その四十九 策士の家系
密かに今川を裏切り織田に加担するとして、元康には気が咎めることがあった。
いつも自分を気にかけ引き立ててくれた三河井伊谷の領主、井伊直盛のことである。
今度の遠征でも初陣の元信に先鋒は荷が重かろうと、自ら危険な先鋒大将を進み出たのである。
直盛はことあるごとに元康にこう囁いていた。
「三河をお任せできるのは元康様をおいて他にございませぬ。我ら井伊をはじめ奥平や水野は、いざとならば松平の旗印のもと強く結束いたす覚悟に御座い申す。今は耐え難きを耐え、忍びがたきを忍んで元康様の成長をお待ちしておりまするゆえ」
直盛は早くから元康の素質を見抜き、松平家を押し立てての三河の独立を願っていた。
元康は三河軍に軍監として紛れていた梁田政綱に事情を話し井伊軍も味方に引き入れたい旨申し入れた。
「政綱殿、此度の手筈、せめて井伊殿だけにはお知らせしておきたいのだが如何」
すると鳥居元信が割って入り元康にこう進言した。
「殿、今は秘密が漏れないようにすることが何より肝要。たとえ昵懇の井伊殿とて戦の趨勢を左右しかねぬような秘事を明かすは戦の定石に反しまする」
「 ・・・・ 」
元康は押し黙った。
確かに鳥居の申す通りであった。
・・・・ やはり井伊殿をお助けすることは叶わぬか ・・・・
二人のやり取りをただ黙って聞いていた政綱は鳥居が元康の傍らを離れるのを待ってから元康に耳打ちした。
「 ・・・・ 元康様。そもそもあなた様に大高城への兵糧入れを命じたのはどなたで御座いましたかな?」
はっとして元康は政綱の顔を見返した。
元康と目を合わせた政綱は黙って頷いた。
・・・・ なんと、すでに井伊殿は我らに先んじて織田と結んでいたということか? ・・・・
言葉にはせねど政綱の態度ははっきりそう語っていた。
・・・・ 自分は大高に来た時点ですでに織田に寝返る算段が井伊と織田の間で取り交わされていたのだ。
元康は信長の人知を超えた調略の手腕を心底恐ろしく感じた。
・・・・ これはすでに勝負は見えたか ・・・・
・・・・ しかし織田殿は今川が所持する大量の鉄砲とどうやって向き合うつもりなのだ? ・・・・
元康にも最期まで解けなかった今川が当時最強たる所以の戦国一の鉄砲を打ち破る秘策。
これが後世、桶狭間の戦史が大きく誤解される要因となるのであった。