29.呪いの実物大
「…っ!」
そこには、海坊主が居た。
海面傍から見下ろす眼前に居る海坊主は、たしかにこちらを見ている。3人を見ながらゆっくりと閉じる口は、激流から逃れられなかった後に起きる末路をしっかりと確認させていた。
「ちっ……ここまで来て…」
霧子はちらりと横を見る。視線の先には、遠く果ての海面に光の切れ目。海中を飛び出して、陽の下に逃げられる出口がそこにはあった。
だがしかし、霧子の視線はあっという間に黒に埋め尽くされた。
「!?」
湖畔と和泉も怯んだ声をあげた。霧子の視線を遮るように、海坊主は海中を滑るように浮上し、顔を進路上に立ちふさがらせたのだ。
余りにも速い。その場に居た全員がそう思った。
「来るぞ! 下へ!!」
霧子が叫び、湖畔の頭を下へ押す。海坊主が、片手を伸ばし3人を捕まえようと腕を振るったのだ。
3人の背後で腕が振るわれる。大木、のイメージの2倍はあるだろう腕は、振るうだけで海水を揺らし、湖畔と霧子の体勢を怯ませた。
「うわっ!!~っ!」
バランスを立て直すと、湖畔は霧子の手を掴み、下へ潜る。
暗い底へ、底へ。潜っていく。
しかし、海底を目指していると、視界の端から、大きく見開かれた真っ黒な瞳が二つ入り込んできた。
「!!」
ゆっくりと浮上してくるそれは、今しがた海上から逃げたはずの海坊主だった。
「な、なんなんだこいつ。速くないかしら!?」
「体を動かす速度は、それほどでもない! ただ…身体ごと泳ぐ速度だけは尋常じゃないんだ、こいつは!」
これじゃあ、攻撃を避ける事はできても、逃げられない。見た目の質量と行動の重さに反し、どれだけ逃げても視界に映ってくるその巨大な人型は、不気味で仕方がなかった。
怪物というよりも、海に出た者を沈める呪いそのもののようだった。
「逃げるのも、難しそうね……」
湖畔は下唇を噛みしめる。そして、ふと自分の片手を見た。
手を見て思い出すのは、目の前の海坊主と同等か、それ以上の大きさを誇ったイクチ、群れを成したサザエオニ。
「…ここまで来たら」
「湖畔、何をする気だ」
「あいつに触れて、分離させて浄化する」
「無謀だ!」
海坊主へ向かおうとする湖畔の手を、霧子が止めた。
「あの移動の速さ、見ただろう? あいつは別格だ。戦わないで避ける方法を探すべきだぜ」
「いいえ。それこそ、逃げる間に、何度も何度も回り込まれて。最後は胃の中に納まるわ」
湖畔はそう言い首を振るう。
「立ち向かえる方法が分かっている以上。出来る事はやっておくべきよ、霧子」
「お前。……駄目だ!」
霧子は湖畔に飛び込む。そして湖畔を押し倒し、海底側に泳ぐが。今しがたいた場所を、海坊主の手が横切った。
「志の一致だけで、ほとんど話もしなかった連中が喰われただけで、相当答えたんだぞ? お前と和泉が喰われるのは、ごめんだ」
「だったら…」
そう言い、湖畔の背中に掴まっていた和泉が肩から顔を覗かせた。そして、泡を纏ったまま動き、霧子の背中に回った。
「! 和泉ちゃん!?」
「い、和泉。なにしてんだお前」
「私、キリねえと一緒に、あの怪物さんから逃げ回る。あの怪物も、私を狙ってるなら…湖畔お姉ちゃんは狙いから外れて動けて、キリねえは身の安全に徹せるでしょう?」
そう言って、和泉は湖畔に、霧子の目をそれぞれ見る。その傍らには、自分の手のひらを添え、自分もサポートすると意思を見せた。
「お、おま…お前ってやつは……はぁ、分かったよ」
そう言って、霧子が頷いた。
