その四十七 五郎兵衛
信長が軍議を投げ出していた頃、清洲から四里離れた鳴海城では蜂須賀小六が岡部元信との談合の最中であった。
「五郎兵衛殿、塗り輿の一件、上首尾に御座りました。御落胤を取り戻した義元殿は、行軍の目的を上洛に切り替えて一気に西進してくるでありましょう」
岡部はあくまで交渉役としての立ち場に拘った。
「某は無用な衝突を回避するために義元様と上総の介殿との間を取り持ったまでに御座います」
「我らとて同じで御座る」
小六は元信の苦しい立場に共感して見せた。
「三河の元康様は、すでに覚悟を決めておられる御様子で御座る」
五郎兵衛は驚いて問い返した。
「 ・・・・ 三河の婿殿がで御座るか」
「如何にも。三河は間もなく鷲津と丸根の砦を攻撃する手筈に御座いましょう。この鳴海城からはその一部始終が見えましょう」
小六の言葉の意味するところが五郎兵衛には解せなかった。
「織田の砦を攻めることがいったいどう覚悟を決めたことになるのでありましょうか?」
小六はにやりとすると誰も居ないにも関わらず小声で囁いた。
「あれは囮の砦に御座る」
「 ・・・・ 」
五郎兵衛は即座に理解した。
「厄介な三河軍を義元殿のそばからから引き離す為の方便に御座れば」
五郎兵衛はもはや後戻りできないところまで織田に絡めとられたと悟った。
「して、某にはいったいどうせよと申されるのだ。我らは駿府に人質を残してきておる。おいそれと織田に寝返えるなど出来ぬ相談ぞ」
小六は岡部をなだめるように言った。
「鳴海はただ動かなければそれでよろしい」
五郎兵衛には意外であった。
てっきり小六は寝返りの勧誘に現れたのかと思っていたからだ。
「勝負は時の運。どう転ぶか判らぬ戦に味方までせよとは申せませぬ。もし織田が敗れたら五郎兵衛殿は孤軍奮闘鳴海を死守したと堂々と褒美を請えばよろしかろう」
「しかしいざ合戦の兆しを察知していながら、城兵を出さぬでは後々怪しまれもしよう ・・・・ 」
「だから明日なのだ。明日は大潮で御座る。ここいらは大潮ともなれば増水し鳴海城は深田に浮かぶ。撃って出ようにも足元を取られ満足な働きなど叶わぬ。それに ・・・・ 五郎兵衛殿の手柄は織田がちゃんと御用意いたすゆえ心配には及びませぬ」
「負け戦に何の手柄など御座ろうか」
小六は岡部の耳元に囁いた。
「大将の御印で御座る」
・・・・ なんと、織田は本気で今川を打ち破るつもりでいるのだ ・・・・
「五郎兵衛殿、一年前に織田が鳴海を攻めたときのことを覚えておいでか?」
「如何にも。あの折は後詰も無く、もはやこれまでと覚悟を決めておりました」
「あのとき、織田は鳴海城を落すことなど造作も無かった」
「 ・・・・ 」
「しかし信長様は本気で城攻めせず、鳴海城を取り囲むように丹下、善照寺、中島の砦を築いて連絡と補給を絶つに留めた」
「 ・・・・ 我らを孤立させ、今川を誘き寄せるつもりであったと?」
「さすがは五郎兵衛殿、話が早い。大高城も同じで御座る」
今川は中途半端に鳴海城と大高城を押さえてしまったがため、よく知りもせぬ土地に救援を差し向けねばならない羽目になったのである。
信長の仕掛けたキルゾーンである。