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ノスタルジー・マリス

作者: 下山 辰季

「あーあ。なんて悪い子なのかしら」

 腰を抜かした少年の視界に映るのは、つややかなエナメル革の赤い靴。椅子に腰かけた少女の足が楽しげに揺れる。お行儀悪く上品に。

「よそのお家に勝手に入るなんていけないわ。まどろむ私に触れようとしたのはとびきり重罪。私の可愛い声を聞いて悲鳴を上げたのも失礼しちゃう」

 少年の罪を並べ立てる小さく形良い唇は甘い毒の果実をつまみ喰いしたかのように彩られている。


 たしかにこの家に入った。一人きりの下校途中カラスに帽子を奪われて。祖母といっしょに選んで買ってもらった大切な帽子だ。賢い鳥はゆったり飛んで長年放置されている屋敷へと降り立った。鎖がかけられた門もトゲトゲのヒイラギモクセイの生垣も来訪者を歓迎する気はなさそうだ。近寄りがたい雰囲気を放っている。もし黒い羽が目印のように落ちていなければ、生垣の隙間を見過ごしていただろう。子供一人が這っていけるくらいの隙間を。

 呼び鈴もノックも当然反応はなかった。立派な玄関には鍵はかかっておらず……いや、最初はビクともしなかったのに鍵の開くようなかすかな音がした後にすんなりと開いた、というのが正確だ。屋敷の奥から聞こえるカラスの声に挑発されて、恐る恐るお邪魔する。

 豪奢な廃墟の一室で少年は少女へと手を伸ばす。それは椅子に座った彼女の膝の上に奪われた帽子があったから。

 突然の思いがけない彼女の声に叫んで尻もちをつく。当然だ。廃墟に置き去りにされていた人形に話しかけられたら、誰だって心臓が飛び出るくらい驚く。


 状況を整理するうちに少年の頭はだんだん落ち着きを取り戻す。息を整えゆっくりと立ち上がる。黒い半ズボンからホコリを払う必要はなかった。何十年も人が住んでいない屋敷だと近所の大人たちはウワサしていたが、ここは空き家だとは思えないほど清潔だ。ネズミのフンどころかクモの巣さえ見当たらない。家の人が今は留守にしているだけ、そう錯覚しそうになる。

 廃墟に暮らす人形は右手で帽子をくるくる回し、左手でカラスの羽一枚をもてあそびながら、愉悦の笑みを浮かべている。二階にあるこの部屋の開け放たれた窓からは得意げな様子で枝にとまるカラスが見えた。絶対にグルだ。

「なんかこう……仕組まれた感じ……」

「なんのことかさっぱり」

 少年はじっと人形を睨みつけた。

 小さい子が手で持って遊ぶような着せ替え人形よりはずっと大きい。少年の半分くらいの背丈だ。こんな人形はきっとお金持ちの家にしかない。

 人形は黒い髪を贅沢に巻き、レースやフリルのついた服を着ていた。緑の瞳はガラス細工。ご機嫌に微笑んでいてもどこかイジワルそうな印象が漂う表情で気の強さが伝わってくる。

「罪には罰をあげなくちゃ。ねぇどんな罰がほしい? 希望はある? 気の利いた罰が思いつかないなら私が勝手に決めちゃうわよ。お腹を裂いて石ころを詰めちゃう? 煮えたぎるお鍋の中に煙突からダイブしてみる?」

 心底楽しそうに人形は笑う。ふざけているようにも見えるし、本気でやりそうにも思える。

 少年のノドが緊張で乾く。つっかえそうになりながらもなんとか声を出す。小遣いに不自由する身でも節約せずに使えるのは言葉だ。いつだってこうやって道を切り開いてきた。今回もきっと上手くやれる、はず。とはいえ相手は奇怪な人形だ。どんな返事が正解なのかはわからない。図書館で読んだ童話や昔話の中から必死に最適解を探す。

 正直者はバカを見る?

 ウソつきには報いを?

 純粋無知は許される?

 舌先三寸は身を救う?

