その四十三 尾張征伐
話を戻して永禄三年五月(1560年)桶狭間の前夜である。
信長の父の信秀が死ぬや、三河国境の城主達は合い通じ合って今川に寝返った。
沓掛城、鳴海城、大高城は今川の支配となり、中でも鳴海城と大高城が織田領に深く食い込む形となった。
信長は沓掛城はあっさりと諦めたのに対して、鳴海城に対して丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を。
大高城に対しては丸根砦と鷲津砦を築いて今川からの物資補給を妨害する策を取った。
はた目には、今にも迫り来る今川の大軍勢を恐れて戦意喪失した尾張が、講和の落とし処を探っているかのようであった。
このように桶狭間前夜の情勢は誰がどう見ても今川優勢ではあったのだが、今川にも悩みが無いわけでは無かった。
孤立した鳴海城と大高城に対する兵糧の補給という問題が常に付きまといついに義元は重い腰を上げて尾張侵攻を決意せざるを得なくなった。
今川義元は三河、遠江の軍勢を差し向け本格的な尾張侵攻に着手した。
もうひとつ・・・・
義元には早く信長から取り返したいものがあった。
親皇藤吉郎である。
・・・・ それこそが信長の策略である ・・・・
戦意喪失と見せかけ義元に今川が有利と信じ込ませ今川軍を尾張領内に引き入れる。
作戦の肝は今川方最強の三河軍の去就と、大軍勢に紛れてどこにいるか判らぬ大将義元の居場所をどのように特定するかにかかっていた ・・・・
三河軍の調略は予ねて三河衆とも染みの深い梁田政綱が担うべく、先鋒として大高城に突出した松平元康の元に向かった。
義元を尾張領内に引き入れ、大将の居所を織田方に晒す役目は"藤吉郎"が再び一芝居打つ手筈である。
義元が上機嫌で沓掛城に入城する頃合を見計らったかのように、鳴海城と織田方との交渉を任されていた岡部元信から朗報がもたれされた。
「上様に申し上げまする。織田上総介様からの御要求は、尾張国境の安堵と此度の今川義元様御上洛への従軍にございまする。
殿が望まれた御落胤は御上洛の手土産に輿を仕立て、明日にもこの沓掛城に差し出すとのことでございます」
「何?、上洛だと ・・・・ 」
義元は唖然とした。
「あのうつけは、わしが上洛のためにわざわざ大軍を仕立てて、ここまでやって来たと思うておるというのか ・・・・ 」
だがしかし、義元は行軍の目的を上洛に切り変えることに吝かではなかった。
天子様への大きな土産が手に入ったからである。
在位三年目の正親町天皇はすでに齢四十三で在るにもかかわらず、お子の誠仁皇子はまだ親王にすらなっていない八歳である。
ここで成人した御落胤をお連れすれば、親王、そして次の天子様という目も充分に在りうる。
後見人として上洛すれば、天下の征夷大将軍にも任ぜられよう。
義元は己が鎌倉、室町に続く新たな武家の頭領となりうる、千載一遇の機会を手にしたと思った。
ここは急がなければならぬ。
ここまで出張って来ておいて、また駿河から出直すのは、あまりに面倒である。
これで尾張を安心して抜けることができるということは、このまま大軍を恃のんで手っ取り早く上洛してしまうのが得策である。
織田の倅め、今川の上洛軍に領内を蹂躙されると思い恭順の意を示したほうが得策と考えたか。
あのうつけも少しは物の道理をわきまえる様になったということか。
尾張の先の美濃は、うつけの嫁の実家ゆえ信長を先陣に立てれば労せず抜けることも叶おう。
その先の近江浅井は足利将軍の頃からの馴染みである。
如何様にも丸め込めよう。
何しろこちらは"親王"様を御輿に担ぐのだからな。
由緒正しい守護大名ならば誰も手出しできまい。
近江まで進めば都はもう目と鼻の先である。
義元はうって変って穏やかな口調で元信に言った。
「織田殿に申し伝えよ。御落胤を沓掛城でお引き受け申すとな。さすれば上洛への従軍も許し、尾張も安堵いたそう。
我軍が到着するまで清洲から一歩も出ずおとなしく待っておられよとな。元信、清洲は其の方がよく見張っておれ」
御落胤が義元の目を曇らせた。