40.湖畔が和泉にするべきだった事
風の音が耳に聞こえてきて、湖畔は呆然としていた意識を取り戻した。
辺りを見渡せば、先ほどと変わらぬ縁側。背後には、静かに俯く白地がただ一人居た。
「…白地さん」
湖畔は白地の傍にそっとしゃがむと手を伸ばす。しかし、白地は俯くばかりで、その手を取ろうとする様子はなかった。
「……こちらへ」
湖畔は白地の両脇に腕を回す。そして、力なく垂れる白地を肩で支えると、部屋へと歩みだした。
縁側にて、湖畔はガラリと襖を開く。
薄暗くなった室内に、満月の光が差し込む。そうして、部屋の中央に寝そべる和泉の姿が浮かんだ。
「さあ、あの人にやられた痣とか、何か手当でも……」
「……っ、ああ。和泉……」
ふと、白地がゆっくりと顔を上げたかと思うと。震えた声をあげて、自分の足で立ちなおした。
今にも膝の関節が折れ曲がり、地に倒れそうな足取りで白地は部屋の中へ向かうと、和泉の横に泣き崩れた。
「うう、うぅ。どうすれば、いいの。私は……」
「……」
その親子の月明かりに照らされた背中を、湖畔はふすまから眺め、顔を俯かせて影を落とした。
そして、意を決して室内に入ると、白地の横に座り、その背中を優しく撫でる。
「時間がありません。瞳刻氏が帰ってくる前に、忘れている事というのを教えてください」
「……」
「白地さん」
湖畔は白地の顔を覗き込む。
「私だって和泉ちゃんを助けたい。こんなこと言いたくないけど……泡眠家の空気は、不穏です。家全体の流れが、和泉ちゃんの不幸を願っているみたいだ。嫌な予感を避ける為にも、知っている事を教えてください」
白地は、そっと立ち上がる。
「…?」
立ち上がる過程で、湖畔は妙なそぶりを白地がしたのを目にした。
片手を着物の裾に入れ、中を探る。小さく、じゃらじゃらと紙が混ざるような音がした。
「……湖畔様。私、今の事、想像してなかったんです。貴女と話が通じる事を」
「え?」
「もっと、無機質な怪物か何かかと思ってましたわ」
「うぐっ。ひ、酷いこと言いますね…。和泉ちゃんと最初に出会った時も、似たようなこと言われた気しますが…」
あははと、湖畔は困った笑みを返した。
「真面目な話です! …貴女が、忘れてなければ。貴女はここまで来ることも無かった!」
「……」
湖畔は、声を荒げる白地の顔を見る。
その目は、泳ぎ続けていた。
「……迷ってるの?」
「え?」
「言ったら、戻れないって目が言ってます。…和泉ちゃんだったら、そんな感じに言いそうな顔してますよ」
「……言わなくても、もう戻れません」
そう言うと、白地は着物を翻した。
「湖畔さん。直球に聞きます! 貴女……海から、ここに来るまで、魑魅魍魎相手に互角だったり、苦戦したりしましたか!!」
「え?」
真剣なまなざしで尋ねられた言葉に、湖畔はきょとんとした。
「そんなの…当然。私、怪異事と相対するのもこれが初めてみたいなものですし。苦労してここまで……」
「それがおかしいのです!!」
白地が何か焦ったように湖畔の両肩を掴んだ。湖畔はその動きにびくっと肩をすくめてしまう。
迷っていた白地の目は、確信と焦りを伴い、血走りだした。
「泡神様というのは、当時の泡眠家の退魔師達が勢力を上げ、才覚のあった長女を人柱にし、作り上げた神。魑魅魍魎と肩を並べるのなんて、おかしいはずなんです!!」
「な、何言ってるんです…? 時代の流れで、神様伝承に尾びれが引いただけじゃ…」
「でしたら、段々目を覚ます期間が伸びたということは!!」
「!」
否定していた湖畔は、そこで口が止まってしまった。
「寝ている、期間…?」
自分の実力が違うのかどうかは分からない。けれど、漂流物で目にする月日が、徐々に伸びているのには心当たりがあった。
「……最後の頃、見たのは……50年ぐらい間があったわ」
「いったい、1日、1週間だけで見ても、どのぐらいの人間が死んでると思う。その短い期間だけでどのぐらいの人間があの世に行くと思います? 50年も、間が空いてて、光の道の魂の処理が出来てると思います!?」
「……いえ、無理、ですよね……」
いったい、光の道に乗ってやって来る魂が、日本のどのぐらいの範囲の魂が運ばれてくるのかは分からない。けれど、毎回一夜だけ目を覚まして、魂から記憶を分離するだけで、全部の魂を救えてるとも、到底思えなかった。
「……湖畔様。貴女、衰弱しているのよ…………」
白地は、湖畔の両肩に手を置いたまま、頭を項垂れさせた…。どうしようもないことを、無言で嘆くような有様だった。
「神力が使えなくなってきて。魂の分離をする為の力を貯めるのに、段々、眠る時間が伸びて行ってるの。そして、多くの魂を気づかない内に取りこぼしていっているのですよ」
「…………」
「記憶を忘れることが無ければ、こんな……」
「……記憶が、何の関係があるんです…」
今度は、湖畔が震えた声で白地に訪ねた。
「私が弱っていて、神様として生きれなくなってきている事と、記憶の何が関係するの?」
「……もう分かってますでしょう!」
「……」
湖畔は、いつの間にか強張っていた腕を、力なく落とした。
「……なんで、海から来た私と一緒に、和泉ちゃんが来ている事に、白地さんも瞳刻氏も、何の疑問も持たないの?」
「…………」
湖畔は思い出す。瞳刻が食事の場で詫びたことを。
『捧げものを、奉納できなかったことは、誠に申し訳ありません』
「……捧げていたの?」
「…………和泉は、優れた神力を持っていました。貴女への生贄に、和泉は最適でした……」
湖畔は、全身から汗が噴き出すのを感じた。目の前の視界に映る全部が、頭の中で意味を成さなくなるほど、脳がぐちゃぐちゃにかき乱された。
「貴女は、当時の当主に、その神力が衰えたら。神になった貴女の後追いとして、神力を持つ長女を、生贄として喰らうという風習を。忘れたんです。」
和泉は、貴女が食べるべきだったんですよ。
湖畔は、その一言だけは聞きたくなかった。




