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とある県庁所在地は、田舎にありがちな中途半端な都会である。
高いビルが立ち並ぶ駅前から少し離れると、すぐにのどかな田畑が広がる。そんな都会から田舎へのゆるやかな境界に、その女子高は建っている。いまどき珍しい公立の女子高だ。創始者は近くの寺社の尼さんだとかで、歴史は古く、校舎も古い。年月を経たコンクリートの壁は寒々しい色をしていたが、生徒たちの華やぎに彩られて、不思議とそう古く見えない。
昼休み、賑やかしい声につつまれる校舎の屋上に、ふたりの生徒がいた。ぽかぽかの陽気でよく乾いた灰色の床にぺたりと座り込んで、フェンスの向こうを熱心に見ている。一人はなんと双眼鏡まで持参していた。
「今日はひとりかなあ」
双眼鏡から目を離し、田野井瑠璃は残念そうに肩を落とす。ゆるくまとめた栗色の髪が、背で揺れる。彼女の膝にはスケッチブックがあって、開いたページは白紙だった。
となりでメロンパンにかじりつく真島紬は、瑠璃のつぶやきに気付いていない。どことなく虚ろな表情で、もぐもぐと口を動かす。口の動きに合わせて、黒縁の眼鏡が少しずれた。
瑠璃は高校になって出来た唯一の友人だ。クラスが違っても、いつもこうしてお昼をすごしている。
「よく食べるね、つむ。それ4個目でしょ」
いわれてようやく気付いたように、紬は食べるのをやめた。
「そういえばお腹いっぱいみたい?」
「疑問形で言われても。つむ、いつもお弁当なのに、珍しいね、パンなんて」
「……ちょっと疲れちゃって」
「ふうん? ま、朝寝坊も大切だよ。いつもお弁当作って、つむは偉いなあ」
瑠璃が笑いながら紬の口端についたパンくずをとってくれる。
クラスにあまりなじんでいない紬には、瑠璃と話す時間が憩いだ。
「ありがと、瑠璃ちゃん」
紬は急に恥ずかしい気持ちがして、小学校の校庭へと目を向けた。眼鏡の位置を直して、ドッジボールをやっている一画を見る。
元気な声をあげる子どもたちの中に、若い男の先生が混じっている。瑠璃の観察の対象その1だ。背の高い先生は、子どもたちと同じくらい元気に動く。
「あっ、来た来た! つむ、王子先生が来たよ!」
待ち人来たる。ドッジボールのコートに、もう一人の先生が近づいていく。
瑠璃が再び双眼鏡を構え、スケッチブックに鉛筆を走らせる。みるみるうちに、人の顔が描けていく。童話の王子様のような顔だ。
「ほんとにきれーい、かっこいいって言うより、綺麗なんだよね」
瑠璃がうっとりとつぶやく。
ここからではよく分からないが、あとから現れた先生は整った顔をしていると評判で、高校にもファンが多い。彼を見たいのは瑠璃だけではない。紬の足元のずっと下から黄色い声が湧きあがる。王子様が現れたことに気付いた女子たちが、わらわらと2つの学校を隔てるフェンスに集まりはじめた。
「いいねえいいねえ、身長差とかも完璧」
スケッチブックの王子の隣に、背の高い先生が書き足される。紙の上のふたりは、見つめ合っている。瑠璃の歯の隙間から、忍び笑いが漏れた。
「瑠璃ちゃん、魔女みたいな声出てる」
紬の言葉は、瑠璃に聞こえない。見つめ合うふたり、なぜか背中合わせのふたり。沢山のふたりが描きあがっていくが、現実の先生たちはそんなに近づいていない。
王子先生が、のっぽ先生に話しかける。のっぽ先生はジャージだが、王子先生はワイシャツにネクタイをきちっと絞めている。ドッジボールに混じるつもりはないらしい。
のっぽ先生が王子先生を引っ張る。『ま、いいからいいから』と言うのが聞こえそうな笑顔だ。王子先生は引かれるままに嫌々子どもたちの輪に入る。子どもたちと女子高生たちから歓声があがる。
紬はまたパンを口に入れ、再開したドッヂボールを見る。やたらはしゃいで見えるのっぽ先生が、実はひとりの生徒を気遣っているのが分かる。
