今だけは普通の恋人のように
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初めて自分の足で歩く街は、見たことがないものであふれていた。キラキラ光る小さなアクセサリーを並べた露店、甘い香りのするケーキの店。
私の知っている世界とはまるで違う。初めて、私は違う世界に生まれてきたことを実感していた。
「どうしたの?その店が気になるの」
「うん……この色、フェリアス様の瞳の色と同じだと思って」
そうつぶやいて、フェリアス様の方を見ると口元を押さえて、耳まで赤くなっている。
そんなつもりではなかったのに、私まで赤面してしまった。私たちを微笑ましげに見ていた露店の店主が「安くしておくよ。彼氏さん、恋人に買ってあげたらどうだい?」と声をかけてきた。
フェリアス様は、少しだけ店主に微笑むと「じゃ、これをもらうよ」と深い蒼の石がはめられたネックレスを私に買ってくれた。
「──ありがとう、ずっとずっと大事にしますね?」
「いろいろ贈ったのに、なんだか今までで一番うれしそうだね」
少しだけ複雑そうにしながらも、フェリアス様も嬉しそうにしている。こうやって、二人で一緒に買い物をして、しかも選んでくれたものを贈ってもらえるなんて夢みたいだった。
「つけてあげるよ」
フェリアス様が、私の首にネックレスをつけてくれる。まるで、フェリアス様の瞳のようにキラキラ輝く深い蒼の宝石がついた私のお守り。
私も、フェリアス様に何か贈りたい。でも、お金持っていなかったわ。
そう思って、少しシュンとしているとフェリアス様が「俺にも何か選んでくれると嬉しいな。もちろんアイリスの瞳の色でね」と耳元でささやいてきた。
たぶん私の様子を見て気を使ってくれたのだろう。しかも、支払いはフェリアス様がするのだ。結局自分で自分の物を買っているのと変わらない。それでも、私はうれしくて、私の瞳の色をした、氷のような色をした石がついたチョーカーを手に取った。
「俺にもつけてくれる?」
私は背伸びをしてフェリアス様にそれをつける。つけ終わってフェリアス様を見上げると、見惚れてしまうくらい幸せそうな笑顔を見せてくれた。
「死んでも外さない」
私に関することになると毎回、フェリアス様は大げさだ。でも、私だってもうこのネックレスを外したくないと思った。
そして、なぜだろう。無性にこの氷の色をした石に魔力を込めてみたいと思った。今まで、自分の力で魔法を使ったことなんてなかったけど、できる気がした。
私の指先から金色の魔力が氷の色をした石に吸い込まれていく。フェリアス様が目を見開く。
「アイリス……それ、祝福」
フェリアス様は、それだけつぶやくと自分の首に下がったチョーカーを握りしめた。いくらなんでも聖女でもない私に祝福なんて大げさだと思うけれど、フェリアス様を少しでも守ってくれるならと願いを込める。
私のことをしばらく見つめていたフェリアス様は、今度は私のネックレスに指先を添えた。銀色の光がそっとフェリアス様の瞳の色をした石に吸い込まれる。ほんのりと温かくなったように思えるその石を握りしめると、まるでフェリアス様と手をつないでるように思えた。
「アイリス?いくら石でも、そんなにもうれしそうに握られると嫉妬してしまいそうだ。それよりも俺と手をつないでほしいな?」
小さな石にすら嫉妬するという感覚は、私にはわからないけれど?それでも、私と手をつなぎたいと言ってもらえるのが、信じられないくらいうれしい。
今までそんなことを言う時間が私たちにはなかったから。
自分の意思でフェリアス様と手をつなげる。それだけのことがこんなに幸せだなんて知らなかった。こんなにも、こうして触れることを願っていたことを今になって知った。
「フェリアス様、私……今とても幸せです」
「俺もだよ。こんな風な気持ちになれるなんて思っても見なかった」
その日は、私にとって忘れられない思い出になる。
そして、その日から世界を取り囲む瘴気は日に日に濃くなっていくのだった。
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フェリアス様は、瘴気が濃くなるたびに帰りがどんどん遅くなっていった。
昨日は、夜遅くに私の部屋にやってきて「起きていたんだ。早く寝ないとダメだよ」と、私の髪を撫でながら微笑んでいた。
子ども扱いされているのだろうか。そのうち、私もやり返そうと思う。
そして今日は、とうとう夜が明けてもフェリアス様は帰って来ない。
瘴気は日に日に濃くなっている。街では、聖女を追放したから、神々が怒っているのだと噂になっているらしい。
ルシアに詰め寄ったところ、目をそらしながらも教えてくれた。予想はしていたし、半分以上的を得ていると私も思う。悪役令嬢が断罪されることには、意味があったのだから。
私は、フェリアス様に貰ったペンダントの石をそっと握りしめる。
その石は、まだほんのり人肌の温度を保っているような気がして、まるでフェリアス様がそばにいるようで。
「フェリアス様……」
「起きていたの、アイリス」
名前を呼んだとたん、フェリアス様が目の前に現れた。心臓が止まるかと思ったけど、ずっと待っていた私はその直後に私はフェリアス様にしがみついた。
「アイリス?」
「遅かった……遅かったですフェリアス様」
フェリアス様が、しがみついた私に対して膝を曲げて目線を合わせてくれる。そして少し困ったかのように私に微笑んだ。
「ごめんね……でも、この後しばらく帰って来られないと思う」
瘴気が濃くなっているのは、私にもはっきりわかるようになってきていた。おそらくもう、いつ扉が開いたとしてもおかしくはないのだろう。
私は本当にこのままでいいのだろうか。もっと私に出来ることは、まだ出来ることがあるのではないのだろうか。
魔人が現れたら、きっとたくさんの人が犠牲になる。それは嫌だ。それに、魔人が現れてフェリアス様が危険を顧みずに戦うのも嫌だ。
「フェリアス様……」
「帰ったら、本当に結婚しようか」
フェリアス様は、そう言った人は帰って来ないということを知ってて言っているような気がする。だって、その顔には覚悟が浮かんでいたから。
「私、フェリアス様のいない世界では、幸せそうに笑ってなんていられないです」
「アイリス……?そんなこと」
「好きです……好きなんです。ずっと、あなたが好きだったの」
「はは……。そんなこと言ってもらえる日が来るなんて。生き残ってみるものだな」
フェリアス様は、そう言いながらも私から離れていこうとする。私は夢中になって、その腕にしがみつく。行かないでほしい。どうしよう、私だって世界とあなたを天秤にかけてしまっている。
「私と一緒に逃げませんか」
最後の望みをかけて、フェリアス様を見つめた。だけど、いつまでたってもフェリアス様は一緒に逃げようという返事をしてくれなかった。
その代わりに、握りしめすぎて白くなっている私の手をそっと大きな手で包み込んだ。
「そんなに力を入れたら、傷がついてしまうから……アイリス、そんな風に自分を偽らないで。ただ、俺に世界を救うように言ってくれればそれでいい」
ボロボロ溢れる涙も、今は拭う余裕すらない。それでも、世界が終わってしまうのも、フェリアス様がいなくなってしまうのも嫌だった。
「世界を……救ってください。そして、全て終わったら帰って来て欲しいです」
「アイリスの願いは全て叶える」
その日、私の前からフェリアス様はいなくなってしまった。