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 五月に鍋は少々季節外れだ。日曜の今日は暑い日だったので、とくに。夕方でもTシャツ一枚でちょうど良い気温だ。

 夕飯は今季最後の鍋にするつもりで、具を奮発した。海老に豚肉、鶏肉、ウインナーも入っている。

 壁の時計はただいま4時。夕飯には少し早すぎたが、腹が減った。

 野菜より肉類が多い鍋だ。どうしても豆腐を入れたいと、御堂(みどう)幸路(ゆきみち)が買いに行っている。こだわりの強い性格だから、多分お気に入りの豆腐屋まで行ったはずだ。

 幸路とは本当に腐れ縁だ。高校のひとつ後輩で、二人とも教師を選び、勤務先も同じときた。彼は実家住まいだが、鍋やカレーが食べたいときは付き合ってくれる。おかげで一人暮らしだと余りがちなメニューを、飽きる前に食べ終えることができる。ありがたい友人である。

 アパートの狭い台所で、土鍋がしゅんしゅんと湯気を放っている。隆光は熱くなりはじめた蓋を少しずらし、火加減を調節する。それからぼんやりと湯気を見つめて、急に座り込んだ。

「何やってんだ、俺は」

 ひとりごとついでに頭を抱えてみる。

 紬にメモを渡したのは明らかに間違いだ。紬は古く度の強そうな黒縁眼鏡をかけていて、表情が読み取りづらいが、それでも驚きから口がぽかんとあいていた。

 あれから5日経っている。ホテルで出会った彼女からは何の連絡もなく、紬と話したくとも会う機会がない。朱鳥に『紬ちゃんは迎えに来ないのか?』と聞くのも変だ。紬が迎えに来るのは母親が忙しい時だけで、いつも事前に連絡がある。毎朝提出される朱鳥の連絡帳に、彼の母親からの連絡はない。

 隆光は短い髪をかきまわした。落ち込んではいないが、高校生を相手にみっともないことをしてしまったという思いが消えない。思い出すといたたまれないのだった。

 紬から彼女にメモは渡っただろうか。気持ち悪いと捨てられてもおかしくないメモだ。連絡がないところをみると、どうもうまくいっていない気がする。

 隆光は立ち上がり、鍋を開けると菜箸で鶏肉をつまんだ。季節外れでも鍋は美味い。はふはふと息を吐きながら食べ終えると、煮詰まらないように火を止めて座卓のノートパソコンをひらく。

 教師の仕事は年中忙しいが、年度のはじめは尚更だ。もうすぐ家庭訪問がある。訪問する予定時間を、各家庭に連絡する文書を作らなくては。地区ごとに訪問時間を決めていると、自然に朱鳥のところで手が止まる。確か住所は、隆光のアパートからそう離れていない。古い家が多い地区だ。

 真島朱鳥は母子家庭で、飲食店を営む母と、いとこの紬と住んでいる。それだけで複雑な家庭事情がうかがえた。朱鳥がどことなく大人びて……悪く言えば拗ねて見えるのは、家庭に理由があるのだろうか。クラスにあまりなじめずにいる朱鳥を、なんとかしてやりたいのだが。

「あまり手出しするのも、良くないしな」

 どうやら紬には心を許しているらしいから、そのうちそんな話もできたらいいと思っていたのに……。

 叔母に叱られた大失敗の見合いで出会った、名前も知らない彼女。このもやもやとした気持ちはなんだ。恋かと思ったが、時間が経つにつれて違う気がしてくる。

 あんなふうに、逃げるように去った彼女だ。きっと何か問題を抱えているに違いない。

 だから会いたいのか? それも違う気がする。

 とにかくもう一度会えば、この気持ちの正体が分かる気がするのだが。

 隆光は考えるのを中断して、再びパソコンに向かう。キーボードを打つ音だけが、狭いアパートに響く。部屋の中にオレンジ色の陽がさしている。隆光は立ち上がり明かりをつけるついでに、テレビをつけた。4時半からのニュースは序盤で、政治の話題だった。国会に入っていく人物に、たくさんのフラッシュが焚かれる。お世辞にも髪が多めとは言えないので、ちょっとまぶしい。その人は余裕をもった笑みを記者たちに向けてから、明るい画面から姿を消した。

 その政策にかかる費用額があまりに莫大で、隆光には想像もつかない。

 画面がきりかわり、アナウンサーがコメンテーターに言う。

「それにしても、いつ休んでいるのでしょうか。大変タフな方です。そういうところも、支持率の高さに繋がっているのでしょうか」

「以前から時間を見つけてマラソンをされるそうですよ。もっとも、年齢とともにウォーキングに近いと仰ってましたが」

 ほのぼのとしていい話だが、政策のコメントとしては不適切だな、と隆光が思ったときアナウンサーもそう思ったのか、話題を軽く政治面に変え、それから次のニュースに移った。