 物語によって正解は違う。模範解答なんてものはなし。自分の言葉で勝負に出るしかない。

「ば……罰として何かやらせたら? ただ殺すだけの罰なんて、すごくもったいない! オレはきっと役に立つ。掃除も皿洗いも得意だし」

 相手の損得を強調し交渉をはじめる。それが生き延びるための少年の選択。

「皿洗い? まぁ、おっかしい! あなた、まさか私が人間の食べ物を口にするとでも思っているの?」

 おバカさんをあざける顔で人形が噴き出す。何も答えられずにいると、人形はないしょ話をする時のように口元にそっと手をそえ、顔を近づけるよう視線で少年をうがなした。おっかなびっくり従えばくすぐったいささやき声が耳に届く。

「私が食べるのは人の心。他の命を奪わなくても存在していられるの。植物が太陽の光を浴びるみたいに。意思を持った道具は人間の感情を浴びなくちゃ」

 主食が人間の子供の肉や魂でなくて本当に良かった。少年は胸をなでおろす。

「あ、でも……。心を食べられた人はもう感情をなくしちゃうわけ?」

 呆れたように鼻で笑われる。

「アッハハハハハ! 日差しを浴びる植物のせいで太陽が消え失せちゃうとでも習ったの?」

「そんなことはないけどさ。伝え方がいちいちイジワルだね」

「あら、ごめんなさいね。怖くて涙がこぼれちゃいそう?」

「こぼすとしたら溜息だよ」

 不服の声を軽くあしらい人形は上機嫌で手を鳴らす。華奢な手から軽快な音が奏でられた。

「あなたにぴったりの罰を見つけたわ。私の召使いになってキビキビ働くこと。お友達を呼んでお茶会をしたり、ピクニックに出かける時に人間の子分……従僕がいれば重宝じゃない?」

 今思いついた案だとでもいいたげな見え透いた演技。きっと最初からそれが目的だったのだろう。

「それじゃオレはもう家に帰れないの?」

 古びた小さな一軒家。そこが少年の帰る家だ。母方の親類の人が安価で貸してくれているらしい。大好きな家族が待っている温かな場所。穏やかな両親にまだ保育園の双子の妹たち。数年前は祖母もいっしょに住んでいた。もう天国に引っ越し済みだ。

「家、ね」

 そう口にした人形の表情はやけに残酷に見えた。緑色の瞳に一瞬憎悪が燃え盛った気もする。少年がたじろぐ間に、長い睫毛のまばたきがくすぶる怨念を拭い去った。

「いいえ、呼びつけるのは用がある時だけ。普段はお家で過ごしなさいな」

 帽子がぽんと放たれる。キャッチしようとして失敗した。帽子が空中でいきなり方向転換したせいだ。くるくると好奇心旺盛に部屋の中を舞ってから、帽子は少年の手元へ優雅に降りる。小学校の理科で習う物理のレベルでは断言できないが、現実ではありえない動きに見えた。魔法か何かが介入している。そう思わざるを得ない帽子のダンス。

 こんな力があれば子供の一人なんてどうとでもできるだろう。逆らわずに様子をうかがうのが堅実というものだ。

「わかった。子分になるよ」

「あら、いやだわ子分だなんて。それじゃまるで私が性根の悪いガキ大将みたい」

 自分でも言い間違えていたくせに。口には出さないが批判がましい視線を向ける。人形は余裕の笑みでトゲのある眼差しをかわす。

「私はマリス。それじゃよろしくね、テルヨシ」

 名乗ってもいないのにマリスは正しく名を呼んだ。


 ***


 呼びつけられたのはその三日後。朝、テルヨシが年季の入ったドアを開けたとたん、カラスが軽やかに飛んできた。黒いクチバシがくわえるのは一通の手紙。レトロでダサ可愛いタッチでキツネとタヌキが描かれているレターセットと気取ったイジワルお嬢さまのイメージを結びつけるのには苦労したが、マリスからの手紙だった。

「アイツのセンスって、よくわからん」

 気品ある封蝋……ではなく、一昔前のファンシーキャラのシールをはがす。

 ――放課後は屋敷にくるように。お客さまを呼んでお茶会をするの。おもてなしを手伝って。

 マリスだけでも厄介なのに、そのうえ得体のしれない客の相手までするなんて頭が痛くなる。逃げ出したい気持ちを抑え込む。約束を破る者には大きな災難が訪れる。童話と昔話では定説だ。

