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「お忙しいところすみません」
真島家の玄関先で、隆光は本日5回目にして最後の挨拶を口にする。着なれないスーツを着て、隆光は頭を下げた。
「朱鳥君の担任の、幾島です。今日はお時間をとっていただいてありがとうございます」
「朱鳥の母です、いつも朱鳥がお世話になって……。ほら朱鳥も挨拶しなさい」
出迎えてくれた朱鳥の母は、後ろに隠れていた朱鳥を引っ張り出して横に並ばせる。
「なんで来るんだよ」
ぼそっと言う朱鳥に「そりゃあ仕事だしなあ」と隆光が苦笑する。
「前の学校では、家庭訪問なんてなかった」
「確かに、学校によってあったりなかったりだよな、でも俺は好きだな。みんなのいつもの感じが見られて」
「……俺は迷惑なんだけど」
隆光と朱鳥のやりとりに、朱鳥の母が割って入る。
「朱鳥、いい加減にしな」
朱鳥の母は、少し声を低くして不貞腐れた息子の後頭部を軽く押す。それからすぐによそ行きの声を出した。
「本当にひねくれた子で。先生にもご迷惑かけているでしょう?」
眉を寄せつつも笑う朱鳥の母の瞳には、愛情が見て取れる。隆光は少し安心した。朱鳥の人を寄せ付けたがらない雰囲気は、どうやら親子関係が原因ではないようだ。
「いいえ。転校してまだ日が浅い分、何かと気も使うでしょう」
難しく考えることもないか。この年頃にしては少々早いが、反抗期なのかもしれない。
「朱鳥君のご家庭が明るそうで、僕も安心しました。お母さんのおかげかな」
朱鳥に語りかけるが、朱鳥はついとそっぽを向く。
「立ち話もなんですから、どうぞおあがりください」
ではお邪魔いたしますと言いながら、隆光はすすめられたスリッパを履いた。真新しいスリッパには、すました猫の刺繍がある。嫌でも思い出すのは、月子のこと。見知らぬ男からメモを渡され、せっかくアパートを訪ねてくれたのに、パーカーを返してもらっただけ……もう、会えないかもしれないと思うと、不意に心が沈みかける。もう、彼女とのつながりは何も残っていない。
苗字も一緒だし、紬の知り合いらしいから、もしかしたら朱鳥の母も知っているだろうか。案内された居間で出されたお茶に口をつけ、隆光は首を振る。いやいや勤務中に何考えてんだ。
「お茶熱かったですか? ごめんなさい」
向かいに座った朱鳥の母が、心配そうに言う。
「ああ、いえ、おいしいです。さすがお料理をお仕事にする人は、お茶を入れるのもうまいんすね」
「あら、そんなこと言われたら嬉しくなっちゃうわ」
昔のホームドラマに出てきそうな居間は、居心地がいい。かちこちと鳴る壁の時計は振り子時計で、この部屋にしっくりと馴染んでいる。
「古い家でしょう? 私の姉が、姪と住んでいた家なの。私は東京に住んでいたんだけれど、色々あって……慌ただしく田舎に戻ってきちゃって」
朱鳥の母は、隣に座って茶菓子を食べる息子を見る。ここに居たくないことを全身で表している息子に、朱鳥の母が声をかける。
「朱鳥、あんた学校楽しい?」
「別に」
会話にならない。朱鳥はもう一つ茶菓子を口に入れると、ふらっと居間から出て行ってしまう。取り敢えず顔を出したからいいだろう、ということだろう。
「どこ行くの?」
「友達と約束してんだ」
「もう……こんな日に。はやめに帰んなさいよ」
朱鳥の母は息をついたが、特に追わずに隆光に向き直った。玄関を開ける音がする。
「先生もよかったら、お菓子をどうぞ」
「いや……実は、今までお邪魔したお家でたくさんお茶をいただいたので、みずっぱらで。お腹がいっぱいなんですよ」
「律儀な先生ねえ。飲まない方も多いのに」
「折角用意していただいていますから。実は風邪気味で、水分は幾らでも欲しいですね」
昨夜、例によって幸路と遅くまで飲んだのがいけなかった。酔って教育談義などするものではない。幸路の冷静な合いの手に、ついつい熱くなってしまった。
朱鳥の母は少し笑って、それから真剣な顔になる。
「先生、あの子学校でうまくやっているかしら。転校する前は、もうちょっと明るかったんですよ。それなのにこの頃、なんだか人を寄せ付けない感じで……まともに話すのは、姪くらい」
