その五十七 草薙の剣
今川軍が沓掛城を発って鎌倉道にある頃、熱田神宮は馬のいななきと兵たちのざわめきで埋め尽くされていた。
本殿前にはすでに一益の鉄砲隊が整然と並び、その回りを馬廻り衆や弓衆、足軽の長槍隊が各隊ごとに固まって今後の行く末を案じあっていた。
皆不安でいっぱいなのだ。
そんな中で一益の鉄砲隊だけが冷静に時を待っていた。
やがてざわめきが前方からすーとしずまっていった。
大きな伽藍の本殿から信長とおぼしき人影が熱田の宮司とともに現れた。
中で戦勝の祈祷でも済ませた様子である。
日頃、神も仏もない信長には珍しき行いである。
段上の人物はぐるりと兵馬を見回すと、遠くまで通るカン高い声を発した。
やはり信長であった。
「聞けっ!・・・・今川は鎌倉道をこちらに向けて進んでおる」
兵士達の間に動揺のどよめきが走った。
ここ熱田神宮は鎌倉道の先にあった。
「今川の行き先は大高であろう。その大高を見張る鷲津と丸根は夜明け前に今川の手に落ちた」
今度はその場を沈痛な沈黙が支配した。
しばらく間をおいて信長はいっそう大きな声で言い放った。
「これ善きことの前兆なり」
兵たちは耳を疑った。
あのうつけ殿は大切な砦を二つも失ったことを良い前兆と言ってのけたのだ。
「我らはこれより桶狭間山にて今川軍を迎え撃つ!」
兵たちはどよめいた。
今川と講和せずに立ち向かおうとする信長の心意気には感心しても、甲斐や北条すら手出しできぬ強国の今川相手に尾張ごときが勝てるはずが無かった。
「なんぼ若殿御自慢の鉄砲隊でも、今川にゃーその三倍四倍もの鉄砲があるってこった。まして高台を取られて織田が勝つ見込みなど万に一つもにゃーだで・・・・」
誰もが信長の狂気を疑った。
「あれをこれに・・・・」
信長は左手を上げて子供の頃より馴染みの宮司になにやら所望した。
宮司は五尺ほどの長さの古い桐箱から、恭しく中身を取り出すと信長に差し出した。
信長は羅紗に包まれた"棒"のようなものを掴むと空高く掲げた。
それを見た兵たちの間にかつてないどよめきが広がった。
「あ、ありゃー、も、もしかして・・・・」
「おうよ、きっと、あ、あれだ」
「・・・・ 草薙の・・・・剣」
「いいんか、あんなもん持ち出して」
「本当にあったんだ ・・・・」
兵達の顔からさっきまでの不安の影が吹き飛んだ。
「こりゃー、負けるわけがにゃーだで」
信長は"棒"を突き上げながら叫んだ。
「天が我らにお味方して下さる」
一益はときを逃さずとばかりに階段を駆け昇り、勝ち鬨の音頭を取った。
「えい、えい、」
兵達が答えた。
「うぉー」
「えい、えい、」、「うぉー」
「えい、えい、」、「うぉー」
織田の士気はさっきまでのどんよりとした空気が嘘のように高揚した。
神など信じぬ信長が、神の末裔の"神器"を利用した。