「うん。学校が終わったらすぐにいくよ」

 カラスにそう返事をしておいた。


 洋風寄りの和洋折衷、屋敷はそんな佇まいだ。玄関ホールを入ってすぐの部屋が応接間になっている。天井からはシャンデリアまがいの豪華な電灯が吊り下がる。よく見れば電気ではなく光る靄が照明の役目を果たしていた。この不思議な靄は屋敷内でよく見かける。床や壁を這い回って屋敷の状態維持をしているらしい。応接間のテーブルを取り囲むのはベルベット生地のソファで、大人が八人ぐらい集まってもゆったり座ることができそうだ。

 そんな大きな部屋だから今はすっかり空間を持て余していた。人形のマリスと小学生のテルヨシとそれからお客さま。上座にいるのは素朴な木の仮面。

 ドウメキ。それが仮面の名前だった。粗末な着物姿の老人が薄暗い小屋の中、黙々と木を削って作り出した曰くつきの民芸品。そんな想像が勝手に浮かんでくる。

 マリスに言いつけられたとおりテルヨシは三つのティーカップを用意する。陶器製だが子供のままごと用の品だ。

 てっきりマリスは本格的な給仕の仕事を要求してくるものと思っていたが、実際は家に親戚が来た時にちょっとお茶を出すのを手伝うような感覚で雑にこき使われた。用意が済んだらいっしょにお茶をいただくようにとも言われている。不気味なお茶会の誘いは辞退したいのが本音だが、逆らうのはもっと怖い。

「そうね。『思慮深いタカハシに走った疑念』をお出しして」

 もとはクッキーでも入っていたであろう洒落たブリキの缶。中に詰まっているのは歪で生々しく複雑な美しさを持つ小粒の輝き。図鑑で見たバロックパールに少し似ている。これが意思持つ道具たちの食事、人間の感情の結晶だとマリスが教えてくれた。スプーンですくってカップに移すと、氷が割れるような音を立てて濃く深い靄へと変わっていく。

「……どうぞ」

稚位(ちい)さいのに偉い(ねぇ)

 ドウメキから放たれたしわがれた声に手が震える。直接目を合わす勇気はないが顔はそむけずなんとか会釈。ぎこちない動きでマリスの隣へ腰かけた。

 人形と仮面は長年の付き合いらしく、テルヨシには理解できない話で勝手に盛り上がっている。じっとカップの中の靄を見つめる虚無の時間が過ぎていく。

 だから、ふいに話しかけられた時は反応に遅れた。

「大人ばかり話して退屈だ(ろう)。何か願いを叶えて称祈与(あげよ)う」

 失礼でない断り文句はとっさに出てこなかった。救いを求めてマリスを見つめる。人形はすました顔でカップを手に取り、人間の心の欠片を取り込んでいる最中だ。

「学業成就。無病息災。開運祈願。思いのままだ。坊やは何を望むの(かね)

 恐怖が薄れて別の感情が頭をもたげる。これはチャンスなんじゃないか。テルヨシはそう思い始めていた。

「か、家族の皆がずっと幸せでいられるようにできますか?」

「ずっと。良い言葉だ。家内安全。良い願いだ」

 がらんどうの仮面の口から青白い靄が立ち昇る。靄はすぐに老人の手の形になって、テルヨシの前に何か四角いものを置いていった。トカゲのような姿……ヤモリと思しき生き物が彫り込まれた木札のお守りだ。少し不気味だがこの先の幸福を保証すると思えばありがたみも増してくる。感謝の気持ちでドウメキに頭を下げた。


 不思議な客は去り、家内安全の木札はテルヨシの手に残された。

 たまに家の中にどんよりした空気が漂う時がある。両親は気にしないでと微笑んでごまかすがテルヨシもわかっている。マジメに働くだけでは幸福で余裕ある暮らしには届かないことを。困窮というほどではない。それでも色々なガマンや諦めが家族皆の人生に積み重なっていく。

 亡くなる前は祖母も書道や着付けの出張教室の先生として働いていた。庶民的な教室で月謝の収入も庶民的だったはずだ。それでもそのお金で、よくテルヨシや妹たちに服や学用品を買ってくれた。病気にさえならなければきっと今でも元気に働いていただろう。おばあちゃんといってもまだヨボヨボのお年寄りではなかったから。

