8
瑠璃が王子先生と強引な約束をした、その少し前。
紬は幾島先生のまえで、一方的に緊張している。
「あの」
短い言葉が重なる。
「……先にどうぞ、先生」
「いや……紬ちゃんこそ」
「私は、なに言おうとしたか忘れちゃいました」
それきり、会話が止まる。
外を行き交う人のざわめきが聞こえる。急に店内の照明の暗さが気になって、紬は明かりを全部付けた。
「すっかりごちそうになっちゃったね。紬ちゃんが料理上手でびっくりしたよ」
隆光の視線を感じて、紬は厨房で背を向ける。目的もなく冷蔵庫をあけて、使う当てのない豆腐を出し、パックを開ける。
どきどきする。
急に、自分が『月子』だと、ばれていないだろうかと気になった。
そもそも眼鏡と髪型でなぜ、誤魔化せると思ったのか。
目の前の豆腐の青い容器から、水分がぷっくり盛り上がって、流れていく。怖くて顔をあげられない。
「紬ちゃん、月子さんのことなんだけどさ」
隆光の気遣うようなこえが、カウンターからかけられる。紬はやっぱり顔を上げられない。『どうして、嘘をついたの?』と尋ねられたら。
だが、続いた言葉は違うものだった。
「彼女、何か悩んでいるのかな」
紬はようやく顔をあげた。カウンターに座っている隆光は、やさしい笑みを浮かべている。笑顔に助けられて、紬は口をひらく。
「実は、私も、彼女が心配で。だから、あの」
「さっきの“あの”、に続くんだよね?」
隆光は紬の話を先導する。そうだ、月子には誰かの助けが必要なのだ。それは、こわいからだ。自分一人ではとうてい解決できるなんて思えないからだ。
「月子さんは、私の親戚のひとで。このごろ、とても色々なことで悩んでて、ほんとうは、自分で解決したくて、でもやっぱり怖くて……!」
一度話し出すと止まらない。言葉はどんどん口から出て来ようとしているのに、喉の辺りでつかえて、まとまってくれそうもなかった。
「紬ちゃん、落ち着いて。俺は力になるつもりだよ、そう約束したんだ。月子さんに」
だから、と隆光は言って、紬をまっすぐに見る。
「だから直接彼女に聞くよ。だって、紬ちゃんがそんなに心配しているようなことだろ? だったら、きっと人づてに聞いちゃいけないことだ」
紬の目が潤んだことに、隆光は気付いただろうか。紬は野菜の入った籠から、急いで玉ねぎをとり出して、まな板にのせた。出番の無かった豆腐は、小皿にうつされる。
視界がぼやけるのは、玉ねぎのせいだ。リズミカルな音とともに、使う当てのないみじん切りが量産されていく。
「先生、ありがとう。良く知らない月子のために。大人のひとって、もっとみんな怖いと思ってた」
「そりゃ、大人にも色々いるよ。俺がいい人かどうかは、紬ちゃんや月子さんが判断してくれたらいい」
隆光は紬の手元を見ている。
「実は、俺も彼女に会いたいんだ。はじめて会ったときに、助けてやれたらって思ったんだ」
ぽろりとひとつぶ、紬の目から涙が頬をつたう。隆光はあわてて立ち上がり、ズボンのポケットからハンカチを出した。
ちょっと皺の付いたハンカチを素直に受け取り、紬は眼鏡の奥の目をおさえる。
「また、借りてしまい……」
と、つい言ってしまって言葉をとめた。だが、隆光は気に留めなかったようだ。
「そんなに心配?」
「違います。たまねぎが、目に染みて」
紬がごまかす。自分のことではないのに、泣いたら大げさだ。
「それにしても、紬ちゃんは包丁つかうの上手だね。俺の後輩も、男のくせにすごいうまいんだ。すまし顔でにんじんで花とか作るのがおかしくてさ。バラとかも作っちゃうんだ、これが」
涙声を気遣うように隆光が話題を変えたとき、からからと戸が開く音がした。
「遅くなっちゃって。紬、簡単に夕飯用意してきたから。朱鳥と食べて」
大慌てで入ってきた厨房に入ってきた風子は、紬の手元をみて話を続ける。
「玉ねぎと、豆腐? 何作るの?」
「あっ」
紬は返答に困る。涙をごまかすためとは言えない。
「ああ、冷奴か! お姉ちゃん好きだったね、玉ねぎのみじん切りとかつおぶしと、ポン酢で。いいね、お酒に合うんだよねえ。ホント紬はお姉ちゃんに良く似てるわ、そうしてるとほんとお姉ちゃんみたい。料理上手なとこも」
風子の口から滑らかに出てきた『お姉ちゃん』という言葉に、どきりとする。風子は「それもメニューに入れちゃおう」と腕まくりしながら、隆光に頭を下げる。
「先生、なんだかかえって忙しくさせちゃったわね。また今度、ぜひゆっくり食べに来て」
隆光は立ち上がり、風子に頭を下げた。
「おいしかったです、ごちそうさまでした」
財布をとり出す隆光を、風子と紬が慌ててとめる。
「先生、今日はいいの」
「私、簡単なごはんしか作ってない」
代金を断る風子と紬に、隆光は財布を引っ込めて、
「すみません」
