記憶を取り戻して
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「お目覚めになりましたか。良かったです、アイリス様」
「ルシア、私いつの間に眠って……?」
この部屋に来てからというもの、いつの間にか眠ってしまったというパターンが多すぎるように思う。
気が緩んでいるのだろうか。それとも、自分で体を動かすなんて久方ぶりだから疲れているのだろうか。
黒いうさぎのぬいぐるみが、枕元に置かれている。実家にあったはずだ。フェリアス様が持ってきてくれたのだろうか。
私はそのぬいぐるみをそっと抱きしめた。これをくれたのは誰だったか。思い出せないけれど、ずっと大事にしてきたことだけはハッキリしている。
「フェリアス様は?」
昨日の会話の内容は、まるで霞がかかっているように良く思い出せない。
ただ、思い出されるのはどこか辛そうな、フェリアス様の笑顔で。
「今朝早くから王宮に出かけられてます」
「……大丈夫なの?」
「──フェリアス様に関しては大丈夫だと思われます」
なんとなく含みがある言い方が気になるが、フェリアス様は大丈夫らしい。
「食事を準備しましょうか」
「そうね……お願いするわ」
なんだか、まだ頭痛が残っているようだ。
最近、なぜかすぐに頭が痛くなってしまう。
窓の外は、もう日が高くなっているし、ずいぶん長時間眠ってしまっていたようだ。
「真実がわからないままっていうのも、性に合わないのよね」
窓から外をのぞいてみる。
ここは三階だ。でも、下にはバルコニーがある。あそこに飛び降りてから、庭に降りるなら大きな怪我はしないだろう。
おそらくここが王都であることは間違いない。
自分の事なのに、フェリアス様にばかり任せているのは嫌だ。
それに……なぜだろう。フェリアス様を一人で行かせてはいけないと私の中で叫び声が聞こえる気がする。なんとしても傍にいなければ、フェリアス様がどこか遠くに行ってしまう気がした。
私は、クローゼットから一番身軽に動けそうな服を選んで着替える。
黒を基調にしたワンピース。こんなものまで私の体にぴったり作られている。
私は窓を全開にして、窓枠に足をかけると思い切って飛び降りた。
その瞬間、風が巻き起こり私の体がふわりと浮かぶ。
いつの間にか、バルコニーにはフェリアス様が立っていた。
私の体を浮き上がらせていた風がやむと、重力を急に思い出したように落下しだす。
そして、バランスを崩して落ちると思った時、フェリアス様に抱き留められた。
「……どうしてアイリスはいつも落ちてくるんだろうね?」
「あ、あの。さっきまで誰も居ませんでしたよね?」
「だって、アイリスは絶対この窓からいつか飛び降りて逃げ出そうとすると思っていたから。対策していないはずがない」
そういうフェリアス様の目は、光を失ったままで。その瞳には私しか映っていない。
「どうして俺から逃げようとするの」
私は言葉に詰まってしまった。
逃げようとしていたわけではない。
部屋に閉じ込められているのに、逃げたかったわけでもないのが不思議だ。
では、なぜ私はこんなことをしたんだろうか。
「──笑いませんか」
「アイリスの言うことを笑うなんてありえない」
「追いかけないと、フェリアス様が遠くに行ってしまいそうな気がしたので」
フェリアス様が、小さく息を飲み込んだ。私はそれを見逃すことはなかった。
やっぱりフェリアス様は、大事な何かを隠している。
「アイリスには、敵わないな。もし、俺から逃げようとしてくれたならいっそ……」
フェリアス様の唇が、私の頬に春風のようにそっと触れた。
「お姫様を助けてあげた褒美をまだ頂いていなかったから」
そう言って、頬を押さえたまま呆然とする私を優しく見て微笑んだフェリアス様は、やはり何かを胸の内に秘めている気がする。
「…………あの時は、上に落ちてしまいましたものね」
私の記憶の奥深く、その思い出は浮かんでくる。
頭がひどく痛いけれど、その大切な思い出を失う位なら耐えられる。
「え……どこまで、どこまで思い出したアイリス」
「どこって……ごめんなさい。その場面だけです。でも、子どもの頃、自由に動けたから家から抜け出したあの日。壁から飛び降りた私を魔法を使って助けてくれたのはフェリアス様……ですよね?」
フェリアス様が、下を向いたけれど、膝に乗せられたように抱かれている私にはひどく焦ったような表情がはっきり見えてしまう。
「……アイリス」
フェリアス様が、また私に魔法を使おうとする気配を感じ、私はフェリアス様の胸を強く押して膝から降りる。
「……そうやって、何度も私が忘れてしまうように魔法をかけていたんですか?!何を隠しているんですか」
ひどい頭痛で意識を失いそうになる。でも、何があっても、もう二度とこの大事な思い出を忘れたくないから。
絶対に忘れたくないから。
「だめだ。まだ、完全にアイリスは運命から外れていない!思い出してはいけないんだ」
運命って、悪役令嬢の……?
