その二十八 正徳寺
正徳寺の境内は織田の六文銭の旗に埋め尽くされていた。
それを遠巻きに取り囲むように斎藤の二頭波頭の旗が穏やかにたなびいていたのだった。
まるで織田が美濃勢に包囲されて篭城しているようだった。
もし双方が不穏な動きを見せれば中にいる信長なり利政が人質の役割を果たすことになる。
もちろん尾張に残る帰蝶も同様である。
正徳寺に到着した後の信長の行動は実に素早かった。
ぬる湯で全身を拭き清めると、へんちくりんだった髷を結い直し、もともと薄い髭をあたり、持参した真新しい装束を身にまとった。
さきほどまでと打って変わった領主然としたいでたちで先行きを案ずる家臣たちの前に現れるや、「余を信じてここで待て・・・・」とだけ言い残し、あっけにとられる家臣達を本堂に置き去りに会見の席が用意されている奥の書院へと消えていった。
我に返った家臣たちは口々に、
「おみゃー今の若殿を見たか?」
「ああ、なんとも御立派な御主君振りだったでゃー」
「きゃーったら留守居組みにいい土産話が出来たぞ」
「おりゃー若殿に男惚れしちまったぜ」
中には嬉しさのあまり涙ぐむ者さえあった。
元があまりにやんちゃだっただけに信長の変貌ぶりは余計に家臣達の意表を突いた。
それは迎える側の美濃の面々にとっても同様であった。
ついさっき、信長の行儀の悪さを盗み見て、噂通りのうつけ者と侮っていた利政の取り巻き連中は、信長の文句の付けようのない立ち居振る舞いを目の当たりに不機嫌に押し黙るしかなかった。
利政の取り巻きは信長とは対照的に年配者ばかりだった。
利政が血気ばかり盛んで気が回らない若者を好まなかったせいである。
美濃の蝮と国内外から恐れられる狡猾極まりない利政は、経験も知恵も足りない未熟な若者を毛嫌いしていた。
当然、信長も利政が嫌う "若造" のはずだった。
その利政だけが信長の意表を突いた変わり身の意図を理解した。
「遠路はるばるよう来てくださった、婿殿」
・・・・やれやれいっぱい食わされておった。うつけの評判は他国を欺く隠れ蓑よ。この食えぬ奴、若造と侮らぬ方がよさそうだ・・・・
この油断させて相手方の意表を突く作戦は藤吉郎の発案だった。
人間不意に意表を突かれると反感か好意かのどちらかの感情を持つものである。
藤吉郎は利政と面識などなかったが、利政が噂に聞こえるほどの人物ならば後者と踏んだ。
案の定、信長の小賢しくも見える変り身に利政は悪い気はしなかった。
年長の自分に対し筋を通しつつも一歩も引かないその才気に、つい己れの嫡男の不出来さと比べざるを得なかった。
・・・・ 信秀め、早死にしたが跡目には恵まれおった ・・・・
かつて何度も刃を交えた信秀をうらやましく思った。
当初は娘婿の非行をあれこれあげつらい無理な要求を呑ませるつもりでいた利政だが、信長の素質を見抜き方針を変更した。
・・・・ これは思ったより話の通じる相手かも知れぬぞ ・・・・
利政には前例のないことだが若輩の信長をサシで話しができる相手と踏んだ。
「双方立会人は無用に願いたい。下がって宜しい。であろう、婿殿」
利政は意味ありげに上目遣いに信長に同意をうながした。
「舅殿の宜しき様にお取り計らい下さいませ」
信長は丁寧に利政に同意した。
「うむ、婿殿とは腹を割った話がしたい、二人だけにいたせ・・・・」
そう促されて、双方の立会人達はしぶしぶといった面持ちで退席した。
いよいよこれから戦国史上最大の密約が信長に持ちかけられようとしていた。
娘婿に自分の嫡男には望みようもない才覚を見つけた利政にはもう迷いは無かった。
二人だけとなっってしんと静まった沈黙を破ったのは利政の方だった。
「婿殿は敵の意表を突くのがお得意と見たが・・・・」
利政は会話のとっかかりに信長の変わり身に好意を示した。
「舅殿を敵などとは思うておりませぬ。手土産代わりの余興にございます」
利政は帰蝶と信長の縁談話が持ち上がったときから密かに暖めてきた陰謀をどう織田に呑ませるか時期を見計らってきた。
当初は相手の弱みに付け込んで無理やり要求を呑ませる腹だったのだが、織田軍の先進的な装備と信長の素質を見抜いてしまった以上、すぐさま方針を変更すべきと考えた。
出した答えは直球勝負である。
相手を脅したり騙したりして従わせようとしても気の回る相手にはすぐに見抜かれて警戒されてしまう。
真に重要な調略においては、真実だけを述べ、利害を明確にた上で互いに信頼関係を結ぶことこそが重要だ。
要は嘘は禁物、ただし、真実をすべて云う必要もない、ということである・・・・
利政はこう話を切り出した。
「そう時間が取れるわけではないので単刀直入に話し合いたい」
信長はうなずいて同意を示した。
「本当のことを申さばわしはそなたとは生涯顔を合わせるつもりなど無かった。一度でもわしの面を拝んでしまえば次から帰蝶の顔を見るたびにこの蝮の顔に見えてしまうに決まっておろう。今以上にそなたから疎んじられるようなことともなればそれはあまりにも帰蝶が哀れ・・・・」
