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その五十六 鎌倉街道

巳の刻(午前十時ごろ)に 沓掛城を発った今川軍は鎌倉街道((のち)の東海道)に出ると右に折れて道なりに北西に進んだ。


沓掛から大高城へは鎌倉街道を横切って現在の中京競馬場と大高緑地付近を突っ切るのが最短ではあったが、その道沿いは田やため池が多く大軍を展開するには不向きなため除外された。


多少遠回りでも街道を行けば見通しが良いし、道すがら領民達に今川軍の威容を誇示することもできる。


駿河、遠江、三河に加え東尾張にまで支配を広げた海道一(・・・)の弓取り、今川治部大輔(じぶだゆう)義元の評判も上々というものである。


街道に近い集落からは新しい領主を一目拝もうと百姓達が大勢出てきて今川軍を見送った。


「いってゃーどれが義元様かね?」


「おみゃー、そりゃああの立派な輿に乗ったお方にきまってるずら」


すると近所の寺の住職が、「いやいや、あれは高貴な方をお乗せするための特別な輿じゃ。きっと名のあるお公家様が同道なさっておいでなのだろう。だいたい海道一の弓取りと評判の今川様が輿になどお乗りになろうはずがなかろう」


「ほー、そういうもんかね。それにしてもなんちゅう数の種子島ずら。織田の殿様も種子島にゃー入れ込んでたらしいが、これほどまでゃー持っておらにゃーずら」


領民たちは今川の兵達が見慣れた弓や槍ではなく、多くが鉄砲で武装していることに驚いた。


「いかんいかん、朝四つの鐘を忘れておった」


住職は今川の隊列を半ばまで見届けるとそそくさと帰って行った。


領民たちは野良仕事をほったらかして今側軍のいつ尽きるとも知れぬ長い行軍をながめていた。


「こりゃ、織田の若殿が戦を嫌って清洲に引き篭もるのも無理ねーずら」


「これで大高、鳴海からこっちはいよいよ今川様の領地ちゅうことずら」


「そんじゃーなにかい、今度の神宮祭(あきまつり)は今川様の仕切りちゅうーことかい」


「ちげーにゃーずら。熱田様が新しい国境(くにざかい)ちゅーことずら」


実のところ領民達にとっては主が織田でも今川でもどちらでも良かった。


祭りが例年通り行われ、戦の巻き添えで田畑が荒らされなければそれでよかった。


ここで義元をはじめ今川の重臣たちはひとつの思い違いに気がついていなかった。


信秀の死後、沓掛城、大高城、鳴海城の各城主たちは示し合わせて今川に寝返っていた訳であるが、城が寝返ったからと言って領民の全てが今川の領民に宗旨替えしたわけではないということである。


領民に紛れた、又は領民に扮した織田方の(しのび)の者が大勢居残っていた。


元々が都の坊主上がりで世間知らずの義元と、陰謀渦巻く織田の家中を生き延びてきた信長とではこの"草"の使い方が勝敗を分けることになる。


やがて長閑な田園風景が広がる沓掛の里にさっきの住職が突いているであろう朝四つの鐘が鳴り響いた。


その鐘の間隔が妙に不揃いなことに気が付く者などどこにもいなかった・・・・



今川軍は遠回りをしても街道沿いに見通しの良い道を進んだ。


江戸期ほどに整備が行き届いていたわけではないが鎌倉街道での行軍は楽だった。


やがて街道は北に回り込み、小さな水路と浅いが幅のある川を渡ると再び西行きに転じて緩やかな勾配の昇り坂になった。


坂を上りきった小さな峠のようなところまで来ると道の北側に、寺と神社に至るらしい鳥居と灯篭をそなえた石段が見えた。


このままゆるゆると下りながら西に進めばあと一里ほどで"熱田神宮"である。


義元は北側の山林にある相生山神社と徳林寺に織田方の兵が潜んでいないことに安心すると、ここでようやく街道を逸れて目的の大高城目指して南下を始めた。


とにもかくにも見通しの良い道、見通しの良い道を選んでの行軍であった。


義元は信長のことを"うつけ"などと侮っいなかったからだ。


このまま容易く尾張半国を寄越すとは到底信じられなかった。


しかしこの眺めの良い丘から見渡す東尾張一帯に織田の兵らしい姿などまったく見当たらなかった。


南の正面にはキラキラと日光を反射してまぶしく輝く伊勢湾があった。


手前にはまだくすぶり続けて煙を立ち昇らせている鷲津と丸根の両砦が、その小さな尾根の向こうに屋根だけが見えているのがこれから向かう大高城である。


それらのずっと先には知多半島が続いているはずであるが(もや)ってよく見えなかった。


知多半島は松平元康の生母である於大(おだい)の実家の水野家の所領であり、そもそも大高城はその水野の最前線の拠点であった。


そういう経緯があったればこそ、井伊直親が元康に大高城救援を任せたことを義元も善しとしたのであった。


今何故か、そのことに少し引っかかるものを感じた義元であったが、昨日からの元康のめざましい働き振りがそれを打ち消した。


信長が震えながら籠もっているはずの清洲城までは西に二里も無いはずであったがやはり(もや)に霞んで覗うことは出来なかった。


ただ清洲との中間にあたる"熱田神宮"は、その鎮守の森に埋もれて窺うことができた。


その杜の中に織田の主力がすでに集結しているとは予想の外であった。


・・・・尾張との手打ちが済めばすぐにでも熱田から"あれ"を供出させ、伊勢神宮の"もうひとつ"とともに携えて御所に参上するのよ・・・・


熱田と伊勢が"それら"をすんなり渡すとは思えなかったが渡さねば"殺す"と言えば出て来ぬものも出るであろう。


現に平家は"三つ"のうち二つまでを手にしていたのだから・・・・


後に続く馬の嘶きで義元が我に返り背後を振り返ると、さっきまで軍勢を進めてきた街道沿いの里山に相生山神社の鎮守の森が一際こんもりと盛り上がって見えた。


その脇にある徳林寺の昼九つを知らせる鐘が一帯に鳴り響いていた。


どこを切り取っても長閑(のどか)一色の風景である。


そしてやはり鐘の間隔が不揃いなことに気付くものは皆無であった。  


義元ならずともあとわずか一時(いっとき)の後に、ここが一面血に染まる一方的な殺戮の場になろうとは想像すらできないことであった。

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