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1 平和な海 平和な訓練

挿絵(By みてみん)

  萬和(ばんな)十年(一九四〇年)五月十日


 舞鶴沖 百海里

 

 見渡す限りの空に、見渡す限りの海。柔らかな光に照らされた海面は、少し霞んでいる。

 春の秋津海は穏やかで、飛ぶには最高である。空と海を堪能して丹羽(たんば)洋一(よういち)は操縦桿を軽く動かした。

 二式中等練習機は二枚の羽根をわずかに軋ませながら左右に揺れる。木製布張りの練習機は速くはないが脚に馴染んだ下駄のようだった。思った通りに動いてくれて、何もしなければ自然に落ち着いてくれる。空の散歩には最適な友だった。

 とはいえ自由に飛び回れる訳ではない。洋一の身分は海軍飛行練習生であり、今こうして飛んでいるのも訓練の一環である。彼の機の周りには同じ二式練習機が連なっており、群れから離れることはできない。せいぜい左右に軽く揺らす程度だった。それでもまあ、空はいいものだ。十八になったばかりの少年にとっては最高の贅沢だった。

「どうだ、いい眺めだろ」

 洋一は後席を振り返る。

「陸地がまったく見えないってのはちょっと怖いけど」

 言葉とは裏腹に後席から乗り出さん勢いで、少女は左右を見回していた。何しろ天蓋(キャノピー)もない吹きさらしの操縦席である。眺めと言う意味ではこれ以上ない特等席だった。

「楽しい、飛ぶのって」

 後席の少女、小野(おの)朱音(あかね)は眼を輝かせていた。

「だろう」

 洋一は大きく頷いた。

「別にあんたが偉い訳じゃないじゃん」

 しかし少女は鼻で笑う。

「洋一は訓練で飛んでいるだけ。飛行計画を立てたのは教官だし、二式だって洋一の持ち物じゃないし」

 尋常小学校から一緒だっただけあって朱音は洋一に対して遠慮というものが全くない。

「むしろ偉いのは私ね。初風はすこぶる快調。だって私が整備したのだから」

 確かに機首の直列六気筒「初風」三型の奏でる音は力強く、心地よかった。練習機の整備を海軍技術練習生が担当するのは、教官の指導があるといえども色々不安はあった。しかし朱音の整備するこの発動機が一番の当たりだと洋一は確信していた。

「そうかな、普通だと思うけど」

 本人に云うとつけあがるから感謝は心の中だけにしておく。

「練習生対抗飛競争で勝てたのは誰のおかげ?」

「もちろん乗り手のおかげだね。まあ馬が脚を引っ張らなかったとは思いますが」

「今度洋一が単独飛行するとき教えてくれないかしら。脚を引っ張るようにしておいてあげるから」

 二人はくだらない軽口を叩きあう。こうしていると昔と全く変わらないのが不思議だった。下駄屋の次男と貸本屋の娘がこうして海軍の飛行機に乗っているのである。運命とは判らないものだった。

「はいはい、そろそろ見えてくるんじゃないかな」

 適当に切り上げるべく洋一は海面に視線を転じる。しばらく首を左右に振って、やがて止めた。

「ほらあれだ」

 洋一が指差す先を朱音も見て、ようやくそれを捉えた。凪いだ海面に、わずかに白線が曳かれている。そしてその先に、何やら海ではない何かがあった。

「空母翔鸞(しょうらん)だ。でっかいなぁ。さすが三万二千トン」

 初めて見る洋一は、遠くからでも判るその偉容に感嘆していた。真新しい木甲板を輝かせ、二隻の駆逐艦を両脇に従えるその姿はまさに海の女王。しかし同じものを見たはずの朱音は別の感想を抱いていた。

「うそ、あんなに小さいの?」

 基準排水量二万六千トン、満載排水量三万二千トンの巨艦も、広大な洋上では木の葉よりも小さく見える。 

「何、本気であそこに降りるの? 無理でしょ」

 朱音の声が判りやすいほどおびえている。しかし先頭の教官機は容赦なく翼を傾けた。

「さあ着艦だ。震えてると落ちるよ」

 得意げに笑うと洋一は操縦桿を倒して旋回に入る。

「俺たちが普段使っている若竹丸より断然でかくて速いんだ。楽勝だよ」

 搭乗員育成のために洋一たちが使用している若竹丸は、旧式の五千トン級軽巡洋艦を改装して無理矢理百七十mの飛行甲板を張っている。速度だって二十五ノットしか出ない。あれに鍛えられたなら、二百六十mの甲板が三十四ノットで走ってくれる翔鸞は天国のようだった。ここはかっこいいところを見せてやろう。 

