その二十六 契約
美濃と尾張の関係に平和と安定をもたらす婚礼は、帰蝶が到着したその日にとり行われた。
祝宴にむけて提灯とかがり火が焚かれた那古屋城は、にぶく曇った夜空にその輪郭を明るく浮き上がらせた。
城下をあげての盛大な婚礼の様子は今宵のうちにも美濃斎藤家にも伝わるであろうし、それまで織田大和守家の一奉行にすぎない織田禅正忠家が強国美濃の後ろ盾を得て実質的な尾張の代表者となることが国内外にも広く知れわたることであろう。
これが信秀、信長親子の天下取りへの第一歩である。
それゆえ美濃斎藤家への気遣いは尋常でないものが感じられた。
これより先、帰蝶への待遇や尾張の国情はすべて帰蝶を通じて美濃に筒抜けとなる。
敵国から姫を貰い受けるということはそういうことでもある。
"毒を喰らわば皿までよ" との心積もりでいなければ寝首を斯かれかねない。
なにしろ相手は美濃一国を掠め取った"蝮"である。
伊勢と上方への街道、港湾を押さえ、商業地としての経済的な繁栄を得た織田禅正忠ではあったが、反面その兵は弱兵として有名だった。
もともと領地の少ない織田信秀の軽卒たちは地力のある農民兵は少なく、ほとんどは銭で雇われた流れ者や牢人で構成されていた。
高札を掲げれば銭欲しさにいくらでもアタマ数を揃えられるが、いざ合戦の最中にわずかでも旗色が悪くなるや蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまう。
もちろん前金は持ち逃げされる。
そうしてしばらくしてまた高札に兵の募集が出ると、そ知らぬ顔で再び応募してくるのだ。
そんな尾張兵が美濃の国人領主が率いる腹の座った農民兵に勝てるはずがなかった。
そんな尾張兵に取り得があるとすれば他国が農繁期で戦に出られない時期でも関係なく攻め込んで行けることであった。
いくら烏合の衆とは言っても、これは周辺の国にはたまらなかった。
大抵は根負けして信秀と主従関係や友好関係を結ぶことを選ばざるを得なかった。
信秀は敵であっても軍門に下った者や友好国となった領地を安堵し、織田家中での身分も保証した。
禅正忠家は情け深く気前が良いとの評判が広まると配下に加わる小領主達がどんどん増えて更に勢力が広まるという好循環を生んだ。
ここまでが信長の父、信秀が信長のために地ならしをした部分である。
しかし、これまでの太陽政策があだとなり、しがらみが多く強い統率力を発揮しにくいのが悩みの種でもあった。
そうそう領地を拡大できる訳でもないので恩賞には銭や銀を湯水のように使わなければならず、いずれ立ち行かなくなることは目に見えていた。
そろそろそうしたしがらみを断ち切れる強い領主への世代交代が必要な頃合だった。
信秀は信長にその才覚を見出し、後継者として育てた。
それを善く思わない既得権者との軋轢は将来、避けて通れない定めであった・・・・
さて、婚礼の最中の二人は終始無言に無表情で信長は正面を見据え、帰蝶はうつむいていた。
信長は大人たちの馬鹿騒ぎから一刻も早く開放されたいと願っていた。
二日間も輿に揺られた帰蝶の方も、早く横になって思いっ切り腰を伸ばしたかった。
それにすぐ隣にいるというのに帰蝶はまだ"おっと"となる男の顔を満足に見ていなかった。
信秀は始終上機嫌で織田の本家や美濃や三河からの客人に気前よく酒を注いで回っていた。
商業地として栄えるこの界隈は戦の無いときには他国との往来が割と自由であった。
気前のよい信秀にこの機会に胡麻をすろうと近在の土豪や国人領主たちが我先に祝いの品を持って駆けつけた。
信秀がすっかり出来上がって奥に担いでいかれるのももう時間の問題だった。
信長親子は共にあまり酒をうけつけない体質なのだ。
帰蝶は余興に座がわっと盛り上がった隙をみて隣に座る夫となる男の横顔を盗み見た。
始めて見る信長の顔であった。
帰蝶の胸の奥で鼓動が一つ強く打った。
・・・・ まぁ、とても凛々しいお方 ・・・・
