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その四十二 信玄の"弟"

義元が"三河の婿殿"と呼んだのは岡崎城の若き当主、松平元康(徳川家康)のことである。


義元は三河衆の他に類を見ない強い結束力と戦闘力を巧妙に取り込もうとしていた。


しかし彼らがその力を発揮するのは三河の血を引く領主があったればのことである。


国力こそ違えど、三河衆と美濃衆には似たところがあった。


優れた統治者であり人心掌握術にも長けた義元はそのあたりのことも熟知していた。


そして残念なことに己が跡目の氏真には大国の領主となるべき資質が欠けていることも悟っていた。


義元は己が亡き後、氏真の補佐役を元康に求めた。


元康には大国を任せられる、その器量があると義元は見込んでいた。


それ故、しがらみを知らぬ幼少のうちから竹千代を駿府に呼び寄せ、今川家の一員として養育してきたのだ。


強兵を誇る松平を今川の忠実なる家臣にしようとしたのである。


それは松平にとっても今川にとっても良いことのはずであった。


元信、元康の"元"の字は義元から授けられた偏諱である。


義元亡き後も今川への忠誠心を持続させるためには、松平に領土的な野心を持たせてはならなかった。


義元が松平に求めたのは同盟者より臣従である。


そんなおりの今川家に珍事件が舞い込んだ。


甲斐を嫡男の晴信(信玄)に追放されて今川家の客人としてあった武田信虎が義元の姪の瀬名姫に手を付けあろう事か孕ませてしまったのである。


信虎は齢六十四、瀬名は十五であった。


いやはやとんでもない豪傑ぶりである。


瀬名が産んだ子はおのこであった。


つまり信玄の腹違いの()ということになる。


その頃の今川は信玄の姉で義元の正室だった定恵院が鬼籍に入り、甲斐との新たな結びつきが求められていた。


しかし、いくらなんでも瀬名が産んだ子を今川家に迎える余地は無く、その扱いに苦慮していた。


そこで義元は一石二鳥の名案を思いついた。


瀬名を松平元康の正室にねじ込み、その子を嫡男とさせ松平から領土的な野心を奪い、松平、今川、武田という三国の同盟を磐石とすることであった。


義元の意に逆うことなど出来ぬ元康は、やむなく子連れの瀬名を室に迎えるほかなかった。


されど腹違いとは申せ、信玄の弟を身内に抱えることはそれまで織田や武田の脅威に怯えていた三河にとって悪い話では無かった。


無論一本気な家来衆にはけっして明かせぬことである。


事はすべて駿府に於いて秘密裏に進められた。


事情は違えど信長が道三の子を嫡男としなければならなかったことと似た宿命を家康も背負ったことになる。


元康の母於大は後にこのことを知ると激怒し、築山とその子は長く家康から遠ざけられ家康が浜松城に移った後は岡崎城を与えられた。


その子には成長するにつれて実父である信虎の激しい気性が現れるようになった。


勇猛かつ有能である代わりに酷薄で残虐さも目立つようになった。


家康から愛されなかったことも災いしたのかも知れない。


祭りで楽しく踊る領民達を理由なく弓矢で射殺すような行状も書き残されている。


彼こそがのちに母の築山とともに非業の最期を遂げることとなる松平信康その人なのである。

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