「ドウメキさんに会わせてくれてありがとう、マリス!」

 テルヨシの喜びぶりにマリスも朗らかな笑みを返す。

「良かったわね。でもお生憎さま。それってデタラメよ。なんの効力もないわ」

 夢想したカラフルな未来が一瞬で灰色に染まる。じわじわと怒りが込み上げてくる。

「どういうこと? オレは二人にバカにされてたの?」

「違うわよ。ただ単にドウメキは、毒にも薬にもならないおまじないを無償で提供することに歓喜と使命を感じているだけ」

「なんだよそれ」

「作り手か持ち主がそういう人だったのよ。私たち意思持つ道具は、身近だった人間の思念に影響を受けやすいから」

 人間の想いを反映して無意味なことをずっと続けている道具。そう思うと、テルヨシの中で怒るよりも物悲しい気分の方が勝ってきた。

「ドウメキのお守りは無害だし代償を求められることもないけれど……。浅はかなテルヨシは用心しなくちゃ。害のあるものを善意からオススメするヤツや、たいしたものでもないのに莫大な対価を請求するヤツもいるんだから。知識がないとこれは変だなって疑うこともできないのよね」

「魔法のことなんてわからないよ」

「あら、テルヨシがわからないのは魔法のことだけ?」

「今色々と勉強してるところ!」

 声に不機嫌さがにじんでしまった。こういうのは駄々っ子みたいで恥ずかしいと自分でも思う。

 マリスは特にテルヨシのご機嫌取りもせず、隙をあげつらうこともなく、ただ穏やかに観察している。テルヨシが隠し事や悩みを抱えている時に母や祖母がする眼差しだ。

「基本的なことは身に着けておきたいけど、世の中のすべての知識を習得するのは大人でも無理な話よね。そういう時のちょっとしたコツを教えてあげる」

 ひんやりと清らかな無機の肌が触れる。人形の小さな手で頬を挟まれた。何かを言い聞かす時に祖母も同じようなことをした。

「意図を見抜くの。あなたに何かさせようとする相手の思惑に注意を払いなさい」

 マリスの意図はなんなのだろう。


 ***


 普段使いの子供用湯飲みに入った『世渡り上手なハヤシの余裕』に口をつけ、テルヨシはマリスから魔法の秘密を聞いている。頼み事には気の利いた手土産(ワイロ)を。駄菓子屋で買ったオモチャの宝石は気に入ってもらえたようだ。

「大きくわけて三つの系統があるわ」

 自己、空間、縁故。マリスは順番に説明していく。

「意思持つ道具がまず自然に覚えるのは自己の術。おしゃべりしたり、体や身の回りのものを動かしたりね」

「近くのものも動かせるってなるとポルターガイスト現象みたいだね」

「そう。ただしどこでも本領発揮できるわけじゃないの。もしも私を万博会場や上野動物園や成田空港に連れていっても、そこじゃお行儀良いお人形さんでいるしかないわ。でも私の領域内なら大暴れしてあげる。気に入らない人間の靴紐を一気に引きちぎれるし、重機のエンジンをかからなくすることだってお手の物。特別な空間、それ自体が魔法の一種でもあるわ」

 曰くつきの土地というウワサは本当だった。怪奇現象のせいで、そのまま住むことも解体工事もできず、いつしか所有者不明地になった空き屋敷のウワサは。

「縁故、つまり人やものとのつながりも魔法には欠かせない」

 こうして人の世から打ち捨てられた屋敷を守る人形とテルヨシがしゃべっているのも、何かの魔法の成果か発端なのか。

 突然に、庭から鋭いカラスの鳴き声。

「何か入り込んだんだわ」

 マリスが椅子から飛び降りる。

 テルヨシは窓に近づいて様子をうかがう。目を凝らしても、落ち着きなく飛ぶカラスの姿しか見えなかった。きっと角度や位置が悪いのだろう。

 固く閉ざされた門と張り巡らされた生垣、鬱蒼とした広い庭はこの屋敷を外界と切り離しているようだった。


「どうも すみません……。たびの ものです」

 広々とした玄関ポーチに立っていたのは本格的なクマのぬいぐるみ。身長はマリスよりも少し小さいくらい。頭には生垣のヒイラギモクセイの葉っぱが一枚刺さっている。ずいぶんとしょぼくれた印象だ。首にはすっかり色あせたリボン。その端っこには二つの数字が刺繍されている。3291と53.4。