利政は自分がただただ娘を案ずる父親でしかないことを吐露した。
それはまぎれもなく利政の本心でもあった。
「なるほど信秀殿といい、そなたといい弾正忠家の血筋はよい面構えをしておる。そなたと並んでの祝言では帰蝶はさぞかし肩身の狭い思いをしたであろう・・・・」
信長と帰蝶の不仲の原因は、帰蝶の器量が悪いせいだと案じている様子であった。
信長は美濃の蝮と恐れられる利政も、ただの人の親かと思えると少し緊張が緩んだ。
「別に見てくれや色香で帰蝶を選んだつもりはござりませぬ。亡き父と舅殿との盟約のため夫婦となったまで。国同士が交わした約束は約束、固くお守りいたしますゆえ帰蝶のことは御心配には及びませぬ」
蝮の目がぎょろりと動いた。
「ありがたくもお心強いいお言葉だが言葉面だけでははいわかりましたとはいかぬ。そもそも娘の父親とは疑い深い生き物ゆえ何か "確証" となるものがいただきたい」
利政は帰蝶が織田家での立ち場を末永く安堵されるような証を求めた。
利政の口調は次第に厳しさを増した。
「考えてもみられよ。そなたと帰蝶の間にもしこのまま嫡男が生まれなかったらどうなる。織田家に跡目争いが起きるやもしれぬし、わしがこの世を去れば帰蝶は帰るところも住むところも失いかねない。美濃の後ろ盾を失うことは弾正忠家にとっても由々しき事態でござろう!」
たしかにそのとおりである。
そもそも父信秀は、信長の弟の信勝を担ごうとする勢力と信勝を偏愛する母の土田御前とが共謀して亡き者にしたのであった。
そこを突かれると帰蝶に対する後ろめたさも手伝って信長には返す言葉がなかった。
落ち着いた声に戻った利政は、「・・・・我が子らの中でわしの特徴を色濃く受け継いでくれたのは帰蝶と弟の孫四郎だけである。ぱっとせぬ面相や体つきはもちろん指の節々まで瓜二つよ」
ここで帰蝶には年の離れた弟がいることを匂わせて利政は信長の前に両の手のひらをポンと出して見せた。
一国を掠め取った男の手にしてはか細く繊細な手のひらはたしかに帰蝶のそれとよく似ていた。
「似ているのは姿形のことだけを申しておるのではない」
そう言って利政は自分のお頭をちょんちょんと指差しながら続けた。
「わしのこの才覚を受け継いでくれたのも帰蝶と孫四郎よ。もの事の捉え方、考え方までが似ておるの。わしはの、この年になって世継ぎというものについての考えがちいと変わってきた。何が何でも家名を残すことには拘らなくなった。そんなものよりこの世に残したいのがある。それは自分の才覚だ。だがしかし己が才覚を後の世に伝えるそのなんと難しきことよ・・・・残念ながら嫡男の義龍はこれっぽっちも受け継いでくれなんだ・・・・ 」
まだ子を持たない信長には利政の悩みは理解しがたく、同意のしようも無かった。
これから利政が何を言い出したいのかもこの時点では皆目見当もつかなかった。
黙って退屈な話題が変わるのを待った。
「だがしかし、嫡男は嫡男。武家の頭領なれば跡目の筋はきちんと通さなければ国が割れる元となる。如何に国主であろうとそれをおろそかにするわけにはいかぬ。であろう、婿殿」
織田弾正忠家で兄弟間の家督相続の火種がくすぶっていることは、すでに利政の耳にも届いているようだった。
やはり尾張の事情は帰蝶を通じて美濃に筒抜けのようだった。
信長の冷淡な仕打ちも。
これまで天下取りに夢中で跡目の事など考えたこともない信長にも、これから利政がどんな "確証" を押し付けてくるのかピンときた。
・・・・もしそうであるならなら・・・・如何に対処いたそうか?
どうやら利政は美濃では実現できない "才覚の伝承" を帰蝶が嫁いだ織田弾正忠家をよりしろに実現させようと目論んでいるらしかった。
なんとも身勝手な話である。
いくら跡目のことなどに執着心の無い信長でも、口うるさい家老連中を説き伏せるのは難儀なことだろう。
信秀に後見を託された平手など泣いて反対するのは目に見えている。
信長の眼差しから心中の逡巡を覗き見た利政はここが勝負どころと具体的な条件交渉に移ろうとした。
「そこでじゃ・・・・、身勝手は承知の上でひとつ、婿殿にご提案がござる」
利政は他に誰もいないのに声を落として密約の核心部分に触れようとした。
・・・・きたっ・・・・どうする、無下に却下して今、美濃の後ろ盾を失うわけにもいかぬぞ・・・・何とかこの場を切り抜けなければ・・・・
この時点で信長は利政の要求に対して及び腰だった。
信長の鼓動は早まり、初めて背中を冷たい汗がつたうのを感じた。
迷いの表情が現れる信長の顔をまっすぐに見つめて利政は決定的な条件を提示してきた。
「もし婿殿がわしの望みを聞き届けてくださるのなら "美濃一国" 差し上げても良ろしいと思うておる・・・・」
・・・・ ! ・・・・
この申し出には信長も大きく心動かされざるを得なかった。