「和泉。霧の墓場でも思ったが。お前って歳なりの臆病さもってるようで、本当に怖い局面に立った時は、誰にも負けないぐらい、勇敢で、的確な判断を下すな」
「え…そ、そう? と、とにかくあの怪物さんを今は!」
「和泉ちゃん…」
「湖畔お姉ちゃんも、私とキリねえで頑張るから。湖畔お姉ちゃんも、頑張って!」
そう言って、和泉は霧子の背中に乗り直し、その背中に手を翳した。
湖畔は、自分の背中が軽くなったのを感じ取る。空気の泡が溜まっていた和泉ちゃんが居なくなったこともあり、久々に海水に触れた背中が、ひんやりと冷えていくのを感じ取れた。
「……分かった」
その寒気を堪え、湖畔も頷き返した。
「二人とも、どうにか耐えて! 必ず分離してくるから!」
そう声を上げると、湖畔は海坊主の傍らの海底へと潜っていった。
「うん!!」
湖畔は海坊主の横側に回り込み、海坊主へ振り返る。ずっと正面を向かうようにして回り込まれていたからか、ようやく海坊主の体が、厚みを持っている事を認識できた。
「狙いから離れられた! やっぱり…こいつも、和泉ちゃんばかり見ているのね…」
焦り、元来た方に目を向ける。
そこでは、和泉を背負った霧子が、海坊主から振り回される腕を、右往左往に避けていた。
左へ、右へと避け続けている。
「! …どうか、耐えてて…!」
湖畔は先ほどのサザエオニ達がしていたように、海坊主を中心に、その周りを旋回し始めた。
探し出すのは、海坊主の最も弱い位置。記憶を取り出すのにふさわしい急所だ。
最初は、人間で言う心臓のところにあるかと思うが、無い。次に背中、腹、足と、回り続けて探す。
「どこ、どこなの……!?」
その時、怪物の大きな咆哮が響いた。
湖畔は耳を苦しそうに抑え、顔を上げる。すると、海坊主がまたも口を開いて大きく海水を吸い始めたのが見えた。
「!! 和泉ちゃん、霧子!!」
あの攻撃を喰らったら、今度こそ避けられない。おしまいだ。
「……!」
その時、湖畔は海坊主の首筋に光る部位を見つけた。湖畔はハッとする。その光は、イクチを初めとしたそれまでの怪物達が放っていたものと同じ光だった。
「みっつけた!!」
その声と同時に、湖畔は海坊主の首目掛けて跳び込んだ。
視界の傍ら、背中に手を押し当てられ、力強く柄杓を振るう霧子の姿が見える。柄杓の水流で吸い込みを抑え込もうとしているが、それ以上に吸引力が強い。徐々にバランスを崩して言っていた。
「!! 食べるなぁっ!!」
湖畔はそう叫び、海坊主の首元に手を押し当てた。
一瞬、海坊主の体が鈍く揺れた。湖畔の手が光の中に入り込み、その中の何かを掴み取った。
「分離しろ、記憶…! 浄化せよ、海坊主……!」
湖畔は、肩まで光の中に押し込み、その中にあるだろう。記憶の液体を探した。
「……っ! これだ!!」
手の先に、粘性を持つものを見つけ、湖畔は引き抜いた。
「…!? なに、これ!」
引き抜かれた先にあったのは、どろどろの液体だった。
たしかに鈍く虹色に光っているのだが、その液体の膜には、記憶が見えない。黒ずんだ渦巻きのようなものが無数に存在する。そこに、景色は見えなかった。
「な、なにこれ。記憶である事に、間違いはない」
これは、どういう意味だろうか。湖畔には分からなかった。怪物として長すぎた結果、人間だった頃の思い出も濁り、見えなくなったのだろうか。
そう思案しているうちに、海坊主がまた咆哮を始めた。顔を上げ、湖畔はハッと気が付く。そろそろ、海坊主が動き出す。そうなれば、二人は……。
「くっ…! とにかく! 浄化されて!!」
湖畔は急ぎ、手に掴んだ黒ずんだ記憶の液体を、海中に振りまいた。