「あら、どちらの馬の骨さま? ここに立ち入って良いなんて、私は許可した覚えはないのだけれど。どういうつもり?」

 冷ややかでトゲトゲしい声。取りつく島のない拒絶と警戒の態度をマリスは見せた。

「おねがいです……。すこしだけ ここの ひかげで やすませてください」

 困り果てた様子でクマが頼む。

 可愛らしい哀願もマリスの冷たさは変えられない。

「その綿だかオガクズだかが詰まったお腹を八つ裂きにする前に、十秒の執行猶予をあげるわ」

「マリス、それはちょっと」

 丁寧なお願いへの乱暴な返事にテルヨシが眉をひそめる。マリスには断る自由はあるにせよ、礼儀正しい相手に対してこうもケンカ腰な言い方をする必要はないはずだ。

「やさしいんだね」

 テルヨシに向けて弱々しく微笑んで、そのままクマは玄関ポーチにへたり込んだ。

「大丈夫?」

 とっさに体が動く。倒れたクマを抱き上げた。当たり前だがぬいぐるみに鼓動も呼吸もない。無事かどうか不安になる。頭に刺さったトゲの葉をそっと取り除き、ゴワゴワの手触りになってしまった体を軽くなでた。

「……後でちゃんと手を洗いなさいよね」

 マリスの言葉は聞き流す。

 もぞもぞとクマが身じろぎをした。

「ありがとう。げんきを とりもどすまで……、おうちのなかに いれてもらっても いいですか?」

「はぁ? 図々しいこと。ダニとホコリの巣窟となったボロキレグマを私の大事なお家に招き入れろですって? 冗談じゃ……」

「マリスってば!」

 親戚のおさがりでもらった灰色のカーディガンを脱ぎ、クマの体を包んだ。 

「家具や床には下ろさない。こうしてオレがずっと抱っこしてるよ」


 マリスはあからさまに不愉快そうな顔をして、二階の部屋に引っ込んだ。

 玄関の広間に通じる廊下の片隅。そこでテルヨシはクマを抱いて休ませている。

 意思持つ道具は人の心が糧となる。それを知っているテルヨシは優しくクマに話しかけ続ける。小一時間もするとだいぶクマの状態も良くなってきた。

「やさしくしてくれて ありがとう。もうちょっとこ こにいても へいきですか?」

「いいよ」

「ボクは ケンちゃんのクマです」

 クマはそう自己紹介した。新生児と同じ体重と身長で作られたテディベアなのだという。リボンの刺繍はケンちゃんなる子の誕生時の大きさだ。

 産まれた子供の思い出に。

 新しい命の幸せを願って。

 そんな風に作られたクマなら家で大事にされていそうだが。

「旅をしているのはケンちゃんを探して?」

 尋ねた後でちょっと後悔する。答えづらい事情があったらどうしようかと。

「がんばったけど ダメだった」

 断片的な回答。

「かぞくのみんなが しあわせでいられるように いのったけど なんのいみも なかった」

「ああ……つらいことを思い出させてごめん」

 クマにはテルヨシの言葉は聞こえていないようだ。黒く丸い目に深い悲哀が浮かぶ。

「ちいさいころのケンちゃんは とても心が やさしい子。いつもガマンしていた。おともだちは すごくイヤな子だった」

 クマの体が震える。

「おおきくなったケンちゃんは おかあさんに おさらをなげた。おとうさんを ケガさせた」

 ぬいぐるみの顔の縫い目が解けていく。

「ボクは うんと力をたくわえなきゃいけない。ケンちゃんを しあわせにするために」

 赤ん坊サイズの体からとめどなく湧き出すものは綿でもオガクズでもない。

 白く濃密な靄。

 恐怖心でテルヨシは手を放す。

 ずっと抱いているから、というマリスへの約束は守れなかった。

「ケンちゃんはずっとおうち。おうちはイヤだ。おうちにいたい。どこかでいなくなりたい。やりなおしたい。なにもしたくない。あたらしいじぶんになりたい。うまれたくない。しにたい。しにたくない。そんな ねがいを かなえなきゃ」