と申し訳なさそうに言う。風子が忙しそうに動き回りながら、手をひらひらと振った。
紬は手早く割烹着を脱いで、リュックを背負う。
「風子さん、じゃあ私帰るね」
「あ、紬!」
紬が風子のほうを向く。風子の表情が硬い。
「どうかした? 風子さん」
「ひとりで帰るの? 大丈夫なの?」
このくらいの時間に帰ることは今日がはじめてではないのに、風子は心配そうに眉を寄せる。紬はその心配が嬉しい。
「バスで帰るし、まだそんな遅い時間じゃないから大丈夫」
「帰ったらちゃんと戸締りしてね、私遅いから」
毎日同じことなのに、なんで急にそんなこと言うんだろう。小さな疑問が頭を掠めたが、紬にはやりたいことがあった。だから素直に返事をする。
「うん、わかった」
紬はいそいで奥の休憩室に入る。雑然とした小部屋で、紬は手早く着替える。早く帰らないと……と思うが、幾島先生とせっかく会ったのだ。いますぐにでも、先生にすべてを話してしまいたい。
眼鏡をはずし、髪を梳き、あの黒いワンピースを着る。裏口から外へ出て、何気ない風に先生に話しかけるのだ。時間がない。はやく、はやく。紬はワンピースのファスナーを急いで引き上げる。
「あ」
そこまで支度してから、紬は足元が不似合いな学校指定の靴だと気付いた。
これでは、月子になれない。
紬は肩を落として、のろのろとまた制服に着替え出す。スカートを手に取ったとき、かちゃんと音がした。
「最悪」
スニーカーのつま先に、眼鏡が落ちている。古くて重いレンズには、うすい筋がついていた。
***
商店街は夕飯間際の賑わいに満ちている。こんなに遅くなるつもりはなかったのに……。風子の店の前にも何人かのサラリーマンが居て、紬はびくりと後ずさる。結わえていない髪が、顔にまとわりつく。
「ここの店員さん?……じゃあないか。制服だもんね。その眼鏡、スジはいってない? あんまり似合ってないよ」
「大人っぽいね、君。制服じゃなければ、一緒に飲もうって誘っちゃうのにな」
からかい混じりサラリーマンに、紬は首を振って背を向ける。後ろで「なんだよ……」と声だけが追ってきたが、振り返らない。
スーツを着た人が苦手になった。
足早に人波をぬいながら、紬の心はあの夜へと飛んでいる。
あのとき、幾島先生とはじめてあった夜。
母の服を着て行ったさきで、くたびれたスーツを着た腕が、紬の腕をつよくつかんだのだ。なんとか逃げても、あのひとは言った。
『おまえをとりまく事実は変わらない、そこを良く考えろ。こんな夜は……いや、こんなことは何度でもあるぞ』と。
ひくい声が、耳もとでよみがえる。
そうだ事実は変わらない。けれどその事実が本当とは限らない。自分の身にふりかかっていることが、あまりにも非現実的すぎるのだ。
紬は走る。何かから逃げるように。
商店街の街灯が明るく感じる。陽がおちて、夜がくる。
バスはあとどれくらいでくるだろうか? 暗くなりきる前に家に帰りたい。バス停に出来た列に並んで、紬は急いた気持ちのまま髪をふたつにざっと結わく。
「ねえ」
急に肩をつかまれた。紬は悲鳴をあげる。周りの買い物客が立ち止まる。
「俺だよ、幾島だよ。紬ちゃん、どうした」
しゃがみこみそうになる紬の肩を優しく支える声は、後ろから降ってくる。
「ごめんなさい、先生。私、ちょっとびっくりして」
走って乱れた息を整えながら、紬はようやくそれだけ言った。隆光に支えられた肩から、緊張が少しずつ溶けていくのが分かる。
ああ、あの時もそうだった。はじめて会ったときも、こうやって支えてくれた。すごく年上の、男のひとなんだと実感する。
「風子さんに言ったんだけど、俺が送るよ。車で来てるから。ご飯のお礼に」
まだ気持ちがみだれて落ち着かない紬に、隆光は重ねて言った。
「風子さん、紬ちゃんを心配していたよ」
紬はこくこくと、首を縦に振るのが精いっぱいだった。隆光の手が軽く紬の肩をたたいて離れていく。
悲鳴を聞きつけて、商店街の真ん中にある交番から警察官がやってきた。仕事熱心な警察官に、隆光が事情を説明している。
「つむ、なんかあった?」
人ごみから、瑠璃が出てきて紬の手を握る。
「瑠璃ちゃん」
「ちょうどつむの所に行くとこだったの。さっき王子先生にあってね! それより、幾島先生になんかされた? 先生、つむが可愛いからってー」
状況をすぐに理解した瑠璃が、隆光をからかう。警察官の顔が固まると、隆光が慌てた。
「瑠璃ちゃん、そういうのシャレにならないから! やめてくれよ!」
そのすがたが、ちょっと子どもっぽくて、紬は安心する。年上でも、友達のような、先輩のような、不思議な感じだ。
「あはは、すみません」
瑠璃はお巡りさんにきちんと説明してから、「私も送ってくださいね」と悪びれずに言った。