湯呑をもったまま、朱鳥の母はため息をつく。父親は居ないようだし、境遇から考えれば苦労しているはずだ。
隆光は家庭訪問の時に自分の中でルールを決めている。相手が話さない限り、家庭の事情には立ち入らない。こちらは教師として、生徒の学校での生活を伝えればいい。もちろん、相談されれば全力で力になるつもりだ。
「学業については、大丈夫です。きちんと授業内容を理解しています。運動については抜群だし、体育が好きみたいですね。走るのがとても速い。いいフォームで走るから、きっともっと速くなる。運動会のヒーローになれます。クラスの女子にも、ファンがいるようで」
子どもを褒められて喜ばない親はいない。朱鳥の母の表情も柔らかくなる。
「先生も運動とか、なさっていました? そんな感じに見えるから」
「ええ、高校と大学時代に野球を。甲子園には無縁でしたが」
「モテたでしょう?」
「いやいや、そんなことは全く」
隆光は頭を掻いた。
「俺はどうも周りが見えなくなるタイプみたいで。最近もそれで失敗して……じゃなくて!」
さすが小料理屋の女将。話を引き出すのがうまい。隆光は咳払いひとつで、話を元に戻す。
「確かに、友達と馴染めないところもありますが、そこは時間をかければきっと。僕も気をつけてみていますから」
隆光は背筋を伸ばして言った。対して朱鳥の母は肩の力を抜く。
「良い先生で安心したわ。どうぞ息子をよろしくお願いします」
朱鳥の母が頭を下げると、結わえてある髪がほつれて顔にかかる。そのせいか急に疲れて見えた。
「お母さんは、大丈夫ですか?」
つい、そんなことが口から出る。
「え? 私ですか?」
朱鳥の母がきょとんとして隆光を見返す。隆光は内心『しまった』と思う。自分から家庭に立ち入らない気でいたのに。
「お疲れのようなので」
隆光は言葉を選んで短く言った。朱鳥の母が目を細める。
「ありがとう、先生。私は大丈夫ですから。実家に帰ってきて、むしろ落ち着いたくらい」
「そうですか、よかった」
それ以上話を続けないように、隆光は湯呑の底に僅かに残ったお茶を飲んだ。細かい茶葉が喉を刺激し、咳き込んでしまう。
「先生、そういえば風邪ひいてるんでしたっけ」
朱鳥の母に言われて、隆光は赤い顔をして頷いた。なんだか喉が痛い。風邪気味から本格的な風邪に移行しそうな気配だ。
「……そうだ、よかったらお店に寄ってください。まだお店は開いていないけど、姪が居ますから。ご飯とみそ汁と、漬物くらいならすぐ用意できるわ。他になにかあったかしら」
「いや、お母さんそれは」
紬ちゃんに悪いです、と言おうとするが、咳が先に出る。
「先生一人暮らしでしょう、困ったときはお互いさま」
朱鳥の母は、いいことを思いついたというようにテレビの横にあった電話の子機を取り上げる。
「それから先生、お母さんは……ちょっと私、年をとったきもちになるから、お店に来たら風子でお願いします。……あ、紬?」
隆光が電話を止める間もなく、電話の相手が出たようだ。風子がにこにこしながら話をしている。電話の相手……紬の困った顔が頭に浮かぶ。
再度遠慮するが聞き入れられず、真島家を辞したのち、隆光は商店街に向かうことになってしまった。家に帰って自炊する気にはならないから、正直ありがたい気持ちもある。
紬には一度失態を見せている。やはりどうも気恥ずかしい。何しろ相手は高校二年生、自分より随分年下だ。隆光としては、頼れて余裕ある大人でありたい相手なのだが。
「考えても仕方ない、か」
夕暮れが迫る路地でひとりつぶやき頷く。通りかかったらしい年配の男が、こちらを見ている。独り言は思ったより声が大きかったらしい。背の高いスーツ姿の男が肩を落とせば、仕事に失敗した営業マンにでも見えただろうか。
気恥ずかしくなって塀のほうを向いた隆光のうしろを、年配の男がゆっくり通り過ぎる。気のせいかずっと視線を感じた。
「こんなところで背中丸めてたら、そりゃ頼りなく見えるよな」
隆光はジャケットを脱いで、シャツの腕をまくる。そして背筋をしゃんと伸ばすと、少し離れたところに停めた車まで歩き出した。行き先の決まっている隆光はもちろん振り返ることはない。
当然、先程の年配の男が、くたびれたシャツの襟を直しながら真島家に戻ってきたことを、隆光が知るわけもない。