あれ?なにかとても大事なことも忘れてしまっているのではないだろうか。私は……。
今、私は運命から外れたと思っているけれど、王太子ルート……ヒロインと王太子が結ばれなかった場合、どうなるんだっけ?
ハッピーエンドでは、聖女になったミーナが、王国を取り込もうとしていた瘴気を光の力で払い、王妃になる。でも、バッドエンドでは……?
意識が途絶えそうになる、強い頭痛とともに、私はすべてを思い出した。
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断罪されたその夜。地下牢の中で、私は鉄格子がはめられた小さな窓から月を眺めていた。
なんとかして断罪を逃れようとしてきたけれど、自由に体を動かせるのはほんの少しの時間で、とても運命を変えることはできなかった。
でも、自由になったその短い時間、なぜかフェリアス様はいつもそばにいてくれた。
そして今、私は自由になっている。物語通りならこのあと修道院に向かう途中で命を失うのだ。
──良かったのかもしれない。
私は、この三年間で自分の役割に気が付いてしまっていた。
私のいない世界こそがハッピーエンドなのだと。
だって、悪役令嬢が生き残るなんて完全にバッドエンドだ。
この物語では、バッドエンドになると世界は……。
『瘴気が王都を包んで、それに引き寄せられるように異世界の扉が開く。その扉から世界を滅ぼす魔人が現れ世界は終わりを迎えた』
暗くなった画面に、白い文字でほんの数行書かれたバッドエンドを表す言葉。
「フェリアス様……」
でも、自由に動けているのにあなたがそばにいない。
自分の運命よりも、なによりも私はそれだけが悲しかった。
王太子との婚約が発表されたあの日、泣きながら今までの境遇を告げた私に、フェリアス様は「必ず助けに来るから、そのための力を得るから」と言ってくれた。
でも、あれから三年間もの間、私は体を自由に動かすことができず、ただ物語が進んでいくのを見ているばかりだった。直接フェリアス様に会うことも、もうなかった。
三年は長い。彗星のように現れ、あっという間に筆頭魔術師まで上り詰めたフェリアス様の噂はいつも耳にしていた。
噂を聞くだけで幸せな気持ちになれた。
華々しい世界で、成功をおさめたフェリアス様。
もうあんな約束をしたことなど忘れてしまっただろう。
それでいい……フェリアス様が幸せなら。
でも、もし一目だけでも会えたなら。
「アイリス」
ポトリとこぼれてしまった涙で滲んだ視界に、あんなに会いたかった人の姿が見えた気がした。
「アイリス、この時を……待っていた」
フェリアス様が、私を抱きしめる。夢ではないの?
「フェリアス様、一目でいいから会いたかったです」
その言葉を聞いたフェリアス様は、一瞬私を抱きしめる力を強くした後、蕩けるような微笑みを見せてくれた。
「アイリス。君をこの世界の生贄になんかしない。必ず救って見せるから、俺と一緒に来て?」
「──っ。うれしいですフェリアス様。……でも、そんなことを言うなんてフェリアス様も気づいているんですよね」
「たとえこの世界が滅んでも、アイリスだけは守って見せる」
フェリアス様……そんなことを言ってもらえるなんてうれしい。
こうして会えただけで、もう十分なのに。
あなたのいるこの世界を守る覚悟をすることができる。
「でも、私は守られるだけなんて嫌です。……世界を巻き込んでまで生き延びることはできないです。だからフェリアス様も私のこと、忘れてくれませんか」
「残酷で不可能なことを言うんだね。アイリス」
フェリアス様が、蕩けるような笑顔のまま私に告げる。
「世界かアイリスなら、俺は簡単にアイリスを選ぶよ。そのために、大魔導士の力を得たのだから。君を忘れることはできないけれど、かわりに俺は忘れられても、憎まれても構わない」
その笑顔とともに優しい魔法が降り注いで、私は意識を失う。
「でも、すべて終わったら、いつか思い出してほしいな……」
フェリアス様の言葉が、遠くから聞こえてきた。
そして、私はフェリアス様のことと、自分の役割の事を忘れてしまった。
誤字報告ありがとうございました!修正しました。





イラストは木ノ下きの先生に描いていただきました。加筆改稿書き下ろしたっぷりの電子書籍版もどうぞよろしくお願いします(*´▽`*)