その男の子はつまらなそうな顔をして先生の隣に立っている。その子は素直じゃなくて、本当はたのしい雰囲気に呑まれてしまいたいのに、うまくそれを顔に出せないのだ。離れていても、双眼鏡が無くても、紬には分かる。
「ああもうすぐ昼休み終わっちゃう」
高校側から午後の授業が始まる予鈴が響く。フェンスに張り付いていた女子高生たちが、校舎に向かい始めた。「あとすこしだけ」と言って、瑠璃は惜しむようにスケッチを続ける。
紬はふてくされた男の子から目が離せない。のっぽ先生が受けたボールが、男の子に放られる。男の子はそのボールを力任せに敵側に投げた。勢いのあるボールは狙いがあったわけじゃない。紬には分かる。なぜって彼はいとこだから。赤ちゃんの頃から、彼を知っている。
ボールは勢いよく女の子に当たりそうになる。王子先生がすかさず女の子を庇うが、彼はあまり運動が得意でないらしい。ボールは彼の脇腹に当たり、そのままよろける。
瑠璃が短く息をのむ。同時に鉛筆の芯が折れた。
「つむ! 今の見た?」
のっぽ先生が王子先生を支えたのは一瞬だ。おかげで王子先生は埃っぽい地面に膝をつかずに済んだ。
「……つむ?」
「あ、うん、転ばなくて良かった」
そうじゃなくてー、と瑠璃が身悶える。紬はそっとお腹を押さえた。破った菓子パンの袋が膝の上に5つ。さすがにお腹が苦しい。けれど、お腹を押さえたのは、満腹だからじゃない。
「幾島先生は誰でも助けてくれるんだね、きっと」
「え、つむ、あの二人知ってるの?」
そろそろ授業が始まる。瑠璃はいそいでスケッチブックを閉じ、紬に手を差し伸べる。
「うん、背の高い方がいとこの担任だった」
「えーそうなの? 早く教えてよー!」
瑠璃は紬を引っ張り上げ、詰め寄った。くりくりとした可愛らしい目が、紬をかるくにらむ。かわいいな、と紬は思う。
「ごめん、瑠璃ちゃんはもう片方の、王子先生が好きなのかと」
「幾島先生も好きだよ、背高いし骨格しっかりしてるしきりっとすればかっこいいのに愛嬌あるし抜けてそうだけど子どもたちにも人気あるのは見てればわかるし。ちょっと精神年齢幼そうだけどさ」
瑠璃は褒めているのかけなしているのかわからないことを早口で言ったあと、
「でも二人揃ってるのがいい」
ほほに手をあてうっとりとして、それから紬の鼻先をかるく押した。
「つむは無口すぎ、なんでも話してよ」
「ほんとごめんね。今日いとこ迎えに小学校行くけど、一緒に行く?」
「いくいく! つむちゃんありがとー!」
瑠璃と手を繋いで教室に戻る。漫画を描くのが好きで、自ら腐女子と公言しても、瑠璃のかわいらしさは揺らがない。フリルが似合いそうな女の子だ。紬とは違う。紬もそうなりたいと、ちょっとだけ思う。でもそれを口にするのは恥ずかしい。
紬は真っ黒なおさげを背にはじいた。
***
その日の放課後。紬は張り切る瑠璃に引っ張られて、紬は小学校の校門前に立つ。
小学校は集団下校の真っ最中で、黄色い帽子をかぶった沢山の小学生が、どっと二人の前を通り過ぎていく。引率の先生たちのなかに、瑠璃のお目当ての先生はいない。
「ま、そう簡単に会えないか」
「幾島先生なら、会えるよ」
二人は子どもたちの邪魔にならないように、歩道の端に寄った。
紬がいとこを迎えに来るのは、今日で何回目だろうか。子どもたちが元気に歩く様子は、いつ見ても癒される。いとこも、こうだといいのだが。
「つむのいとこって、なんて名前だっけ」
「朱色の鳥で、あすか」
「なかなかにかっこいい名前だね」
子供たちの行進が途切れたころ、幾島先生と朱鳥があらわれた。幾島先生は紬を見つけると気さくに手をあげる。紬はぺこりと頭を下げた。
「お迎えご苦労さん。今日は友達と一緒なんだね」
幾島に見下ろされて、瑠璃はやたら丁寧に頭をさげてから、にっこりと笑った。
「田野井瑠璃ですー」
いつもより可愛い声になっている。瑠璃がよそ行きの声をだすと、本当に美少女といった感じだ。
「自己紹介ありがとう。幾島隆光です」
隆光がちょっと照れて頬を掻いた。
