閉じ込められ生活が快適で引きこもりそう
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手の甲に口づけとか、貴族令嬢として当たり前の事なのに。
自分のことでも画面を見ているかのように過ごしてきた私には刺激が強すぎた。
「はわわ……はわわわ」
意味の分からない単語しか言えない。
命がかかっているのだから、自分の置かれている状況とかきちんと分析しないといけないのに、浮かんでしまうのはさっきの場面と、手の甲から唇を離してこちらを見つめた射貫くようなフェリアス様の瞳……。
今まで、山ほど神が作った造形のような攻略対象者たちのご尊顔を眺めてきていたのに。
たくさん、手の甲に口づけもされてきたのに。この胸の高鳴りはいったい何なのだろう。
深呼吸を何度もしてやっと心が落ち着いてくる。
「まったく……違った」
私はフカフカの最高級のマットレスが使われていることがわかるベッドに寝ころんだ。
自由に動けなかった間は絶対にこんなお行儀が悪いことなんてしなかった。できなかったというのが正しいけれど。
少し思考を整理しなくてはいけない。私はお腹の上で手を組んで目を瞑る。
王太子ルートの断罪、不幸な事故あるいは策略で死亡エンドはおそらく回避できた。
それなら今気になるのはひとつだけ。フェリアス様がどうして私にこんなに執着しているのか、初対面のはずなのにまるで以前から知っていたかのように話すのか。そこは、今はまだわからない。
「フェリアス様……」
恐らく王太子あるいは高位貴族から私を秘密裏に始末することを依頼されたのに、私を攫ってきてしまったフェリアス様。
「あれっ……フェリアス様、かなり危ない立場なのでは?!」
暫定王太子の命令に逆らうなんて、不敬罪としてフェリアス様が罰を受けてしまう!
そこまで思い至ったら、居ても立っても居られなくなって思わず私はベッドから飛び降りていた。
どうして私のためにそこまでしてくれるんですか?
「私、一番大事なことを聞いていない!」
思わずドアから飛び出そうとしたときに、ドアが勝手に開いてきっちりとまとめられたお団子頭にお仕着せの真面目そうな女性にぶつかった。年齢はそれほど私と違わないように思う。
彼女がフェリアス様の言っていた侍女長だろうか?
「大丈夫でございますか。申し訳ありませんアイリス様……」
「いいえ、こちらが前を見ていなかったのが悪いのよ。大丈夫だった?」
「ありがとうございます。私、侍女長のルシアと申します。どうぞ御用は何なりとお伝えください。もちろん宝石でも、ドレスでも何でも構わないとフェリアス様から言付けを頂いておりますので」
「ルシアさん……ですね。よろしくお願いします」
私からの言葉を聞いて、侍女長が瞠目した。おかしなことを言ったつもりはなかったのだけれど?
「私の事は、どうかルシアと呼び捨てになさってください。フェリアス様から、アイリス様を主人として最上級のもてなしをするように申し付けられております」
最上級のもてなし?!もしかして世界一の宝石も、王宮より豪華な食事も本気だったのだろうか。冗談を言いそうな人でもなかったし。
「では、朝食を頂けますか?あの……出来る限り質素なものでお願いします」
たぶん言っておかないと、朝からフルコースを食べさせられそうな気がした私はそう付け足しておく。朝は目玉焼きとトースト、そしてコーヒーがあればそれでいい。
たぶん普段なら表情を崩さないのではないかという印象を受けるルシアが少しだけ微笑んで私に礼をした。
「かしこまりました。アイリス様、どうかこれからもよろしくお願いいたします」
「は……はい」
そこで少しだけ私との距離を詰めて、真剣な顔になったルシアが私を見つめて口を開く。
「それから、フェリアス様からはアイリス様はすぐ無茶をするので決して部屋から出さないように厳命されております。特に窓から逃げ出そうなんてなさらないでください」
「そ……そんなはしたないことするわけないわ」
「左様でございますよね。失礼いたしました。それでは一旦退室させていただきます」
どう考えても、たった今飛び出そうとしていたなんて、無理なら窓から出ようと思っていたなんてとても言えない雰囲気だった。
それにしても、今まで私は無茶なんてしたことなかったのに。公爵令嬢として過ごしてきている間は、令嬢の中の令嬢という呼び声も高かったのに、どうしてフェリアス様は私に対してそんな風に思ったのだろうか。
まあたしかに、時折自分の思い通りに体を動かすことができる瞬間だけは、窓からカーテンを伝って降りたり、壁をよじ登って脱走しようとしたり、穏便な婚約破棄のために暗躍しようとしたりちょっとだけやんちゃした気もするけど。
そのことをフェリアス様が知るはずもない。
結局、すぐに元通り動けなくなって、また悪役令嬢としての毎日を送っていたし。
──アイリスは無茶ばかりするから目が離せない。
「え……」
誰かの心配そうな声が聞こえた気がした。それが誰の声なのか……。
頭がひどく痛む。どうしてなのか、思い出そうとすればするほど、その人の顔も、声も記憶の彼方に遠ざかっていく。
思い出せないのなら今は、今だけは……フェリアス様が何とかしてくれるって、信じてみてもいいのかもしれない。
いつも一人でこの運命に立ち向かってきたのだから。
なぜかそう思った。きっとフェリアス様が私を守ってくれる。初対面のはずなのに、なぜかその考えは当たり前のようにストンと心の奥底に落ちて来て私を納得させた。
そしてルシアが持ってきてくれた朝食は、トーストに目玉焼き、そしてミルクだけ入って砂糖なしのコーヒーだった。ミルクの量までピッタリ私の好みだった。
「ルシアは魔法使いなの?!」
そういって驚きと尊敬の表情で見つめると、苦笑したルシアがつぶやいた。
「フェリアス様のご指示です」
なぜ私の朝食の好みを知っているフェリアス様。
ちょっとした鳥肌とともに不思議で仕方なかったけれど、私は目の前の朝食を頂くことにする。
目玉焼きも、私が大好きな、ほど良いしっとり加減の半熟さだった。
醤油があればいいのになぁと思ったら横に添えられた小瓶に入っていたのは東の国で密かに作られているという噂のシオーユソースだった。
予想通りにいつか手に入れてみたいと願っていたシオーユソースは醤油そのものだった。
私は久しぶりの故郷の味を、涙を流す勢いで完食した。
そしてちょっとだけフェリアス様っていい人なのではないかと思い始めていた。
餌付けされてしまったわけでは、もちろんないと思いたい。
最後までご覧いただきありがとうございました。