30.肩書き以上に頼りない私
「うらああぁぁあああ!!」
湖畔の絶叫を、霧子と和泉は聞いていた。
「! 水流が!」
抵抗していたものの、徐々に吸い込まれていた体が静止し、霧子は握っていた柄杓から噴き出す水流のままに、後方に離れる。
目の前では、巨大な海坊主が静止していた。
「……止まった……。湖畔お姉ちゃん、やったんだね…!」
霧子の背中で、和泉が確かめるように声を出す。
そうだ。その通りだ。霧子も自分の中で認め直す。
かつて自分を含め、陸を目指した仲間達みんなが飲み込まれたのは、立ち向かう術が無かったからだ。今、ここには泡神様を名乗る、記憶の神様、湖畔が居る。正しい鍵を選べば、決着はあっという間だったんだ。
「……ああ。湖畔、あいつがやってくれたんだ」
霧子は、うんと頷き返した。
「湖畔! やったな! こんなばかでけぇやつを、ほんとにやるじゃねえか―」
和泉は、少し下を見下ろし、海坊主の首元を見た。
そこには湖畔が居た。だが、海坊主の首元に手を掛け、動いていなかった。
「……湖畔?」
じっと静止する湖畔の顔は、海坊主の顔を見上げ、蒼白としていた。
動かない様は、どうしようもできない天敵に睨まれた、被食者の振る舞いだった。
「…!」
霧子は、柄杓をしまい、両手を背に回し、しっかりと和泉を抑えた。
「! キリねえ?」
そして、背中を後ろに傾け、海中を後ろ向きに泳ぎ、逃げ始めた。
「顔前に出すな!! あのばけもんに見られるな!!」
「えっ!?」
「…嘘でしょ……」
海坊主の首元に立つ湖畔は、動けなかった。
まさか。時間がかかるだけだ。そうと信じたい気持ちでいっぱいだった。
でも、そんな事を言ってられる場合じゃない。自分には守りたい子が居る。何もできない失敗者のふりをしている暇があるなら、正しく現実を認識する事に意識を割け。
「なんで、こいつ。身体が消えないの?」
湖畔が手を当てている、今しがた記憶を抜き取った部分も、海坊主の足側も。どこも透けて消えたりなんて、していなかった。
横手を見れば、海坊主自身の記憶と思われる、黒ずんだ液体が海中に溶けて行っている最中だ。記憶を抜き取ること自体は完全にできていた。
「そんな……じゃあ、この海坊主は……」
湖畔は、旅に出たきっかけの一つを思い出す。自分が取りこぼし、怪物に生まれ変わってしまった子達を解放する事。
思えば、多少の魑魅魍魎の知識は朧気ながらにしか、湖畔の中に無かった。
自分が取りこぼしたであろう、イクチ、霧子、サザエオニ。彼らの共通点が、魑魅魍魎全般の性質だと思った。未練があって化け物になり、記憶があるからこの世に存在をとどめ続ける。
でも、違った。自分が神様になる前、自分の家族が生きていた時代。自分は、ある一つの死んだ魂が怪物の形をかたどって蘇る、という、一つの現象に当てられた対策の一つでしかなかった。
もっと、それよりも前に、魑魅魍魎は居たんだ。取りこぼしが、身体を模倣するための、アイデア元となる原型が。
「……取りこぼしじゃ、無い…?」
霧子たち取りこぼしを、後から現れた者、後者とか呼ぶとするなら。目の前の怪物は、もっと昔から居た、先に居た者、先者だ。
記憶喪失になったところで、この世に居続ける。
怪物が、大きく口を開いた。
「オオオォオオオォオオオオオオォォオオオ!!!」
「っ!!」
湖畔も霧子も和泉も、全員が耳を覆った。
海坊主は鯨にも似たような声を大反響させる。吠えながら周囲をきょろきょろと見渡していて。自分がなんでここに居るかも分からなくて、叫んでいる様にも見えた。
だが、そんな風に叫ぶのも、ほんの少しの間だった。
吠え終えると、ゆっくりと顔を霧子と和泉の方へ向けた。
「っ!」
湖畔はハッとする。その瞳が、なんでか。襲って来た時の霧子やサザエオニのように、期待と敵意をの入り混じったものに思えた。
「本能で、和泉ちゃんを食べるべきだって思ってる…?」
そう呟いた直後、海坊主は頭から倒れ込むように動き始める。また泳ぎ始める。また和泉を喰おうと動き出す。
「ま、待て!! ここにたっぷり神力もった神様が居るんだぞ! こっちを狙いなさい! 止まれ!!」
湖畔は海坊主の顔の前に飛び出した。額の前に止まり、目の前に迫る相貌の大きな目に必死に問う。
しかし、海坊主は湖畔のその振舞いに対し。無視を通した。
動きを変えないまま、額で湖畔の全身を打ち、海中に弾く。
「ガハッ!」
意識が乱れ、視界がぼやける。湖畔は、歯を食いしばり涙をにじませた。
ずっと、名ばかりの神をやって来たのに。魂をあの世に行けるように導いて来たのに。
自分は、子供の代わりを担えるぐらいにも、力が無いのか。
本能で美味しそうな物を選び続ける海坊主に、湖畔は悔しさの嗚咽を漏らした。




