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 真島家は古い家だ。紬の曾祖父が建てて、一度建て増ししている。古い家は紬によってよく手入れされている。縁側があったり、階段がふたつあったりして、秘密基地のような家だと、紬は思っている。

 この家でいちばんに起きるのは紬だ。商店街の外れで小さな飲食店をやっている叔母は、深夜に帰宅して朝は寝ているので、自然と家事は紬の仕事になっていた。

 叔母である風子と、朱鳥、そして紬。急ごしらえで始まった家族の生活は、2か月目に入ってやっと形になろうとしていた。

 紬はいつものようにてきぱきと動く。顔を洗いセーラー服に着替えて、簡単な朝食を用意する。外へ出て郵便受けから朝刊を持ってくる。弁当を作らなくなっても結局早起きしているおかげで、朝をのんびりと迎えられる。お茶を飲みながら政治面を丹念に読む姿は、女子高生らしくない。

 それから仏間に向かう。仏壇のまだ新しい位牌に手を合わせていると、階段を下りる音がする。軽やかなリズムは、朱鳥の足音だ。

「おはよう、朱鳥」

 紬が声をかける。小学生にしては渋いあずき色のパジャマを着た朱鳥は、仏間には入ろうとしない。

「……おはよ」

 朱鳥は寝起きの不機嫌さを顔に出したまま、ぼそりと挨拶を返した。朱鳥はのそのそと台所に入っていく。紬はそのあとを追う。

 二人の食事は静かだ。台所に置かれた狭いテーブルで向かい合っているのに、食器の音だけがする。小さい頃、朱鳥は賑やかな子どもだった。今は滅多に笑わない。顔も随分と大人びて、背丈ももうすぐ紬に追いつきそうだ。

「紬、その眼鏡なんとかなんねえの? 古臭くて変だよ」

 不意に、朱鳥が口をひらいた。子どもから大人へ変わろうとしている声は、紬には鋭く聞こえる。

「これは……お守りがわりっていうか。古いものだけど、度が合ってるの」

 母のものだとは言わずに、紬は重い眼鏡を持ち上げた。

 朱鳥は紬の答えに不満そうだったが、さっさと茶碗を片付け始めた。もっと会話が弾んだらいいのに。例えば冗談で切り返すとか。何か話すことはないだろうか。

「似合わねえのに。コンタクトにすれば」

 紬が何か言う前に、朱鳥が口をとがらせる。空気が重い。

 と、その空気を乱すように、もう一人の家族がばたばたとやってくる。

「朱鳥、あんた! 今週家庭訪問でしょ!」

 茶色の髪を振り乱して、風子が朱鳥に詰め寄った。風子は威勢がよくていつも元気だ。暗かった台所が、いっぺんで明るくなる。紬はほっと息をついて、食器を手早く洗う。そのあいだも二人の言い合いは続く。

「な、なんで知ってるんだよ」

「商店街にあんたの同級生、何人いると思ってんのよ! 背だけはにょきにょき伸びても、中身は相変わらず単純だね、お母さんに隠し事なんて百年早いわ。学校からプリント来てるでしょ、出しなさい」

「……無くした」

 朱鳥がぼそっと言うと、すかさず風子の拳がごつんと落ちる。

「いってえな!」

「さあ言いなさい、そろそろほんとに怒るわよ」

 仁王立ちになる風子に、朱鳥はとうとう観念した。家庭訪問は今日の夕方だという。

 風子はため息をつく。その隙に朱鳥は洗面所へと逃げてしまった。

 紬は笑いだしそうになるのをこらえる。いいコンビだと思う。

 それにしても、家庭訪問。ということは、幾島先生がこの家にくるのだ。

 何となく、顔を合わせづらい。

「風子さん、私、家庭訪問のあいだだけ、店番してようか?」

 紬が言うと、風子は紬に向かって手を合わせた。

「助かる、そうしてくれる? そんなに長い時間じゃないから。店は少し遅れて開けるわ」

 開店してまだ間もない風子の店は、定食屋と小料理屋の中間の雰囲気で、それなりに繁盛している。料理ももちろん美味しいが、風子の性格もあるかもしれない。

 風子の屈託のない笑顔が、紬には痛い。親切のふりをして、自分の都合のいい選択をしている気がしてならない。

「何かやっておくことある? 片付けとか、買い物とか」

 罪悪感から出た紬の言葉に、風子は思案する。

「そうねえ……じゃあ、えんどう豆むいておいて」

「分かった。風子さんはまだ寝てて」

 紬が台所を出ていきかけると、風子の声が追いかけてくる。

「紬、いつもごめんね、頼っちゃって」

 紬は狭い廊下で足を止める。私はそんなにいい子じゃない。本当の自分をかくして、いい子を演じているだけだ。

 風子が廊下に出てくる前に、急いで洗面所に入る。下着姿の朱鳥が、慌ててパジャマを洗濯機に入れようとする。昨夜寝る前に予約ボタンを押した洗濯機は、ただいま洗濯真っ最中だ。

