黒いうさぎのぬいぐるみ
目が覚めたら、自由になっていた。これは、寝ている間にすでに自由になっていたのかもしれない。もったいないことをしてしまった。
まだ、朝早く外は薄暗いみたいだ。私は今日も、窓から抜け出す。
──こんなに朝早いと、さすがにフェリアス様には会えないかもしれないわ……。
断罪を避けたければ、しなくてはいけないことがたくさんあるのだけれど、初めて自由になった7歳の時から3年たった今でも、やっぱり物語から外れることはできないでいる。
よく考えたら、フェリアス様との繋がりだけが物語と違う展開なのかもしれない。
私は、いつも屋敷から抜け出すのに使う、蔦の這った壁の前に立つ。蔦に手を添えた瞬間、なぜか蔦が体に巻き付いてきた。
「きゃ……」
俄かに訪れた浮遊感に、思わず目を瞑る。
そして次に目を開けた時には、フェリアス様が目の前にいた。
「アイリス……久しぶりだね。3か月くらい眠っていた?」
「今の、フェリアス様の魔法ですか?」
「そ、アイリスがけがをしたりしないようにね」
あれから3年。魔力暴走を起こすくらい魔力量が多いフェリアス様が使える魔法はどんどん増えている。それに比べて、私は回復魔法が使えるだけでそのほかはいまいちだ。
そういえば、最近悪役令嬢アイリスが趣味にしているのは、手作りの化粧水を作ること。そこに、意外な才能があったのか、市販の物より格段に性能が上で、最近私の肌は10歳なのを差し引いてもぷるぷるになっている。
フェリアス様が、私の頬にためらいがちに手を添える。
「アイリス……会いたかったのは俺だけなのかな」
「え……?」
会いたくなかったはずがない。だって、この世界で悪役令嬢としてでなく、私自身を見てくれる存在はフェリアス様しかいないのだから。
「あの……すごく会いたかったです」
本当に、毎日会うことができたらどんなにそれは幸せなことだろう。
その言葉を告げるだけで、フェリアス様が花が咲いたように笑った。
日に日に、美しくかっこよくなっていくフェリアス様。
フェリアス様が、私の知らない毎日を送っていて、そこに私はいられないから、取り残されてしまったようにひどく心が痛むのを感じる。
「そうだ。今日こそ話してくれないかな。アイリスの秘密を」
「……私、これから自分がどうなるのか知っているんです。私は王太子の婚約者になった後、婚約破棄されてその後死んでしまう……」
「アイリスが王太子の婚約者に?……聖女ではなく?」
フェリアス様が、少し呆然として私に問いかける。聖女はヒロインがなるんです。その前に、私にそこまでの力はないですよ?
「聖女は、私が婚約破棄された後に王妃になる男爵令嬢がなるんです」
「は……?貴族社会の常識的に考えてあり得ないし、世界で一番美しく豊富な魔力を持ったアイリスが聖女にならないのも普通に考えておかしい」
時々、フェリアス様がつぶやく言動は少し残念なものが多い。こんな美形で、知的で、魔法が物凄く得意……それだけで、富も名声もきっとこれから自由に手に入れられるフェリアス様。
でも、そんな一面がかわいらしくて私は好きだ。
そんな、残念な言葉とは裏腹に、フェリアス様は少し青ざめて真剣な表情で何かを考えている。
「アイリス……教えてくれてありがとう。この常識では考えにくい違和感の中に、アイリスを助ける答えがあるのかもしれないね」
「フェリアス様……」
その時、再び魔力の流れが乱れて、寒さを感じた。
「もう、時間みたいです」
「──たとえ、どんな犠牲を払ったって、アイリスだけは助けて見せるから……待っていて」
浮遊感を感じた次の瞬間、私は部屋のベッドに座っていた。
少し、フェリアス様の瞳に光がなくなっていた気がするのは気のせいなのだろうか。
そしてなぜか、私はいつの間にか黒いうさぎのぬいぐるみを抱きしめている。
黒い毛並みに深い蒼の瞳のうさぎのぬいぐるみ。フェリアス様からのプレゼントだろうか。
──フェリアス様の色合いだわ。
抱きしめて、そのふわふわの肌触りを楽しんでいた時に、交代の時間が訪れた。
「あら……ずいぶん早く目が覚めてしまったわ」
黒いうさぎのぬいぐるみを抱きしめながら悪役令嬢アイリスがつぶやく。
「え……こんなぬいぐるみ持っていたかしら」
そう悪役令嬢アイリスが呟いた瞬間、黒いうさぎのぬいぐるみから白銀の魔力が溢れだした。
「あ……そうだわ、おじいさまがくれたから、いつも大事にしていたのに。なぜ忘れてしまっていたのかしら」
悪役令嬢アイリスは、大事そうにうさぎのぬいぐるみを抱きしめると自分のベッドへと置いた。
その衝撃の展開を、悪役令嬢アイリスの中から私は眺めていた。
記憶改変魔法は、禁忌中の禁忌ではなかっただろうか。古の大魔道士が、使ってはいけないと禁じている魔法の中に入っていることを、つい先日魔法学で習った気がする。
もちろん、今まで使えたと言う人は、古の大魔道士以外に聞いたことはないのだけれど。
──確かにこれは、使ってはいけない魔法だわ。
それでも、これからフェリアス様みたいな黒いうさぎのぬいぐるみといつも一緒に過ごすことができるのがとてもうれしかった。
──でも、この魔法悪用しないでくださいね……フェリアス様。
今度会えたら、お礼とともにそれだけは言おうと私は心に誓った。
誤字報告いつもありがとうございます。