 ヒグマ。もしくは、はいはいする巨体の赤ん坊。靄はそんな形をなした。ぬいぐるみ本体はヒグマの尻尾の位置に収まっている。

「ありがとうございます、しんせつな おとこの子。もうちょっとだけ きょうりょくしてね」

 クマは少年を飲み込んだ。

 ミルク色の靄の中にテルヨシは浮かんでいた。

 不安。憂鬱。無力感。絶望。悪あがき。

 制御できない感情がいくつも沸き起こり、それが終わることなく続く。

 自分の心なのに自分のものではないようだ。

 クマの思いが流れ込み、強制的な共感と同調と追体験。人間の少年の中で増幅された感情はクマに活力を与えている。


 靄ごしにくぐもった誰かの声がテルヨシの鼓膜を震わせる。

「忌々しい。人の家で好き勝手してるんじゃないわよ」

 全身から恨みと憤怒の靄を立ち昇らせるマリスがいた。その靄から形作られたのは、しなやかで凶暴な自在に動く有刺鉄線。うねり、狂い、荒ぶり、靄でできたクマの腹を引き裂く。

 テルヨシの顔が一瞬あらわになるも、すぐに再生したミルク色に包まれる。

「思念を吸い上げて糧にしてるってわけね。もう、バカな子ね。平気で恩を仇で返す畜生に情けをかけたりするからよ」

 マリスの靄から鍵が生成される。ゆっくりと浮遊する三つの鍵はどれも古風で可愛らしい。

「そんなヤツには優しさなんて、これっぽっちもくれてやる必要ないんだから」

「ごめんなさい。おこらないで。ボク、もっと力をあつめないといけないんです」

 幼い声で謝りながら、クマは躊躇なくその屈強な前足をマリスに振り下ろす。

 ガチャリという金属質な音。太く鋭い獣の爪は、突然出現した半透明の結界に阻まれた。結界を作り出した鍵はか細い光を放って消えていく。

「大事な家をあちこち荒らされてたまるもんですか」

 再び響く鍵の音。マリスは結界によって広間と廊下を他の空間と区切る。これでクマがテルヨシを飲み込んだまま逃げ出すというシナリオはなくなった。 

 マリスが操る有刺鉄線がクマの左前足を絡めとる。

 向こうも四肢を踏ん張り引っ張り返す。

 綱引きになれば体重の軽いマリスの分が悪い。

 案の定クマの渾身の力で宙を舞う。鉄のトゲに捕らわれていない右の前足がビスクドールを粉々にしてやろうと待ち構える。

 三つ目の鍵。思念体の爪が磁器の美貌を砕こうとするまさにその瞬間に、マリスは結界を展開する。勢いを殺し切れなかったクマの手は無残にキレイに弾き飛ばされた。

 守りと攻めを兼ねる結界のカウンターが見事に決まる。しかし喜んでもいられない。体内に取り込まれているテルヨシの心を養分にして、すぐにまた再生してくるだろう。

 浮遊する鍵がなくなったこのタイミングでクマは猛攻に出る。マリスに新たな鍵を作り出す隙を与えない。

「ボク、もっとおおきくならないと……。ケンちゃんのために……」

 クマの目当てはマリスが蓄えた人の心の欠片。不可能なことを可能にするためには、どれだけ力があっても足りはしない。

「まぁ、悲しい事情でもおありなの? お生憎さま! 私の知ったことじゃないわね」

 俊敏な蛇のように有刺鉄線が躍る。クマの腹を一筋切り裂く。まだ浅い。テルヨシを開放するには至らない。

 再生がはじまる前に勝負に出なければ。マリスの方からクマの懐に飛び込む。

 迎え撃とうとするクマにもわかるよう小さな手を開く。

 中には四つ目の鍵。

「見せてる分だけで全部だとでも思ったの? 浅はかだこと」

 カウンターの記憶はまだ鮮烈だ。反射的に抱いた痛みへの怯えが、人形を叩き壊そうとするクマの手を鈍らせる。

「トンマ。へなちょこ。アンポンタン」

 迷いのある攻撃を易々とかいくぐり、腹の傷口に手を触れる。

「図体が大きいだけの甘えん坊さん。ケンカってのはこうすんのよ」

 傷の裂け目をえぐるように四個目の結界が仕掛けられた。

 内部からの衝撃。

 ヒグマの化け物を構成していた白い靄が吹き飛ぶ。

 靄から解放されたテルヨシが玄関広間の床の上に転がる。

「ケンちゃん……。ケンちゃん……」

 元のぬいぐるみに戻ったクマはうわ言を繰り返す。

「ボク、もう どうしてあげたらいいのか わからないよ。ごめんね ごめんね……」

 テディベアの本体がみるみる風化していき、その布も糸も綿も、実体のない思念の靄へと変わっていく。

