欠けた思い出と本当の姿
フェリアス様が帰ってきたのは本当に遅かったから、王宮に行くためにも今日はもう眠らなくてはいけない。そう思っていたら、部屋に備え付けられていたランプの明かりが少しずつ暗くなっていった。
「ずいぶん遅くなってしまった。おやすみ、アイリス」
「おやすみなさい、フェリアス様」
家族とさえ、こんな風に寝る前の挨拶をするなんてずっと長い間なかった。使用人たちも、必要以上しゃべることはなくいつも私は孤独だったから。
なんだか……こういうの良いな。って思っていたらフェリアス様が口を手で押さえて呟いた。
「なんだか……こういうの良いな」
胸の中で心臓が跳ね上がる。そして体中が熱くなる。
「そうですね。私もそう思っていたところです」
「そう、じゃあ毎晩挨拶をするって約束しよう」
「はい……」
きっと、フェリアス様は約束を守ってくれるのだろう。それ以上の絶対的な信頼をすでにフェリアス様に対して持っている自分が不思議に思えた。
ベッドにもぐりこむ。どこかから香ってくるのは、たぶんフェリアス様が身につけているのと同じ、懐かしいような柑橘系の香り。
どこかで嗅いだことがあるような気がするその香りは、大切な思い出に繋がっている気がした。
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私はよじ登ってはみたものの、思ったよりもかなり高い壁に困惑していた。でも、今日みたいに自由に体を動かせるなんてめったにない。この機会を生かさない手はない。
「危ないからそんなところから飛び降りないで」
一人の少年が慌てたようにこちらに手を広げている。
でも、時間が限られている私は、その忠告を聞かずに壁から勢いよく飛び降りた。
その瞬間、強い突風が私の体を浮かび上がらせる。そして私は、その少年の真上に落ちていった。
怪我をすることはなかったけれど、下敷きにしてしまった少年の安否が気になる。
「あの……大丈夫?」
「俺は大丈夫だけど……今回も無茶するね」
ほこりを払いながら立ち上がった少年は苦笑しながら言った。
初めて会ったと思うのに?なぜか少年は、いつも私を見ていたような言い方をした。
そう、たぶん私が自分の思うとおりに体を動かすことができる時には、いつもそばに誰かがいたはずだった……。忘れるはずなんてない、とても大事な誰かが。
そして、あの人と最後に会ったのはいつだったか。そう、王太子との婚約が決まり王立学園に入る直前が最後で、そこから私は一度も自分の体を自由に動かすことができず、物語の進行をただ眺めるだけだった。
──必ず助けに来るから、そのための力を得るから。
私が自由にならない毎日の中、唯一心のよりどころにしていた大切な言葉が、記憶の谷間に泡のように浮かんで消えていった。
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窓から朝の陽ざしが差し込む。誰かがカーテンを開けたようだ。
「そろそろ起きてくださいませ。アイリス様、準備が間に合いませんよ?」
カーテンを開けたのは、侍女長のルシアだった。今日はとても天気がいいらしい。断罪当日の、冷たい雨が嘘のようだ。
なんだかとても大切な夢を見ていた気がするのに、残念ながら思い出すことができなかった。
そばに誰かがいたような気がしたのに。
「起こしてくれてありがとうルシア。でも、準備って?」
「フェリアス様から、アイリス様を誰より美しく仕上げるように厳命されておりますので」
「──え?それは難しいのでは」
そう反応してしまうのも仕方がないと思う。
たしかに悪役令嬢アイリスは美しい。だが、少し吊り上がった瞳、気の強そうな薄い唇、金髪というには淡すぎるクリーム色の髪などコンプレックスも多かった。
美しいが、誰よりも美しくは決してなれない。それが悪役令嬢の定めだと思っていた。
それなのに、あっという間に着る物をはぎ取られ、部屋に備え付けられていた立派な浴槽があるバスルームに案内されてしまった。磨き上げられ、高級そうなオイルを全身に塗りたくられて……。
あ、これ。この少し柚子に似ている柑橘系の香り。フェリアス様の香りと同じだわ。
そんなことを思ったとたん、全身が上気してしまった。ルシアに気づかれないことを私はただ祈る。
用意されていたドレスは、思っていた以上の一級品だった。おそらく何年も予約で埋まっている店、リリーチュールの……。
淡いピンクのドレスは、私が今まで挑戦してこなかった色合いだった。
悪役令嬢としての私は、私の趣味とは外れた、鮮やかな赤を好んで着ていたから。
