった。空に放たれた風船のようだ、と思った。
時間は八時半過ぎを指していた。これから自宅に戻るとなると、十時は明らかに過ぎてしまうだろう。体は疲れきっていた。人工的に調節された駅構内の空気が、妙にべたべたと纏わりつく。帰省からの生還。小さい子供は両親に手を引かれ、うとうとと目を擦りながら歩く。手を繋ぎ、楽しげにお土産店を覗くカップル。そして、人々と雑踏。
思わずため息をついた。自分からあの夏の匂いがする。汗臭い自分自身と、昨日と過去の反芻が詰まった自身の思考回路に、異常なほどの嫌気を感じていた。
橙色は止まらない。列車はホームに滑り込んできては、人を吐き出しまた飲み込んでゆく。そしてまた、いつもと同じように一定の速度で加速して、去っていく。
トウキョウの西部の小さな自室に帰るべく、ゆっくりとキャリーケースも持ち上げ、到着した電車に乗り込んだ。その矢先だった。
「驚かせてしまってすみませんね。わたくし自身、少しだけ退屈していたのでございます。」
吉田と名乗った男性は、綺麗な白髪をぽりぽりと掻いた。
「そして何よりお嬢さん、貴女自身、今人生において大きなターニングポイントに差し掛かっております」
光に満ちた街が後ろへ駆けてゆく。どこかからごうごう地鳴りのような音が響く。これはきっと街の声なんだ。気付けば視界を支配する世界が、異様にハイコントラストだった。空は怖いほど群青で、街が黄色や橙に輝いていた。
「……そうですか。もしかしたら、私とても今疲れているのかもしれません。なんだか世界が狂ったように見えます。そして夜なのに、外は真昼のようです」
「時間も規則的に流れるのに飽き飽きするんです。だからこうやって時々、逆回りしたり、軽やかにステップを踏んだりする。許してあげてください。彼らも生きてるんです。わたくしたちと同じですよ」
その初老の男性、吉田と名乗る彼は朗らかに、まるで歌うように答えた。現実味がないのに、妙に説得力がある。彼は続けた。
「そしていまここに居座っている時間はヒヨリさん、貴女の名を気に入ったようです」
思考回路が現状についていかなかった。これは夢なのか、なんなのか。私は昔からファンタジーは好きでなかった。おとぎばなしは所詮、虚構の世界で空しいだけだ。それでも今は理解しようとしている自分が愚かしく感じた。きっと疲れきっているのだろう。母の台詞や過去の回想。そんなものが詰まりすぎて、きっとヒューズが何処かへ行ってしまったのだ。
いいじゃないか、時間が逆回りしたって。
いいじゃないか、少しだけ狂って見えても、なんら問題はない。
「吉田さん、でしたっけ。なぜ私の名をご存知で?」
「無意味な質問ですよ、ヒヨリさん。わたくしは知っていることは知っていますし、知らないことは知りません。唯、貴女の名は知っていた、それだけです。きっと貴女がこの列車から降りてしまえば、わたくしたちは再会することは無いでしょう。貴女の思考回路からわたくしの存在は、時を経るたびにどんどん薄く、そしてなくなるはずです。
貴女は今、とてもたくさんの情報で心が占拠されている。心が熟れた林檎のようになっています。まるでこの街のように儚くて、おぼろげだ」
吉田さんの声は低く、心地良かった。それはミヤと一緒に聴いた、蓄音機からのコントラバスの音色に似ていた。
「…それでは、少しだけ話を聞いていただけますか?」
「喜んで」
いつもより静かに街の中を滑ってゆく。穏やかに揺れる列車が、ゆりかごのようだった。私は驚くほど軽やかな気持ちだった。そして、ちいさい声で言葉を紡いだ。
——はじめは、母の話です。
○
長く深い眠りから醒めたような感覚だった。何時間私は話し続けたのだろうか。それは刹那のように短く、しかし何光年とも果てしなく感じた。
やっと言葉が尽き、初めて喉の渇きを感じた。心地よい沈黙が時を制した。列車は一度も止まることなく、一定の速度を保ちながら走り続ける。がたんごとん、まばゆい光は少しだけ傾いたように感じた。車内の床に映る私と吉田さんの影が少しだけ延びた気もした。
「なんだか、こうやってずっと列車に揺られていると、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出します」
「ほう、左様で」
