その六十一 種子島 対 弓
佐々政次に残された人生の中で成し遂げるべき契約は二つである。
ひとつは今川軍をしばらくのあいだ桶狭間山に足止めすること。
もうひとつは今川に緒戦の勝ちを拾わせることである。
すでに義元は鷲津砦と丸根砦の未明の攻防戦で勝利を収め気を良くしている。
信長は存命中の父信秀からいくつかの戦場訓を授けられていた。
『勝ち戦の途中で引き返す者はいない』というものもそれである。
これより先、信長はこの戦場訓のおかげで幾多の敵に勝利する。
ただ一人の例外となるのは"信玄"武田晴信であるのだが、それはまだ少し先の話である。
そして信玄の子である勝頼は戦の巧みさで父親を凌駕したが、やはり勝ち戦の途中で引き返すことができずに武田家は滅亡を迎えるのである。
おっといけない、これもまだうんと先の方のお話でした。
どうぞお楽しみに・・・・
さて、先鋒と呼ぶには余りにも粗末な佐々政次の三百騎は今川軍と大高城を結ぶ線上にあるわずかに小高い丘の上に陣取った。
今川の鉄砲に対して自軍の弓衆が少しでも有利に戦えるための作戦である。
鉄砲に対して少しでも戦闘を長引かせることもできるし、戦死覚悟で自分に付き従う郎党達を少しでも生き延びさせるための苦肉の策でもある。
それに地の利を押さえれば弓もまんざら悪くはない。
そもそもこの時期は鉄砲は相当に珍しく、まだ裕福な武家のおもちゃ程度の扱いであった。
組織的な鉄砲衆を持っていたのは海運や交易で外国から入手することが容易だった紀州の雑賀衆や根来衆であり、大名では金持ちの今川家と織田禅正忠家、それと九州筑前の"立花家"ぐらいのものであった。
合戦ではまだまだ弓が主力の時代だった。
弓衆を主力とする佐々隊が陣取った丘は朝比奈軍が占拠している鷲津砦と今川方の鳴海城からもよく見えるところである。
まさに敵地の"真ん中"である。
桶狭間山の今川本隊から先鋒の井伊直盛の部隊が駆け下りてきて佐々隊と対峙した。
先ずは井伊の使者が佐々のもとに送られた。
そこをどかなければ一戦辞さずといった最後通告である。
なんとものどかな戦風景である。
佐々が退却しない意向を伝えるといよいよ撃ち合いが始まった。
当時の種子島の弾丸到達距離は七百米。
実際に殺傷能力が発揮されるのは百米とされている。
実は弓矢とそう大差ない。
違うのは相手に与える傷の深さと手当ての煩雑さが大きな違いである。
矢傷であれば矢を抜いて止血すればそうそう大事には至らない。
しかし鉄砲傷は"外科手術"が必要だ。
放っておけば鉛中毒で死に至る。
それに弓の名手ともなれば素早く次の矢を連射できるのと違って、鉄砲は相当な熟練者でも一分間に三射がせいぜいであった。
地の利さえ押さえれば鉄砲に対しても弓は圧倒的に不利とまではいえなかった。
佐々の弓衆頭は弓の名手として織田家中にその名を知られる大田又助であった。