その四十四 囮の砦
義元は信秀の代から一進一退を繰り返してきた東尾張の旧領奪還を名目に、大規模な織田討伐軍を編成して駿府を発った。
領地奪還は従軍する国人領主達への表向きの言い訳に過ぎなかった。
義元の真の目的は織田に奪われたままの"藤吉郎親王奪還"であった。
総勢二万五千の大軍勢が尾張領内の沓掛城に入ったのは五月十七日のことである。
その軍勢の中に、まだ十七歳の松平元康もあった。
最前線に孤立する大高城に兵糧を届けるための先鋒として三河軍が入城したのは翌十八日のことである。
その元康の所に信長からの密使として梁田政綱ら二名が訪れた。
「元康様、上総介様は幼き頃より馴染みの元康様とは刀を交えとうないと仰せで御座ります」
それは元康とて同じ思いであった。
元康は幼少の頃を織田の人質として過ごし、八つ年長の信長とはよく遊んでいたのである。
「某にとりましても信長様は兄とも思うておるお方にございますれば戦などしとうございませぬ。しかし我ら三河は、いまだ国の体すら成しておりませぬ。今川の属領に甘んじておる限りは命に従い、どなたとでも戦わなくてはなりませぬ・・・・」
元康は有り体に苦しい胸の内を打ち明けた。
それを聞いた政綱は、膝を打って元康に進言した。
「実は信長様からノ御提案を持参いたしておりまする」
元康は困惑の表情を呈した。
まだ若い元康に敵方から調略を掛けられた経験などなかったのだ。
しかし、元康の脇に控える三河の家臣たちの中に当惑する若き当主に助け舟を出す者はいなかった。
皆、元康に場数を踏ませようとしていたのだ。
また、話を持ち掛けてきた梁田はすでに三河者に溶け込み、気心が知れていた安心感もあった。
政綱は続けた。
「如何でございましょう。元康様はこのまま沓掛城には戻らず大高城に留まり、夜半に我方の丸根砦と鷲津砦を攻撃されては。それなら孤立した大高城の補給路を確保するため残って戦ったのだという立派な口実となりましょう」
元康は驚いて梁田に問うた。
「良いのか、我らが本気で責めればあのような小さな砦、三日と持たぬぞ」
それには、梁田の脇に控えていた蜂須賀小六が答えた。
「半日持てば充分にございます、それで元康様と信長様が戦場で会いまみえることがなくなるのでしたら安いものでございます」
「 ・・・・ しかし、ここには間も無く朝比奈殿も到着致し申す。勝手な振る舞いは許されませぬ」
「朝比奈隊が大高城に入ったのを見計らって砦から挑発行動すれば朝比奈殿も元康様に同意されましょう。それに・・・・。朝比奈殿のことは御心配には及びませぬ。あちらにも別方面からの調略を仕掛けて御座いまする。代替わりして以降の朝比奈が義元殿から疎んじられていることは元康殿もお気付きで御座いましょう。朝比奈殿は内心で今川家の代替わりを望んでおいでです。御嫡男の氏真殿とは年も近く仲がよろしいですからな。いざとなれば朝比奈殿はこれ幸いと義元殿を見捨てて氏真殿が家督を継いだ今川家で権勢を振るわんと考えるでありましょう。当主が落命したぐらいで傾くような今川家では御座いますまい」
若い元康の心はぐらついた。
三河者達の中にも、"ここは一つ織田に賭けてみても良いぞ"、という雰囲気が広がった。
・・・・ 我ら三河者が抜けた今川は、頭数ばかりの実戦経験の乏しい兵ばかりとなろう ・・・・
・・・・ 首尾よく織田が義元の首でも取ろうものなら、労せずして三河一国が転がり込んでこよう ・・・・
・・・・ それにたとえ織田が滅んでも今川からは褒美が出る ・・・・
・・・・ どちらに転んでも三河に損は無いではないか ・・・・
この合意により、信長は今川方最強の三河軍を決戦場から排除することに成功した。
後に、家康との織田・徳川連合につながる、大きな、大きな調略となった。