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その十二 抹香事件

第1級の一次資料である信長公記は信長の弓衆だった大田牛一(ぎゅういち)が書き記したものである。


その一節には、父親の葬儀で信長が "位牌に抹香を投げつけた" というくだりがある。


そしてこの記述により若い頃の信長のうつけぶりが後世に強く印象づけられたのである。


しかし、信長公記のこの部分が信長の "大うつけ" を書き記すためのものであったとすることには些か疑問が残る。


これまでの解釈には大きな見落としがあるのではないだろうか。


この頃の信長はすでに織田弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)の嫡男として後継者の地位が約束されていたはずである。


葬儀で信長が対面した父が "位牌" に変わり果てていたということは、すでに何者かによって火葬が済まされていたということになる。


死んだ信秀は分家とはいえ、尾張で最も裕福な織田弾正忠の当主である。


その盛大な葬儀を執り行なうに当たって、喪主を嫡男の信長が務めるのは当然のことであったはずである。


本来喪主であるべき信長が普段着で葬式に参列するなどどいうことも、すでに遺骸が位牌の姿に変わり果てていたということも、まったくもって合点がいかない。


信長公記に記されたこの記述は、単なる信長の "うつけ話" などでは済まされない、織田家に関わる一大事件を意味しているのではないだろうか。


それは信秀殺しと信長廃嫡の陰謀が仕組まれていたことを、抹香事件に潜ませて、後世のわたしたちに伝えようとしていたのではないのだろうか ・・・・

天文二十年(1551年)二月下旬


三河との国境に近い鳴海、大高、沓掛の城主達に不穏な動きを察知した信長は領地検分の名目で各城主の監視に赴き、那古屋城を留守にしていた。


その頃、父信秀は流行病を患い床に伏していたのだが、命にまで別状は無かろうという薬師の言を信じて父の看病は母の土田御前に任せ父の代役を務めた。


城の見回りも国境の沓掛城を残すのみというとき、信長のもとに名古屋城から火急の知らせがもたらされた。


信秀の死であった。


信長は不穏な動きの見られる鳴海城主山口教継が父の死を契機に今川に離反せぬよう居残って見張らねばならず、すぐに名児屋城に帰ることは叶わなかった。


ようやく信長が戻ったのは父の死から四日後の三月三日のことであった ・・・・



何百人もの修行僧が唱える念仏の騒音に掻き消され、信長の軍勢が到着したことにすぐに気付いた者は少なかった。


常識はずれに大人数の僧侶が念仏を唱えている理由は勿論、金持ちの織田弾正忠家からの礼金目当てである。


居合わせた重臣たちは深くうつむき、しかし荒い息の主に悟られないように上目遣いでその一挙手一挙動に注視していた。


成り行きによってはこの場でけり(・・)がつくことになるかもしれない ・・・・


座の中には固唾をのんで身を硬くする者もいた。


荒い息の主は織田弾正忠家の若き当主となったはずの織田信長であった。


本来であれば跡目としてこの葬儀の喪主を務めるべき人物である。


その信長が、いつもと変わらぬやんちゃないでたちのままで読経に手を合わせる家臣たちを見下ろして突っ立っっていた。


呼ばれもしないのに家老の林道貞が進み出て注進した。


「若殿、葬儀に間に合ってよう御座いました。大殿は、祈祷の甲斐も無く身罹われたので御座います。それはそれはあっという間の出来事に御座りました。

あまりに恐ろしき流行病で御座いましたゆえ、家中に広まるのを避けるため奥方様の許しを得て若殿のお帰りを待たずに荼毘に伏した次第に御座います」



・・・・ さりとてわしの帰りを待たずに葬式までも執りおこのうたのはなぜじゃ! ・・・・



そう怒鳴りたい気持ちをぐっとこらえて、信長は無表情な目で林を見返した。


信長の心のそこを見透かすような視線に耐えかねた林は、何か口の中でもぞもぞ言いながら席に戻って行った。


その横には、林の弟の美作守と父の弟の織田信光が信長の方をを伺うように見ていた。


気持ちを落ち着かせて改めて席次を見渡すと読経をあげる坊主共のすぐ後ろには如何にも喪主然と座している弟信行の姿があった。


兄の信長が到着したのを察しているであろうに、席を譲るでもなくそこに居座り続けていた。


兄には一瞥もくれなかった。


隣には信長と信行の共通の母である土田御前が蒼白の面持ちでちんまりと座していた。


     なるほど、そういうことか。信行に喪主を勤めさせるために葬儀を急いだのだな。


そればかりではない。



     父は殺されたのだ!



首謀者はあれなる林美作守!


信行かわいさに母上は愚かにも夫殺しを黙認した。


本当の黒幕は信行の後見と称して弾正忠を乗っ取る腹の信光(おじうえ)


信長は瞬時に信光と林兄弟の企てを見透かした。


信長はずかずかと父の仏前に進み出た。


信長を愛し信長の才覚を見抜いた大きな父は、小さな位牌に変わっていた。


たち(・・)と一緒に天下を掠めようと約束していたではないか。


さぞや無念であったろう。


けっして無駄にはせぬ。


信長は冷徹に誓った。


意を決したかのように信長は目の前の抹香を掴むと位牌に向かって投げつけた。


父を殺した者たちへの信長の戦線布告である。


これにはさすがにその場の全員が腰を抜かした。


利に敏い重臣たちには、こんなうつけの若造に尾張を任せていては自分の禄が途絶えてしまうかもしれぬと見えたであろう。


気前がいい信秀には付き合ってきたが、別に織田の分家がどうなろうと自分らの知ったことではない。


さっさと次の主君を探すか、利口な弟の方を担いだ方が俺達の言うことを良く聞き入れそうだ。


利己的な老臣たちはまんまと信長の思惑通りに尾張を割って混乱に陥れることとなる。


そしてこの一件は居合わせた旅の修行僧らを通じてすぐに他国にもたらされるであろう。


尾張織田弾正忠に家督争いが起こるであろうと ・・・・


混乱の中で誰が味方で誰が敵なのかはっきり見極められよう。


信長は誰に教わるでも無しに自然にそう理解していた。

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