そして、緩やかに髪を巻かれ、おしとやかな印象のハーフアップにまとめられる。髪飾りも最高品質とすぐにわかる、宝石でつくられた七色の光を放つ花があしらわれていた。
すべての細工が一流だった。キラキラと輝く宝石があしらわれた靴も、髪飾りと同じ宝石でつくられたネックレスとお揃いのイヤリングも。
いつも濃い色の化粧で彩られていた唇や目元は、ピンク系の優しい色で彩られていく。
「さ、目を開けてくださいませ」
目の前には、どうみても悪役令嬢には見えない、清楚で優し気な印象の美しい令嬢がいた。
自分で言うのもおかしいかもしれないが、整形級に美しく変身していた。
「あの……これはもう、詐欺というのではないかしら」
「何をおっしゃいます。自分に合ったドレスやメイクを施せば、アイリス様は誰よりもお美しいのだと、私にはわかっておりましたよ」
そんな風にほめてもらったことは今までなかった。『美しくても冷たく気が強そう』『自分を美しいと思っているようだがあそこまで時間と金をかければ誰でもそれなりに』そんな評価しか受けたことがなかったのに。
「あの、ありがとうルシア……。自分で言うのもなんだけど、とても素敵だわ」
その言葉にルシアが微笑む。
「お礼を言いたいのはこちらの方です。アイリス様にお仕え出来ることをとてもうれしく思います」
私は、こんなにも優秀で優しい侍女長をつけてくれたフェリアス様に感謝した。
「さて、そろそろお入りになっても結構ですよ。扉の前からずっと気配が消えていませんけれど?いい加減にしてくださいませ、フェリアス様」
え?準備が終わるまでずっと待っていたの?
そっと扉が開いて、気まずそうにしたフェリアス様が部屋に入ってくる。そしてそのまま氷像のように固まってしまった。
筆頭魔術師だけが受け継いで着用することを許される、星空のような深い蒼のマント。それ以外は、白とマントやその瞳と同じ深い蒼でまとめられた盛装姿のフェリアス様は、とにかく美しかった。
私をエスコートすると言っていたフェリアス様。でも、ここまで麗しい姿のお方の隣では霞んでしまって周囲からは私など見えないに違いない。
「あ……なんていうか。王宮になんていかないで、ずっとここに閉じ込めておきたいアイリス」
「え……」
せっかく外に出してもらえると思ったのに、まさかのダメ出しですか?まあ、たしかにフェリアス様の横に並ぶなんて烏滸がましいとは感じていましたけど。
「フェリアス様、問題発言はおやめください。重いですよ?こういう時は、美しすぎるからほかの人間に見せたくないと言わなければ誤解されます」
えっ、その発言もだいぶ重いですルシア?
「俺の手の中だけに閉じ込めたいのは事実なんだが……。美しすぎて、あの頭の中身が薄い王太子が駄々をこねそうだなこれは。やはり、いっそこの王都すべての人間を永遠に眠らせて茨で俺以外の誰も入って来られないようにアイリスを囲ってしまおうか……」
なんだかどこかのお伽噺で聞いたような展開ですね。でも、皆さんを眠らせて茨で閉じ込めるなんてことをするのは、悪い魔法使いだったと思います。討伐されたらどうするんですか。
「あの、素敵なドレスやアクセサリーをありがとうございます。少しでも似合うと思っていただけましたか?」
私は恐る恐る聞いてみる。しかし、私の姿を凝視するばかりで、フェリアス様から返答はない。
一分以上のあまりに居心地の悪い静寂が部屋の中を支配した後、ようやくフェリアス様は「美しすぎる……」とだけつぶやいた。
無理に言わせてしまったようで申し訳なさ過ぎた。
「あの、すみませんでした。ありがとうございます」
その瞬間、フェリアス様がバッと音がしそうな勢いでうつむいていた顔をあげた。
「いや!アイリスのあまりの美しさに、朝露を浴びた薔薇の花に妖精が降り立ったのかと思った!いや、それでは言い足りない。神々の中でも最も美しい女神が俺の前に立っているのかと……。それより神々が理想とする最上級の美を、神々がすべての力を使って彫像に……」
大衆向けの演劇でさえ、こんな賛辞が述べられるはずがない。
「ひぇ。もう、もうやめてください!ほめるにしても限度があると思います!逆に嘘っぽくなるからやめた方が良いです!」
「──俺はアイリスにだけは嘘は言えない。それに、その姿が本当のアイリスだ」
「えっ……」
「さ、そろそろ王宮に行かないと。時間だけが過ぎてしまいますよ」
謎の茶番は、一人だけ冷静な侍女長ルシアによって終わりを迎えた。
普通のほめ方というのを、フェリアス様は学んだほうが良いと思う。
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