 十二機の二式中等練習機が旋回しながら一列になり降下する。艦の直上三百mを通過。艦橋には着艦宜しの信号旗がなびいている。艦の後方で大きく輪になって旋回しながら、教官機が身を乗り出して大きく手で指示を出してきた。斜め下に滑らせて手の甲をすくい上げる仕草。着艦しろという合図だった。まず一機が輪から離れて艦に向かう。

「松岡だな。あいつ最後の旋回でバンクしすぎてふらつくんだよな。ほらやっぱり」

 案の定、最終進入で曲がりすぎてふらふらと蛇行する。着艦の瞬間も右に傾いていて実に危なっかしかった。

「若竹丸だったらはみ出てたな」

 それに続く機体も、訓練生らしい周囲に不安を与える着艦ばかりだった。そんな新米たちでも着艦させる二式の優秀さを朱音は感じ取った。

「で、さっきから偉そうにしている洋一はどうなの」

「任せろって」

 順番が来た洋次は大きく機体を傾けて降下に向かう。

「普通に、普通に降りるのよ普通に。かっこつけようとか余計なことしないの!」

 朱音の声も自然に上ずる。尋常小学校以来、調子に乗ってはやらかす幼なじみを何度か見てきた。普段だったら笑い物にして済ませてきたが、今は後ろに自分が乗っているのである。

「はいはい、まあ見てろって。生卵だって割れない着艦見せてやるよ」

 機が最終進入に入った。正面に翔鸞の飛行甲板が見える。木が敷き詰められて、艦尾は赤と白で派手に塗られている。この位置から見るとさすがに巨艦であることが判る。

「艦の左側に旗と灯りが見えるだろ。あれで進入角度が判るんだ。今はちょっと高いかな」

 洋一は推力をわずかに絞る。

「ねえ、なんか黄色い旗振ってるんだけど、あれって準備まだって意味じゃなかった?」

「あ、フック出してなかった」

 着艦フックを降ろすために洋一はハンドルを回す。そのおかげで針路がふらふら揺れる。まったく、そこまでは割と良かったのにやっぱり調子に乗るとこれだ。朱音はあきれた眼で洋一の後頭部を見た。

 不安はあったが黄色い旗は引っ込んで緑の旗が揚げられる。洋一は操縦席の横から首を突き出して甲板を見た。

 進路よし、角度よし、速度よし。操縦桿を握る手に力が入る。指を小指から順番に開いていつものおまじない。 

 艦尾を越えた。ほんの少しだけ機首を持ち上げて三点姿勢から更に後ろを突き出す。速度が落ちると同時にフックが甲板に張られた鉄縄(ワイヤー)を引っ掛けた。 

 首根っこを掴まれたように減速する。弾みで身体が前に放り出されそうになるが、操縦桿はしっかりと保持して機首は落とさない。主脚が設置すると今度は更に下から突き上げがくるが、それでも姿勢を崩してはいけない。

 五十ⅿも走らずに、強制的に練習機は停止した。何度やっても着艦は緊張する。よくまあ木で出来た機体がバラバラにならないものだ。洋一はいつも感心してしまう。

「どうだ、うまいもんだろ」

 いろいろ細かいところに目を瞑れば中々会心の着艦だった。自慢すべく振り返ろうとする前に、風のように甲板作業員が乗り込んできた。 

「はいエンジン切って、そのままそのまま、余計なことしないで」 

 そしてあれよあれよという間にフックを外して翼やら胴体やらに取り付いて手早く押して艦前部のエレベーターに載せてしまった。流石実戦部隊の甲板作業員、後ろで目を回している技術練習生とは訳が違う。 

 警笛が鳴ると同時にエレベーターが下がり始める。空が狭まり薄暗い艦内へと引き込まれる。目が慣れるのに少し時間がかかったが、そこに広がる世界に、洋一はまた感嘆の声を上げた。 

「うわ、広いなぁ」

 皇国海軍が誇る翔鸞の格納甲板も、その巨艦らしい広さを誇っていた。最大幅二十九mは翼を畳めば三列で並べられる。しかもそれが二五〇mの長さを持っている。奥がよく見えないだけに無限にも感じられた。