「私、宮沢賢治は結構好きなんです。『注文の多い料理店』『よだかの星』など、小学生のときに課題でたくさん読みました。彼の小説は謎めいている事項があまりにも多いですよね。クラムボンの詩がありますが、結局今でもクラムボンとは何なのかまったく分かりません。それでも鮮烈に、そして圧倒的に『銀河鉄道の夜』は好きなのです」
「石炭袋、ですか」
「そう、石炭袋。最後にカムパネルラが石炭袋に行ってしまうんです。幼心ながらそれがとても怖かった。夜空を眺める度に、その闇の深さに恐れを隠せなかったんです。けれど、銀河鉄道でジョバンニとカムパネルラが過ごした時は、その恐ろしさを忘れさせるほどとても素敵な時間で。きっとこんな感じだったんでしょうね」
「そう感じていただけるなら、わたくしも非常に嬉しいです」
吉田さんは優しく微笑んだ。その笑みが何処か懐かしかった。
「わたくし自身、最近同じ夢を見るんです。それは確かに、間違っている、狂っている夢なんです。けれど何処か説得力があって。貴女の話を聞いて、その夢を思い出しました。少し長話になりますが、よろしいですか?」
私は静かに頷いた。彼は微笑むと、一度口を噤む。次の言葉を捜しているようだった。
「この街は、トウキョウは、少しずつ融けてなくなるかも知れません。
こんなわたくしにも子供の時代がありましてね、随分やんちゃをしたものです。親友と呼べる友が居まして、彼の名を仮にマツイとしておきます。マツイは小学生の時分から親友でして、二人でよく悪戯をしては怒られたものです。そして何よりわたくたち自身が子供だったものですから、喧嘩も毎日のようにして。顔をもいでやりたくなるほど、嫌いだった時期もありましたし、実際はちゃめちゃに殴りあったこともあったんです。けれどマツイと私は中学までずっと悪友として仲良くしてました。不思議ですよね。何故彼と一緒にいたのか、自分自身で疑問に思うほどです。
しかし、彼とは中学卒業以来一度も会っていません。彼は、中学卒業と同時にトウキョウの下町の工場で働き始めました。彼の家は兄弟が多く、貧しくて……。それに比べてわたくしは一人息子でしたので、高校へ進学して、結果的には大学も卒業しました。一人息子であることを自分自身、とても嫌に感じましたね。マツイはあんなに頑張って家族のために働いているのに、わたくしはこんなに悠長にただ目的も無く生きていていいのか、後ろめたく感じました。しかし、そう思うこと自体が彼にとってはきっと失礼で。
そんな雑念が入り混じってしまい、彼と今まで通り付き合うことができなくなったんです。
そんな旧友、マツイがこの夢には登場します。
それはある夏の暑い日です。わたくしはマツイが住んでいる長屋の前で扉を叩いているんです。しかし彼は出てこない。困ったなあ、と空を見上げると太陽は丁度真上にあります。夏の正午のようです。蝉は本当に喧しくて、地面のアスファルトは濛々と滲んで見えます。そして不思議なことに、正に夢ならではですね、わたしくしはその子供のわたくしを宙から眺めているのです。マツイの家の前で脂汗を流している幼い自分を、傍から眺めている。なんとも奇妙な光景です。
世界はとてもハイコントラストで、そうですね、今の車窓から見える風景と同じ感じです。どこからか、ごうごうどうどう、音が響いてくるのです。それはきっと隣町の工場からなんでしょう。とにかく、そのとき私は彼の自宅の前で待ちぼうけをしているわけです。
そこで世界が一変します。
わたくしが居なくなり、マツイが現れます。そして景色も一変し、霧の中のような場所になるのです。さっきのコントラストの高さとは真逆で、白黒のような世界ですね。彼も何かを探してうろうろしているのです。わたくしは声を掛けようとするのですが、声が出ません。まったく、夢は都合のいいものですよね。わたくしは、この夢ではあくまでも、観客のようです。
霧の向こうからゆらゆらと赤い風船が漂ってきます。それを見つけた彼は、その風船を追いかけてゆくのです。しかし霧の中だから思うように体が動かないらしく、なかなか前へ進めてません。私は心の中で声援を送るしかありません。またそこで、ぱっと景色が変わります。
次は雨上がりのシンジュクの街にこのわたくし自身が立っているのです。雨上がりの街独特のにおいがします。人ごみの中、わたくしは何故か誰ともぶつからずに、シンジュク駅東口の出口の真ん中で突っ立っているのです。なんだか滑稽でしょう。こんな老いぼれが、若者の街で突っ立っているのですから。
