岡島茜の物語 ①
風は見えなくても風車は回っている。
音楽は見えなくても心に響いてくる、囁きかける。
ー J.S.バッハ
ひたすら手を動かす。
自分の人生もこんな風に調律できたら…。
夜遅くのコンサートホールに私のため息だけが響いた。
私は調律師。
物心ついた時からピアノに触っていた。
かつてはプロを目指して青春をピアノにかけていたが、
あるコンクールで成績が悪かったために、
プロになる夢を諦めざるを得なくなってしまった。
ピアノを生業にするつもりだった私は突然ピアノから見放され、
何もできずにいた。
そんな時、声をかけてくれたのは東京の老舗ピアノ店の老店主だった。
コンクールで聞いた私の演奏が忘れられず、
急にピアノ界から姿を消した私を心配してくれていたらしい。
幸い、私にはピアノの知識があったからすぐに調律の仕事に慣れた。
あれから10年。
私も家庭をもーつようになり、幸せな生活を送っていた。
ある日、神奈川県のあるホールから
「コンサート前だからピアノの調教をして欲しい」
と依頼を受け、車を走らせた。
会場に入るともう暗くなると言うのに、たくさんのスタッフが準備していた。
早速ピアノを調律しようとステージに案内してもらうと
「え〜〜〜!」
と聞き覚えのある甲高い声が奥から聞こえてきた。
彼女は今井美里。
私がプロを諦めるきっかけとなったコンクールで見事優勝し、プロとなった。
大企業のご令嬢だがあまりいい印象がなく、
あの出来事から避けるようにしていたが、
今回は全くもってノーマークだった。
美里はマネージャーを怒鳴りつけてから、私に近づいてくると
「しっかりやってよ!もし変な調律だったらただじゃおかないから!」
と言い捨てるとホールから勢いよく出て行ってしまった。
気づかれなかった…
胸を撫で下ろしていると、不意に後ろから
「岡島さんですよね…」
と声をかけられた。
驚いて振り向くと、そこには美里のマネージャーが立っていた。
「はい、そうですけど…」
「やっぱり!僕、高校時代の岡島さんの演奏を聴いたことがあって、
えっと、、す、すごい感動しました!今はピアノ弾いてないんですか?」
なんて図々しいのだろうと思いながらも
「まあ、今は調律師やってます。」
と答えた。
彼がまた次の質問をしようとしたその時、彼の電話が鳴った。
彼はまだ何か聞きたげだったが、
ペコリとお辞儀だけすると奥へ走っていってしまった。
時計を見るともう来てから30分も過ぎている。
急いで私は準備を始めた。