「あっダメ、その赤すごく色落ちするのに!」

 紬は朱鳥の手をつかんだ。それで借り物の服も駄目になったのだ。まだ結っていない髪が、朱鳥の目の前で踊る。朱鳥の顔が赤くなるが、それは持っていたパジャマの色の反射かもしれない。

「違う色のパジャマ、買おうよ」

「いいよ」

 朱鳥が紬の手を振り払った。

「俺は赤が好きなんだ。つか出てけよ、俺が先だろ?」

 朱鳥は意地になったように顔を洗う。紬はちょっと楽しくなって、横に並んで髪を梳かし、ふたつに分けると強く編む。短い時間で結われた髪は、しめ縄のように隙がなく、真っ黒に見えた。

「なんかさ、昔って感じ。大昔。……昭和かよ」

 タオルで顔を拭きながら朱鳥が言う。紬は気にしない。この姿が一番落ち着く。短くしたりしない規定通りのスカート、度の強い眼鏡、きっちり三つ編み。眼鏡をかけずに長い髪を垂らしたままの自分と、こうも変わるのかと自分でも思う。この姿なら、誰も自分を気に留めない。同年代の子には時々笑われるけれど、街に溶け込んでしまえたら、それでいいのだ。

 朝の時間は、一日のなかで一番速く過ぎていく。

 近所の子が迎えに来ても焦らずテレビを見ている朱鳥を送り出すと、タイミングを見計らったように洗濯機が電子音で音楽を奏でる。手早く洗濯物を干していると、朱鳥のあずき色のパジャマによってもたらされた惨状を思い出して、おかしくなる。

 風子のエプロンも、借り物のパーカーも、紬のお気に入りのブラウスも。みんな薄く赤に染まったっけ。その朝は大騒ぎになった。こっそり洗って、部屋に干すはずだったパーカーは、明らかに大きく紬のものではなくて。風子は朱鳥を怒るのも忘れて、紬を随分と冷やかした。朱鳥はなぜか怒っていたが。

「ちょっと、楽しかったな……」

 叔母と、いとこと、紬。ちょっと変わった家族が、あの朝少し打ち解けた。パーカーの持ち主には、本当に申し訳ないことをしたけれど。

 この家で、3人なかよく暮らすのが紬の望みだ。急ごしらえの家族だけれど、もっと打ち解けたい。少なくとも紬はそう考えている。

「どうしたらいいんだろう」

 洗濯物が空になったかごを抱えて、紬は思案する。つけっぱなしのテレビは、さっき新聞でも読んだ難しい話題を取り扱っていた。それを見て、紬の顔も難しくなっている。

 パーカーの持ち主は、いいひとだ。変な色になってしまったパーカーを見ても、全く気にしていなかった。力になりたいと、言ってくれた。なんて暖かくて、そして照れくさい言葉。

 けれど、その言葉は『紬』に向いたのではない。そうしてしまったのは自分だ。それでよかったと思っている。

 私だと気付かないほうが。もうひとりの私として、他人事として色々と相談してみたい。

 あのひとなら、きっと月子の荒唐無稽な話を笑わない気がする。それにもし笑われても、月子は私じゃない。

 「私って、やな女」

 紬は呟いて、テレビ画面の時計表示を見て慌てて動き出した。今日は帰りに商店街に行かなくてはならないから、自転車でなくバスで登校しなくては。通勤時間と重なるバスは混んでいて、紬には苦行だ。

 紬は急いで持ち物を整える。いつものリュックのほかに、着替えを……。さすがにセーラー服では風子の店には不似合いだ。エプロンと、なにか可愛い服を。お気に入りの服は、朱鳥のおかげで色移りしてしまったし。

 ふと思いついて、母のクローゼットを開ける。地味な服の中で、紬の年齢に合うのは、唯一黒いワンピースだけだ。

「あんまりたくさん着ると、痛んじゃうかな」

 そう言いながら、ハンガーから外す。

 ワンピースにそっと顔を埋め、目を閉じた。何回か洗っても、かすかに感じる母の香り。まぶたの奥が熱くなるのを感じる。

 母が死んで三か月、風子たちと暮らして二か月。母との思い出に浸るのは、ひとりのときだけと決めている。


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