どこからか騒がしい声がすると思い、ふと車両の方に視線を移すと、そこではデモ行進が行われていて。けれど、何を主張しているのかよく分かりません。それでも若者たちが、何かの議題について、国という抽象的な組織に対して必死に抗議してるのです。色々意見はあると思いますが、わたくし自身はとにかく、若いのは素晴らしいと思いました。そう、心の奥底から沸々と湧き上がるパッションは、決して一生ものではありません。永久には保てないのです。少し羨ましい気もしますね。わたくしは若い時期を、戦争という大きな生き物に食べられてしまったのです。だから、こうやって自由に自身を主張出来なかった。
すみません、少し話が逸れてしまいましたね。
デモ行進の人々は皆、風船を持っていました。赤や青や黄色の、とても鮮やかな人の集まりなのです。そして誰かが手を放してしまったのでしょうか、赤い風船が一つだけゆらゆらと空に昇ってゆきます。わたくしはそれに気が付いて、その風船を見つめました。すると前に立っていた男性も、その風船を眺めていたのです。その男性はちょうど私と同じ年齢程で、どこか旧友、そうマツイですね。彼に似ている気がしたのです。思い切って私は彼の肩に手を置きました。彼は驚いたように、こちらを振り向きました。
そこでまた上手い具合に世界が変わります。わたくしはまたあの霧の中で幼いマツイを見ていました。彼はだいぶ風船との距離を詰めていました。もう少し、もう少しでその風船の紐を握り締めることができる。
次の瞬間、やっと、彼の手はその風船を捕えました。
そして、また一番初めの光景に戻ります。昔のわたくしがマツイの家の前でぼんやりとしています。初めに言い忘れたのですが、おそらく前日に雨が降ったのでしょうね。彼の家の前にはいくつか水たまりが出来ていました。わたくしもそれを覗きこんでいます。何度もいうように、その日の空は恐ろしいほど青くて、それが映って水たまりも真っ青でした。水面を指先で突くと、空がぐんにゃり歪んで波打ちます。するとどこからか赤い風船が飛んできました。真っ青な水面の中にゆらゆらしている赤い球を、幼いわたくしは指先で触れました。
その瞬間、幼いわたくしの眼の前にはマツイが立っていました。《今日はとても天気が良いねい》彼は水たまりの上にしゃがみ込むと、その空を見上げます。
途端、彼とわたくしと街は、印象画のように原色がどろどろと、溶けて混ざりあってゆきました。それはまるで、街に飽和した欲望をバキュウムのように吸い込んでいき、じわじわと溶けてゆくトウキョウの姿でした。
でも夢のわたくしはマツイと会えた、ただそれだけで幸福な気分なのです」
○
遠い日の夏、焦がれた街の姿が眼の前で溶けてゆくのを想像した。その儚さと脆さを母とミヤは分かっていたとでもいうのか。私がただ単純に羨望していた街は、表面上の美しさだったのか。昔の自分なら、そんな理論は信じないはずだ。けれど、今ならわかる。一度故郷を離れトウキョウで暮らした、今の自分なら吉田さんの言っていることがとても理解できた。
――溶けてしまうかもしれません。穏やかに彼が紡ぎだした台詞は、何処か恐ろしさが隠れていた。この街を創り出したのも群衆という曖昧な存在。そしてそこで生きる人々。しかし知らぬ間にこの街は勝手に呼吸し始める。欲望で溢れ返り、余剰な情報が散乱し、ごうごうと地響きが鳴り始める。思ってもいない間違いを犯したり、自己嫌悪に陥ったり。それが日常茶飯事なのだ。
「もしかすると私の母は、何か予期せぬことがあって、このトウキョウで子を身籠ってしまったのかもしれません。それが今でも母の心の底にこびり付いて離れないのかもしれない。母はこの街の良さも、そして脆さも知っていた。だからこそ、私に都会の事を良く話さなかったのかもしれません」
「そうですね、どんな名探偵でも人の心は推理できないと言います。ましてや私は一般人。貴女のお母さんのことはよく分かりません。しかし、どの親御さんも自分の子供には同じ間違いを犯してほしくない、というのが本音でしょう。
それでも、貴女にそのことを話しただけで、お母さんは少し救われた気持ちになっているはずです。誰でも秘密を保ち続けるのは、難儀なことなんですよ」
吉田さんは一つひとつ言葉を選ぶように、丁寧に話した。そして伝え終えると照れくさそうに笑う。「説教くさいのは苦手なんですけどね」
「お酒が飲めるようになったら、母からじっくりとその話を聞くつもりなんです。色々一人で考えても、事実を知らなければ。その頃には私も動揺せずに、母の言葉を包み込むことができるはず」