「田野井さんも紬ちゃんもかわいいねー。いいなあ若いって……いてっ」
隆光が軽口を叩くと、朱鳥が無言で隆光の足を蹴る。
「朱鳥!」
紬がするどい声を出すと、朱鳥は素早く瑠璃の後ろに隠れてしまう。紬はあわてて頭を下げた。
「先生ごめんなさい、朱鳥が」
「大丈夫だよ、朱鳥君だって本気なわけじゃないから」
紬は朱鳥が心配でならない。一人っ子の紬にとって、朱鳥は弟のような存在だ。5年生の朱鳥は4月に東京から転校してきて、今の学校にうまく溶け込めないでいる。紬はもう一回謝ると、すたすたと歩いていく朱鳥を追う。
「気をつけて帰れよ!」
手を振っている隆光に、言わなくてはならないことがあった。紬は立ち止まる。
「朱鳥、ちょっと待って。私、幾島先生に」
紬が隆光に向かって走り出す。朱鳥はその様子を不貞腐れて見ている。瑠璃は少年の眼差しに、なにかを見つけてひとり頷く。
「朱鳥くん、ちょっとお姉さんと待っていようね」
「……うるせえ、ばばあ」
「ちょ、ばばあとは何よ」
「俺から見れば、ばばあだ」
「ふーん、じゃあ紬もばばあだね」
「紬は、ばばあじゃねえ」
二人の会話は紬まで聞こえない。紬は少し緊張しながら、校舎へと向かい始めた隆光を呼び止めた。
「何? どうかしたかな?」
「ええと、その。この前、ホテルで」
何と話せばよいのか。口下手な自分がいやになる。特に、男の人とうまく話せない。そして、セーラー服を着た自分と合わない単語を口に出したことに気付く。かっと頬が熱くなる。
紬が言いよどんでいると、隆光は腕を組んだ。
「ホテル? って……まさか」
戸惑いに曇った隆光の顔が、一気に晴れていく。なんかきらきらしているなあ、と紬が思ったとき、隆光は紬の手を取った。
「紬ちゃん、彼女知ってるの? どこの誰?」
勢いに呑まれて紬が黙っていると、王子先生がこちらにやってきて隆光に声をかける。
「幾島先生、会議の用意が」
「ああ、じゃあ」
隆光はジャージのポケットから手帳を取り出すと、急いで何か書きつけて、びりりと破いた。
「これ、彼女に渡してくれないかな。もしよかったら……」
会議の時間が迫っているのか、王子先生がじれったそうにもう一度隆光を呼ぶ。隆光はそれに軽く応えてから、真剣な目で紬を見る。
「もしよかったら、じゃなくて。できるだけ、必ず。一度でいいから、連絡を」
紙切れを紬に押し付けて、隆光は校舎へと駆けていく。
「つむ、今の人! 王子様!」
朱鳥をからかっていた瑠璃が、勢いよく近づいてくる。だがもう、お目当ての王子先生は居ない。瑠璃はあからさまに落胆した顔で校舎を見てから、紬の様子に気付く。
紬の手が微かに震えている。元々色白の手が、いつもより白くなっている。
「紬、あいつに何かされたのか!」
朱鳥が飛んできて、突っ立ったまま動かない紬のスカートを引いた。
「あ、ううん、大丈夫。ちょっとメモを預かっただけ」
「メモ? なんだよ、それ」
「ちょっと、頼まれもの。……私宛じゃないから。知り合いに」
紬は手の中の紙切れを見た。小学校の先生にしては少々汚い字だ。急いで書いたからだろうか。
右あがりの癖字で、住所と名前と、携帯電話の番号が書いてある。
「家、近いんだ……」
「大丈夫、つむ?」
「あ、うん。瑠璃ちゃん、今日は残念だったね」
「そんなことないない、幾島先生と会えたし、王子先生もチラ見できたしね!」
朱鳥ははしゃぐ瑠璃をつまらなそうに見上げてから、ランドセルを背負い直して勝手に歩き出す。
三人はなんとなく並んで歩き出した。瑠璃と朱鳥は初対面と思えないほど馴染んで、お互いをからかっている。瑠璃に来てもらってよかった、と紬は眼鏡の奥の目を細める。
校門脇の桜の樹は、花を終えて若葉を茂らせている。張り出した枝に向かって朱鳥が飛んだ。手には小枝、葉には毛虫。瑠璃が悲鳴をあげて逃げ、紬は朱鳥を叱る。紙切れは畳まれて紬のスカートのポケットに入れられた。どうしようか、と紬は思った。