その三十二 道三の最期
信長との会見の翌年、利政は父親に不信感を募らせた義龍と彼を支持する長井道利らに稲葉山城を追われ鷺山城に隠居させられた。
傷心の利政は仏門入りして名を道三と改めた。
一般的に武家の仏門入りとは軍事的な権限を放棄するという意味を持つ。
恐らくは隠居に名を借りたクーデターであったのだろう。
美濃は利政が疎んじていた嫡男の義龍に代替わりした。
しかし、自分に全く似たところがない義龍が家督を継ぐことにどうしても我慢ならなかった道三は、義龍を廃嫡し帰蝶と同腹の弟の孫四郎に家督を移そうと画策した。
しかしそれが災いして孫四郎も、さらに下の弟の喜平次も義龍と長井に謀られて殺されてしまうこととなった。
道三に残されたのは尾張に嫁いだ帰蝶だけとなった。
禍根を断ち切るため義龍はさらに実父の道三すら討とうと美濃中の諸将、国人領主達に道三追討の檄を飛ばした。
父親の道三同様義龍にも美濃の主を名乗る根拠は希薄であったが、道三に煮え湯を飲まされ続けてきた国人領主達は道三憎さと骨肉の争いへの興味からこぞって義龍の配下に靡いた。
道三は孫四郎、喜平次の仇を討つべく懇意の明智城城代の明智光安ら少数の加勢を得て長良川岸でわが子義龍と対峙した。
義龍の集めた兵一万七千余に対して道三側は僅か二千五百でしかなかった。
それでも戦に長けた道三には勝算があった。
義龍側の国人領主達は勝ち馬に乗ろうとする日和見連中ばかりである。
死傷を覚悟で本気で戦うものなどいなかった。
緒戦の局地戦で勝ちを拾えば、「やっぱり道三は戦上手よ」、と裏切りが続出すると踏んでいた。
ところがいざ蓋を開けてみると、義龍の軍配は見事なものであった。
戦意の低い日和見部隊を長良川を背に縦割りに配し、退路を奪った上で相互を監視させた。
圧倒的に多数であるにも関わらず、まるで寡兵で大軍に挑むかのような逃亡も裏切りも許さぬ、まさに背水の陣を敷いたのだ。
当時、いや四十四年後の関ヶ原に於いてさえ布陣の単位は領主ごとに任せていたのだから、このときの義龍の布陣は戦意の低い寄せ集め部隊で合戦に及ぶ際の良い成功例として記録されていても良さそうなものである。
現に道三の応援に掛け付けた信長は、この合戦には間に合わずに引き返したが、義龍の優れた布陣のことは記憶に留め後年長篠合戦の際に応用している。
関ヶ原に於いても戦意の低い部隊を内包する西軍が義龍の布陣を見習っていれば、裏切りの連鎖を防げたかもしれない ・・・・
おっと、これは物語の最後の方で語られることであった。
読者にはしばらくのあいだ我慢いただこう。
さて、義龍側の思わぬ強固な布陣を目の当たりとした道三は遅ればせながら我が子義龍の才を認めざるを得なかった。
これでは局地戦で勝ちを重ねて戦局をひっくり返そうと意図していた道三も手も足も出なかった。
・・・・ もしかしたらわしは大きな過ちを犯したやもしれぬ ・・・・
しかし今更方針の変更は不可能であった。
道三の遺命と共にこの世への置き土産はすでにその手を離れていた。
舅の危機の知らせを受けた信長は精鋭部隊の援軍を差し向けたが、覚悟を決めた道三はそれを待たずに決戦に至り、六十三年の生涯に幕を下ろした
「何故援軍を待たなかった?」
行軍の途上、道三の討ち死にの知らせを受けた信長の脳裏に一年前の正徳寺の約束が蘇った。
・・・・ 帰蝶に子が授からないときには美濃の子を託すと ・・・・
道三の覚悟の討ち死にには、その思いが込められていたのではないのか?
・・・・ では、道三が託そうとする者は何処に ・・・・
一方、道三に味方した明智光秀と義父の明智光安らは明智城に籠城したが勢いに乗る義龍の大軍に囲まれ落城は目前であった ・・・・
そんな落城間近の混乱の中で光安から光秀に重要な申し送りがなされようとしていた。