「ふふ、きっと美味しいお酒になるはずです」
都心を抜けたようだった。車窓を駆けてゆく風景は、茜色の光を浴びて心地よさげだ。住宅街をただ走り抜ける。鉄塔がぽつぽつと街を見下ろしていた。少しずつ、自宅に近づいていることを示唆する。
「人生は物語のようにはうまく進まない。結局問題は山積したままで、未解決事項が多いまま時は過ぎる。わたくしたちは答えを求めすぎなのです。アメリカ映画のように、すっきりと解決できることなど滅多にはあり得ません。」
唐突に彼からこぼれた言葉は、今までの陽だまりのようなものではなく、しっかりとした形を持ってヒヨリに飛び込んできた。
「わたくしはきっとマツイを今でも探し続けているのです。時間さえわたくしに愛想を尽かしました。もう、何時間、何年間この列車に乗り続けているかわかりません。きっと、ここから出てゆこうと思えば、出てゆけるはずなのです」
一度、彼は言葉を切る。微笑みは悲しげに空間に反響する。
「トウキョウはとても不安定で抽象的だ。どこに向かっているのか分からない、言わば箱舟なのです。その箱舟に乗ってしまったわたくしたちは今、なす術もなく自分を見失っている。
それでもね、わたくしはこの街を愛せずにはいられないのです。それが溶けていってしまいそうでも好きなのです。不器用に、それでも呼吸し続けるこの街は、まるでわたくしたち人間みたいじゃないですか」
この人は、やさしいおわりを知っている。街の成れの果てを見守るつもりなのだ。
「私はこの街を知れてよかった。やっとミヤの言っていたことが分かった気がするのです。今まで劣等感と罪悪感で彼女の面影を消そうとしていました。少しだけ悔しいけれど、今やっと理解できた気がします」
ミヤ。あなたは今何処にいるの? あの時言えなかった言葉がたくさんあるの。そして、話したいことだって沢山ある。以前からずっと思っていたこと。けれど、私に彼女と対面して話す権利などきっとない。そういって自分を戒めていた。
「私もこの街をみていたい」気づかないうちに私は口を開いていた。
「好きかどうかなど、今の私にはまだわかりません。憎んでいるし羨んでもいる、けれどときどきその場にしゃがみこんでしまうほど、愛おしい瞬間もあるのです。だからこそ溶けていってしまったなれの果ても見てみたい。溢れ返ってどうなってしまうのか、この街の未来を見届けます」
電車は速度を落としてゆく。ガタンガタン、軽快だったリズムは少しずつ重くなる。体が横に引っ張られる。陽は沈みかけている。夕闇がせまる。街の明かりがぽつぽつと灯る。それは深海に棲む、発光生物みたいだった。
「その言葉が聞けて良かった」吉田さんは目を細める。その目は三日月のように優しく私を見ていた。
「わたくしはいつでもここにいます。此処という名の曖昧な空間にね。それでも貴女がわたくしに逢いたければ、きっと時間は手助けしてくれるはずです。いつでもまたいらっしゃい。この橙色の列車の中で待っています」
吉田さんは私の手を握った。温かみが、その鼓動が、背中を押してくれた。
「××〜、××〜」
車内放送が流れる。吉田さんの手が離れた。
「行ってらっしゃい、ヒヨリさん。人生はくるくる廻っているのです」
ドアは空気を吐きながら開く。私はホームに足を踏み出した。あんなに重かったはずのキャリーケースは、軽々と持ち上がった。後ろを振り返る。吉田さんは丁寧にお辞儀をした。車内の淡い光がおぼろげだ。列車はまた、速度を上げてホームを滑ってゆく。
○
腕時計は午後十時丁度を指していた。気づけば、それはいつもの駅だった。気怠そうに携帯電話を眺める若者。ベンチに座り夢うつつの高校生。駅構内の電灯に蛾が止まっている。改札をくぐり抜けるとそれは懐かしい街だった。住み始めて三カ月の街。それでも、私の一部になりつつある。
駅のロータリーは人工的な光で溢れていた。涼しい風が髪をそよぐ。
私も、彼女も、彼も、すべてが滑稽だ。そう思う。答えがないことは分かっているのに、単純明快な解答を探してやきもきする。空を眺めるだけで、ありえないほど感傷的な涙を流したりする。それでも一人ではいられないし、愛せずにはいられない。それはこの街も同じことで。
少しだけ笑いが漏れた。通りすがりの中年男性が、少し驚いたようにこちらを向く。
ネオンが反射する空に赤い風船が見えた、そんな気がした。
終