その三十一 切腹
美濃から帰蝶の弟を養子に貰い受けると聞かされて、政秀はとても平静ではいられなかった。
それはそうであろう。
小国とは云え戦国大名を標榜する織田弾正忠家を先代の信秀より託された平手にしてみれば、自分が労をとった美濃斎藤家との縁談が織田家にとんでもない災いを招き入れるとになってしまったと責任を感じていた。
もう一つ。
実は平出には心当たりがあった。
帰蝶には子が出来ぬかも知れないことを事前に察知していたのだ。
帰蝶は信長に嫁ぐ前に美濃国内で一度嫁いでいた。
しかも嫁ぎ先で流産を経験していたのである。
次の懐妊は無いかも知れない。
なに、正室に嫡男が生まれずとも側室に生ませれば良い。
平手はそのことを知りながら美濃との同盟を優先させる余り、信秀にも信長にも帰蝶についての事実を隠して縁談を進めたのだ。
尾張にそこまで知る者はいない。
美濃から漏れる恐れも無いだろう。
双方の安全保障に関わる秘め事である。
当の信長自身も進んで利政の申し出を受け入れたようである。
そのことで平手が責任を取らされることは無いだろう。
しかし高潔で教養が高く責任感が人一倍強い平手には自分自身が許せなかった。
帰蝶の父親、利政ははじめからそのつもりで子が授からない帰蝶を弾正忠に嫁がせたのではあるまいか?
帰蝶に子が授からない場合は同盟を解消すると脅して自分の子を養子に押し付ける算段で。
自分は蝮に騙されていたのでは・・・・
このままでは弾正忠家は美濃斎藤家に乗っ取られてしまう・・・・
平手は自分を信じて信長と弾正忠家を託した信秀に対して申し開きが出来なかった。
そもそも林一派と土田御前が結託して信秀を謀殺しようとすることを見逃してしまったのも筆頭家老である自分の責任であった。
・・・・ 危機の芽は早く摘み取らなければならない ・・・・
平手は織田家筆頭家老である我が身と引き換えに利政の陰謀を思い留まらせようと短絡した。
すでに冷静な思考を失っていたのかもしれない。
当時の武家、それも大名家にとって不本意な養子に家督を乗っ取られるなどというようなことは、あってはならない一大事であった。
政秀は思いつめた挙句に一人腹を切って果てた。
信長に利政との密約を破棄させるためには帰蝶を貰い受けた自分が一命をなげうって訴えるしかないと考えた。
さすれば利政も引かざるを得まい。
平手切腹の報で織田の家中は上へ下への大騒ぎとなった。
誰にも切腹の理由が思い当たらなかった。
平手の遺志を理解したのは美濃の利政と信長の二人だけだろう。
それと帰蝶・・・
「なにっ! 平手が腹を切っただと ・・・・ 」
知らせを聞いた信長はそのとき初めて結果的に平出をおいつめてしまったことを悟った。
すべて自分の説明不足であったと悔いた。
平出が責任を感じる
信長は茫然自失となった。
父を亡くして一年足らず ・・・・
今の信長にとって政秀は父代わり、いやそれ以上の存在であった。
事の顛末を調べた奉行でさえ、「平出殿が何故急に腹を召されたのかについては誰にも心当たりが無いのです ・・・・ 」、と困り果てた。
信長はすぐ思い当たった。
父信秀の死が、叔父信光と林兄弟の共謀による暗殺だったとを平手も気付いていたのではなかろうか?
いや、きっとそのような謀反を許してしまったことに平手は責任を感じていたのであろう。
それに追い討ちをかけるように織田の世継ぎに養子を迎え入れるかも知れぬことをわしに仄めかされたことが平出を切腹に追い込んでしまった。
平手の忠誠心と生真面目さを思えば迂闊だったのは信長の方である。
影で信長の日頃の素行の悪さをあげつらう者や平手の子息達と信長との反りの悪さをまことしやかに言う者もあったが、平手政秀切腹の詮索ははとうとう解らず終いで沙汰止みとなった。
信長は生涯に渡って自分を責め続けることとなる。