参
父兎が眠りについて一時間が経とうとしていたころ、母兎の様子が急変した。
本格的に出産が始まったらしい母兎が必死に力む。
その様子に鬼は慌て、父兎を起こそうとした。
だがその時すでに父兎は起きており、母兎に必死に声をかけている。
愛する妻の急変に即座に気づき、疲れ切った体など関係なく必死に声をかけるその姿を見、鬼は心から安心していた。
この様子であれば自分はこの二人を守ることだけに徹していれば問題はないだろう。
そう考え、鬼は夜の闇の中に歩を進めた。
朝が来て、鬼は兎の番のもとに戻った。そのころには母子ともに無事に出産が終えられていた。
疲れ切った様子ではあるものの、健康に害はない様子の兎夫婦は、まだ見えない位置にいる鬼を喜んで迎えようとしたが鬼はそれを制止した。
「近づかないで頂きたい」
「なぜです!あなたも相当疲労していらっしゃるはずだ!」
鬼の制止を無視してまだ元気の残っている父兎が鬼のもとに駆け寄る。
するとそこには、野獣の帰り血に染まった鬼の姿があった。
その姿を見て何も言わない兎に対して、鬼は少しずつ距離を取りながら苦笑する。
「このような姿、おぞましい以外の何物でもあるまい。怖かろう。距離を取っておく故、此方には来ない事だ」
寂しげな表情をしながらそう言った鬼に対し、本当に迷いなく、鬼をまっすぐ見つめながら父兎は即答する。
「そのようなことはございませんよ」
「何故……!?」
心から「理解できない」と思いながら鬼は問う。しかし、逆に父兎は「なぜ分からないのかが分からない」と言った表情をしながら理由を述べた。
「あなたのその姿は私たちを守ったが故の物でしょう。即ちあなたの優しさと誠実さの証明です。感謝しこそすれ、怯える理由がどこにありますか」
心からの言葉であることなど、疑う余地もなく明らかだった。
予想外の反応に呆然としている鬼の心中を知ってか知らずか、父兎は鬼を母兎のいる寝床の方に案内する。
鬼が呆けながらその後ろをついて行けば、鬼がこしらえた柔らかい寝床の上で子兎と共に体を休めている母兎の姿があった。
母兎は鬼の姿を認めるや否や、丁寧にお辞儀をして礼を述べる。
「この度は本当にありがとうございます。本来であればもっと早くに言うべき言葉ではあるのですが、何分余裕のなかったものです故……申し訳ございません」
「い、いや。そんなことは別に良い。それよりも、まだ体が辛かろう。無理をせずに休むことに注力されよ」
深々と頭を下げる兎に動揺しながらも、鬼は慌てて母兎の姿勢を楽にさせる。
その行動に、母兎は未だ疲れの滲む顔で微笑みながら一言呟いた。
「本当にお優しいのですね」
「……優しくなど」
「いいえ、あなたはずいぶんお優しい」
確信をもってそう言う母兎に鬼が気圧された頃に、父兎がそういえば、と前置きをして質問を繰り出す。
それは鬼がここに来た本来の理由を問う物であった。
「あなたはなぜここに来られたのです?私たちを助けて下さったのは成り行きなのでしょう。何か別に理由があるのでは?」
その質問に鬼は誠実に、今までの経緯をすべて話した。
雪のこと、その両親のこと、出された条件のこと、それら全てを話した後、鬼は申し訳なさそうに下を向く。
兎の夫婦はその言葉を聞いて、暫く話し合った。
そしてその後、父兎が鬼の方に歩み寄ってきて衝撃の言葉を放ったのだ。
「うちの子供を連れて行かれてはいかがですか」
その言葉に鬼は絶句する。そして思い切り頬を引っ張った。
当たり前だが、鬼の頬は赤く腫れ、痛みがじわじわと広がっていく。その痛みでようやくこれは現実だと確信した鬼は、険しい表情で兎の親子を叱責した。
「一体何を考えている!?子供も生まれたばかりだろう!」
「ですが必要なのは生まれたばかりの赤ん坊なのでしょう」
「……確かにそうだが、そうだとしても!子供を大切にせぬか!そう簡単に人に……ましてや会ったばかりの鬼になど託してはならぬ」
その言葉を聞いた瞬間に、母兎がくすくすと笑った。
なぜ笑う……、と言い募ろうとした鬼の言葉の頭を潰し、おかしなものを指摘するような口調でこう言った。
「確かにそうかもしれませんが、まずこの子は貴方がいなければ生まれてすらいなかったのですよ?」
それを聞いた瞬間に、うぐ、と鬼がこの先の言葉に詰まる。
その隙を突くように、強かな母兎は更に言い募った。
「子供を食べたりしたいなら、貴方は今すぐにでもできるでしょう。そんな事をするなと忠告する必要もない」
すう、と一息覚悟し直すように深く息を吸ってから、母兎は言い切った。
「私たちは貴方を信じます。するべき事があるのでしょう、恩返しと思ってお好きなように利用してくださいな」