「若竹丸って発着艦訓練専門だからさ、格納庫なんてほんと最低限で六機しか積めないんだ。これが本当の空母の格納庫なんだなぁ」       

これまで訓練ばかりであったが、これが本当の海軍なのか。洋一にとって全てが新鮮であった。

「機体は母艦整備員に預けて、飛行練習生及び技術練習生は飛行甲板へ集合」

 教官の指示により練習生たちは狭い階段を登る。皆初めて見る母艦について興奮した口ぶりでささやきあった。奥に七式艦攻が有ったとか九式艦爆も有ったとか、こっそり触ってきたとか。

 艦橋の前に練習生たちが並ぶ。やがて彼らの前に二種軍装を着た四十過ぎの人物が現れる。

「翔鸞艦長殿に、敬礼!」

 教官の声とともに、些かぎこちない仕草で練習生達が敬礼した。

「飛行練習生第一一分隊及び技術練習生第三一分隊、遠征発着艦訓練のため乗艦の許可を願います」

「願います」

 練習生達の声を、艦長は鷹揚に頷いて聞いた。

「乗艦を許可する」

 艦長は厳しい顔をわずかに崩す。 

「さて練習生諸君。これが翔鸞だ。本艦も去年就役したばかりのひよっ子で、一航戦の金剛たちに追いつかんと猛訓練の真っ最中である。そんな中で更に若い諸君達を迎えられて、我々も嬉しい。遠征発着訓練となると練習過程も大分進んだということだな。おおいに励んでほしい」

 遠征発着訓練は、長距離洋上飛行と実際の空母での発着艦訓練が目的で行われるが、実際のところは練習生達に実戦部隊を訪問させ、士気を高める要素の方が強い。

「そういえば君達が女性技術兵受け入れを開始した最初の代だったな」

 艦長の視線が朱音に向けられる。ここには十一人の技術練習生がいるが、そのうち二名が女性技官であった。 

「これに関しては、まあ海軍も変わっていく最中である。慣れないことも多いが、共に手を取り合って頑張っていこうではないか」

 昨今の婦人解放運動のうねりは大きく、海軍も無視を決めこめなくなってきた。とはいえ実際に行った場合の問題はこれから噴出してくるであろうことは想像に固くない。現場を預かる立場としては頭の痛いところではあろう。   

「さて諸君らも聞き及んでいようが、海の向こう欧州では、ブランドル帝国とノルマン共和国の戦争は激しさを増すばかりである。我が豊秋津皇国も、いつ巻き込まれるか判らない、風雲急を告げる時代である。琉球戦争以来、あるいはクロムウェル戦争以来の国難が我らの前に待ち構えているやもしれない。そうなった時中心となるのが諸君達若い世代である」

 練習生たちにも流石に緊張の表情が浮かぶ。先の欧州大戦では皇国は中立を維持はしたが、それでも義勇軍という名目で表向きは軍籍を抜いて派兵していた。遣欧義勇軍滋野航空隊の活躍は伝説となって貸本小説の定番となっていた。自分たちが戦争に巻き込まれる恐怖と、伝説となることへの期待。整理のつかない感情が若者達の中ではうねっていた。 

「だが心配しないでほしい。徒手空拳で戦場に放り出すような無謀なことは我が海軍は決してしない」

 頭の固い陸式とは違う。わざとらしく声をひそめて艦長は場を和ませる。 

「この翔鸞もそうだ。巡洋戦艦改装の金剛級で得られた知見を元に、空母として設計、建造されたこの翔鸞は、海軍の明日を担う期待の新型艦だ」

 洋一はふと気がついた。艦長がさり気なく懐中時計に手を伸ばしている。何やら時間を気にしているようだが。 

「諸君達も後半年もすれば練習過程を卒業し、実戦部隊へ配属される。もしかしたら本艦の搭乗員に、あるいは整備員となるかもしれない。実に楽しみだ。その時諸君達が乗り込み、整備し、命を吹き込むのは最新型の機材だ。七式艦攻や九式艦爆、そして」

 轟音が、艦長の演説を遮った。練習生たちの目の前を旋風が駆け抜けた。白と云って良い薄灰色の、細く伸びた液冷エンジン特有の機首から細く伸びた尾翼までの流れるような胴体。羽を広げたように調和のとれた主翼。そして何より真紅の尾翼が眼に焼き付けられた。




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こうして地図を見ると、イギリスって日本よりずっと北にあったんだな。 スカンジナビア半島がすぐ近くだからそう見えるだけかな?
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