長身細面で鼻が高く切れ長の目を持つ信長少年は誰の目にも魅力的であった。
帰蝶は父親のため知る人も無い他国に来てしまったという後悔の念が少し和らいだような気がした。
もう一度見てみたいと横目に信長の様子を探った。
・・・・ はっ ・・・・
帰蝶は慌てて下を向いた。
目が合った。
今度は明らかに何度も強く鼓動を打つのを感じた。
そして一瞬とはいえ信長の眼差しから帰蝶は信長の本心を読み取ってしまった。
・・・・ これから妻とする女を見る目では無い ・・・・
帰蝶に芽生えた恋心は一瞬で砕け散ってしまった。
帰蝶はさっきまでよりさらに落ち込んだ。
それからのことは誰がどんな祝辞を述べたのかも、どんな余興が座を盛り上げたのかもろくに覚えていなかった。
ただ身の置き場の無い絶望感にこのまま消えてしまいたい一心でいた。
気が付くと身の回りの世話をする従者の手で衣を改められ寝所に一人ぽつんと座っていた。
相変わらずの馬鹿騒ぎが続いているらしいがそれはとても遠い世界のように感じた。
目の前には真新しい真っ白な寝具がひと揃え用意されていた。
若い夫婦の始めての寝所は充分に静かでそれが尚さら帰蝶の寂しさを増幅した。
灯台の木綿の芯が油を吸い上げる音さえ聞こえてきそうで、辺りには菜種油の香ばしい香りが漂っていた。
帰蝶は五感が正常に戻りつつある中で己の今後を思った。
・・・・ きっと信長様がここへ来ることはないだろう ・・・・ もしかしたら、これから先もずっと ・・・・
帰蝶は生まれて初めて父親に似てしまった不美人を呪った。
自分が信長とはあまりに不釣合いなゆえ、冷たい視線を受けたのだと。
"帰蝶"などという可愛らしい名をつけ、誰よりも帰蝶を愛しみ、帰蝶もまた大好きだったはずの父親をも恨んでしまいそうな感情が帰蝶を呑みこもうとした。
冷めゆく心とは裏腹に暖かなものがひとすじ頬を濡らしたとき、間仕切りの戸が乱暴な音を立てて開いた。
信長だった。
「遠路、・・・・よう参った」
帰蝶は涙を見られまいと後ろを向いた。
このとき十六才の信長に帰蝶の涙の理由などわかろうはずがなかった。
稲葉山城が恋しいとぐらいにしか思わなかった。
このころの信長は、ほんのいたずら心で始めたはずの衆道の世界に沈溺していて、専ら犬千代(利家)がその相手を務めていた。
美少年だった犬千代との衆道に夢中で、おんなへの興味が希薄だった信長にとっては帰蝶が美人だろうと不美人だろうと実は大きな問題ではなかった。
信秀と信長にとって帰蝶は尾張と美濃の "同盟の証" でしかなかった。
それゆえにそうそう疎かにできない大事な "客" でもあった。
帰蝶を粗末にあつかったり、正室の扱いを怠ったりしたことが美濃に伝われば、大切な "同盟関係" を反故にしかねない。
最初から互いにすれ違いを感じながらも信長はただ一人、敵国だった尾張に身を置かざるを得ない宿命の帰蝶に多少の哀れみを感じぬわけでもなかった。
信長は後から両手で帰蝶の肩を抱くと耳元にささやいた。
「寂しがらずともよい。こう見えて尾張はなかなかによいところぞ。山国の美濃におっては目にしたこともないものも豊富にある。姫様らしゅう今までどおりわがままを申しておればよい。そなたは織田弾正忠家の正室としてここへ参ったのであるから」
そう言って信長は力なく帰蝶の体を抱き寄せた。
帰蝶は信長が自分を抱こうとするのは美濃の父への義務からでしかないと気づいた。
父親似の帰蝶は恐ろしい聡明さを秘めていた。
・・・・・ そっちがその気ならこちらにも考えがある ・・・・
たとえかりそめの夫婦関係でも構いはしない。
自分がおんなの扱いを受けていられるのも美濃に父が健在のうち。
こんどこそはやや子を産んで織田の御台所として・・・・
けなげに政略結婚に身を捧げた姫として、早く子を得てこの家を牛耳ることを念ずる帰蝶であった。
しかし意外なことに親蝮の陰謀は、帰蝶の決意するところとは全く逆のことを企てていたのである・・・・