「あら、なけなしの迷惑料が出てきたわ。屋敷の維持に活用してあげようかしら」

 それを取り込もうと魔女めいた手つきで腕を伸ばしたマリスだが、途中でその動きを止める。

「やっぱりボロキレグマの力なんてほしくなぁい。さっさと出てって。お帰りはあちら」

 玄関のドアがひとりでに開く。緑色の明るい陽光が差し込んでいた。

「惨めなクマは持ち主のところで最期のお別れでもしてきたら」

 空へと消えていくテディベアだったものを見送り、マリスがぽつりとつぶやいた。

「わからない……。そうよね。でも足が擦り切れようとも、私たちは過去の幸せに向かって歩く術しか知らないんだから」


 まだ少し頭がぼんやりしているが、目の前で起きたことはテルヨシにも見えていた。

「助けてくれてありがとう……。すみませんでした……」

 感謝を口にするもテルヨシの気は重い。自分の判断の未熟さで危険で悲しい存在を招き入れてしまった。

「どーいたしまして! あんなのにまんまと利用されて格好悪いわね。良い子ちゃんすぎるんじゃない?」

「はい……」

 うなだれていると冷ややかな指先で頬を挟まれた。すぐそこにあるのは緑色をしたガラスの瞳。

「……もう二度と騙されないようにとっておきのティータイムはいかが? 誰も人を信じないまま死んでいったおじいさんの心の欠片があるんだけど、悪いものまで信じやすいテルヨシにはぴったりだと思うの」

「嫌だよ! 反省してるけどそれを飲むのは嫌だ。マリスたちにとって心の欠片ってけっこう貴重なものなんじゃないの? どうして人間のオレに飲ませようとするわけ?」

 人形は沈黙で応えた。

 その意図をテルヨシは探る。

 意思持つ道具たちの所有者への想いはどこまでも深い。

 効果のない幸運の木札を贈りたがるドウメキ。

 救いようのないケンちゃんの幸せを願い続けるテディベア。

 その行為に意味がなくても滑稽でも、きらめいた過去に向かってたゆまず歩き続ける。

 テルヨシとマリスの縁を繋ぎ合わせる過去の何か。

「マリスの持ち主だったのは……。ずっと前にこの屋敷に住んでいたのは……」

 見知らぬ誰かではなく、テルヨシの身近な人。

「子供の頃の、オレのおばあちゃん」

 溜息混じりにマリスが頷く。

「そういうこと」

 かつてこの屋敷には裕福で誠実な一家が暮らしていたのだという。

「良い人たちだったわ。でも悪いものを知らなすぎた」

 信頼を寄せていた人物に裏切られ財産を手放すはめに陥った。人形のマリスは大好きな持ち主が去った後もずっと屋敷を守り続けている。

「カラスの友達ができて、外の世界を探してもらったの。再会には間に合わなかったけどね」

 マリスが本当に会いたかったのはテルヨシではない。そう思うと複雑な気持ちになる。

「どうしてオレを屋敷に呼んだの?」

 とびきりにイジワルな表情で、マリスは眉と口角をわざとらしく釣り上げる。

「そんなの決まってるじゃない。悪意について教えてあげようと思って」

 先祖と同じ目にあわずに済むように。

 そうだとわかればマリスの行動も腑に落ちる。

「マリスのその憎たらしいしゃべり方や表情とか仕草も、イジワルに見えるように演技してくれてたの?」

「これは……普通よ! 失礼ね!」

 怒られた。

「あのさ」

「何よ」

 テルヨシは言いよどむ。

 マリスにとってこの屋敷が大事な場所なのは間違いない。幸せな思い出が詰まった家だ。

 それでも。

 足が擦り切れようとも過去の幸せに向かって歩き続ける今の状態は、本当に望んだものなのだろうか。

 模範解答なんてどこにも載っていない。テルヨシは自分の言葉を口に出す。

「オレはしっかりした大人になろうと思ってるけど、まだまだ頼りないよね? 悔しいけど」

「そうね」

「だからマリスにオレの成長を近くで見ていてほしい」

 その緑の瞳が過去だけでなく今と未来も映すように。

「……仕方ないわね。可愛い子分のお願いは無碍にもできないし」

 喜びに満ちた心からの笑顔。

 だというのにやはりその顔は悪党めいて。

 人形は新たな時を刻みはじめる。

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