「忙しくてもマラソンかあ」

 人気取りの作り話だったりして。なんて思うのは、最近忙しいを言い訳に運動から遠ざかっているせいだ。

「俺も、身体鍛えないとな」

 腕に力こぶを作ってみる。まだまだいける。なんて思ったとき、腹がぐうと鳴った。

「いったいどこまで豆腐買いに行ったんだよ」

 腹を撫でると、チャイムが鳴った。隆光はため息をつく。

「開いてるぞ」

 呼びかけても反応がない。もう一度チャイムが鳴ることもない。隆光はどかどかと玄関に行き、勢いよくドアを開けた。

「手がふさがるほど買い込んできたのかよ。食うからいいけど」

 ぞんざいに話しかけた相手は、幸路ではなかった。

 驚く瞳、ゆれる長い髪。あのときと同じ、白い猫が裾に居る、黒いワンピース。狭い通路にともる明かりに照らされた彼女は、一瞬の躊躇のあと踵をかえす。

「あっ、ごめん、君に言ったんじゃないんだ!」

 追う声は自然と大きくなる。ちょうど帰ってきた住人が、興味深げに彼女と隆光を見比べる。隆光は彼女を玄関に入れた。逃げ出そうとした彼女だが、大人しく隆光にしたがう。

 ドアが閉まるとすぐ、彼女は押し付けるように紙袋を差し出した。

「お借りした、パーカーです」

 桜色の唇から、小さな声が漏れる。それだけ言うと、彼女は頭を下げた。

「ごめんなさい、汚してしまいました。色物と一緒に洗っちゃって」

 隆光はパーカーを袋から取り出す。確かに、まだらに染まっている。柔軟剤のいい香りがした。

「普通はこんな失敗しないんです……って言いわけはよくないですね」

「いいんだ、安物だし」

「でも、こんな……せっかく貸してもらったのに」

 貸したと言うより、押し付けたに近い。このパーカーが無ければ、もう二度と会えなかった。着古したパーカーに感謝したいくらいだ。

「ほんとにいいんだよ、俺こそあんなメモ渡して」

 隆光が頭を掻くと、彼女が首を振る。

「メモが無くても、お返しするつもりでした」

 目を合わせずに、隆光を見上げる。目線は隆光の頬から少しずれて、耳のあたり。

 できれば、目を見てほしい。その大きな瞳で。

「何かお詫びをしないといけないと思うのですが、考えても思いつかなくて」

 なら、今度、どこかに行きませんか……と言い出しそうなのを隆光は呑み込んだ。彼女はきっと問題を抱えているはずだ。でなければ、あんなふうにホテルから逃げるように去ったりしない。……逃げた原因は、男だろうか。下世話な考えを、隆光はすぐに打ち消した。

「名前を聞いてもいいかな」

「真島……」

 そこで彼女は言い淀んだ。警戒しているのか、一度ドアのほうを振り返る。仕方ない、ここは男所帯だ。隆光は安易に部屋に入れたことを悔やむ。

 いたたまれなくなる程の沈黙のあと、不意に彼女が口を開いた。

「月子」

「つきこ、さん」

「はい」

 月子は着ているワンピースの裾を見ている。裾の猫の横に、小さな『t』の刺繍。金色の縫い糸。

 朱鳥の親類なのだろうか。けれどそれを質問する余裕は無い。彼女の足は、帰りたそうに動いている。

「月子さん、俺は君の力になりたい」

 隆光の言葉が意外だったのか、月子がはっとしたように、隆光の目を見る。月子は目が合ったことに自分で驚いて、慌てたように後ずさる。

「力に、ですか?」

 聞き返されて、ちょっとクサい台詞だったなと思うが、隆光は続ける。

「俺の見当違いでなければ、月子さん、なにかに悩んでないか」

 月子の瞳がゆれ、かすかに唇がひらいた。

「……どうしよう、私」

 漏れ出た声を、隆光は追いかける。

「あの日、まるで、追われて逃げるみたいだった。俺で良かったら……面識のない俺じゃ、信用できないかもしれないけど」

「そんなこと! 先生はいい人です」

 また先生と呼ばれた。月子は自分を知っている。いったい、どこで。

 隆光の大きな手が、月子の頬に触れる。隆光の手は温かく、月子の頬は冷たい。隆光が彼女との距離を狭める。

 そのとき、ドアが開いた。

「お邪魔だったかな」

 外から入ってくる空気が、二人を離す。ワインを小脇に抱えて、小さなビニール袋を下げた幸路が立っていた。月子も表情があまりないタイプだが、幸路はさらに表情がうすい。狭い玄関に居た二人に驚く顔もせず、二人の間を裂くようにとおって部屋に入っていく。月子が幸路を見送りながら、『王子先生』とつぶやいた。その声は、隆光には聞こえない。

「幸路、彼女を送ってくる」

 返事を聞かずに隆光は月子を押すように外に出る。心臓が高鳴っているのに今さら気づく。

「ひとりで帰れますから」

「でも」

「本当に、大丈夫です。まだ明るいし、人通りもあるから」

 固辞するのにしつこくするのも気が引けて、隆光は引き下がる。彼女の言うとおり、西の空には夕焼け色が残っている。

「よかったら、携帯の」

 隆光が言うと、月子は首を振った。

「携帯は持ってなくて」

 月子は軽く頭をさげて、アパートの階段を下りていく。彼女の姿が見えなくなる。なんだか色々と突然すぎて、隆光は何も考えられない。

 ぼんやりと部屋に戻ると、鍋の用意はすっかりととのっていた。野菜が煮えすぎて、くたっとしてしまったが、これはこれで美味しい。

 幸路はもうワインを飲んでいる。味気ないコップに注ぐと、良いワインも安っぽく見えた。

「そのパーカー、変わった色ですね」

 幸路に指摘されてはじめて、隆光は自分がパーカーを着ていたことに気づく。

「洗濯失敗したんだ。元々こんな模様って言えば着られないこともないだろ」

「いいえ、変ですよ」

「そっかな」

「幾島先生、あの子……どうするのですか?」

 煮えすぎないように卓上コンロの火を落としながら、幸路が隆光のほうを見た。

「どうするもこうするも」

 住所も知らず、連絡先も知らず、分かったのは名前だけ。月子の抱える問題を聞くことさえできなかった。

「……俺は何やってんだか」

「そのとおりですね」

 盛大に息を吐いてからもりもりと食べだす隆光を見て、幸路の眉間にしわが寄った。



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