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「遅いな」

 と言いながら、幾島隆光(いくしまたかみつ)が腕時計を見るのは何度目だろうか。テーブルの上のコーヒーは二杯目で、もうとっくにカラだ。やたら苦いコーヒーは、なんと一杯千円もする。もう一杯飲むのは気が引けた。

 社会人になって数年、少しは世慣れたかと思っていたところに、降って湧いたようなお見合いの席である。

 もうすぐ四時だ。お見合いと言っても、格式ばったものではない。本人同士の待ち合わせから始まることになっている。約束の時間は確か三時のはずだったが。

 ここはホテルのティールーム。行き交う人々の靴音は、よく手入れされた絨毯に吸い込まれる。会話を邪魔しない程度に流れる音楽は、やわらかで心地よい。田舎とはいえ、さすが老舗ホテル。

 隆光は立ち上がってあたりを見回す。隣のテーブルにいる女性が、隆光をちらりと見上げた。隆光は平均よりかなり背が高い。周囲を容易に見渡せる。

 待ち人は黒いワンピースを着ていると聞いている。隆光の周りでお茶を飲むのは、老夫婦と、隣の騒がしい女性のグループだけだ。黒い服を着た人物は見当たらない。

 一階にあるティールームは、ホテル自慢の中庭につながっている。隆光は中庭にも目をやった。手入れされた庭園には、新緑が沈みはじめた陽光をうけてそよいでいる。五月晴れの気持ちのいい日に似合いの夕暮れだ。ティールームから直接中庭に出ることもできるが、ワンピース一枚での散策には少々時期が早い。

「俺、帰ってもいいよな……」

 どうやら相手にすっぽかされたらしい。不思議と腹は立たず、むしろほっとした。相手はひとつ年上の、大手企業に勤めるOLという話だ。ひよっこ小学校教師では物足りないのだろう、と勝手に思う。

 どうせ親類に押し切られた見合いだ。理由はどうあれ、隆光と同じように、相手も乗り気ではないのかもしれない。

 隆光はネクタイを緩め、息をつく。出がけに一張羅のスーツを探したのだが、どうしても上着が見つからず、仕方なくパーカーを羽織ってきた。見合い相手が来なくて良かったかもしれない。初対面からこんな体たらくでは、どのみちうまくいかない気がする。今回は『ご縁がなかった』というやつだ。

「でもまあ、せっかく来たんだから」

 会計を済ませたら、ホテル自慢の中庭を一通り歩いてから帰ろう。

 とりあえず仲人に電話しようと携帯電話を見る。面倒事は早く済ませるべきだ。これだけ待てば、口うるさい親類にも十分な言い訳がたつ。

「しまった」

 液晶は真っ黒のままで、ウンともスンとも言わない。最近電池の減りが早いと思っていたが、まさか一日持たないとは。先ほどの同僚からの電話を、早く切り上げれば良かった。

 隆光はソファに身を沈める。アンティーク調のソファは、隆光の大きな図体を優しく包む。

「……とんだ休日だな」

 そうつぶやいた時だった。

 外の喧騒など別世界とばかりにゆったりと流れる空気を、まるで切るように走る黒い影があった。女性だ。しかも黒いワンピース。

 明るさを落とした照明の中で、衆目を集めながら移動する黒が、墨のようにじんわりと風景に滲んでみえた。黒いワンピースから伸びる腕が、中庭へのガラス戸を押し開ける。冷たい風が、ティールームの空気を一瞬かき乱す。

「まさかの見合い相手か?」

 慌てようが尋常じゃない。隆光は勢いよく立ち上がり、その影を追う。

 外は思ったより風が強い。吹き付ける風に、隆光は目を細める。洒落た小道を駆けるヒールの音がどんどん遠ざかる。彼女は足が速いらしい。が、隆光はもっと速い。

 振り返ることなく走る彼女の手を、隆光がつかみかけた時だった。小さな悲鳴があがって、彼女の上体が前にのめる。

「危ない!」

 二人が追いかけっこしている小道は、走るにしては狭く、うねうねと曲がっていた。転ぶのも当然だと、隆光は後ろから彼女の腰に手を回す。

「こんなところで走ったらだめだろ」

 職業柄か、ついつい諌める口調になる。だが隆光は、そのことに気付かない。気付くどころでなかったと言いかえてもいい。

 隆光の腕に抱きとめられたまま、とても近い距離で、彼女が振り返る。乱れた黒髪のあいだから、髪と同じ色の目が、隆光を見上げる。走ったせいで整わない息が、隆光の首元にかかる。手に振動がつたわる。……ふるえているのだ。

 ――何か言わなければ。だが隆光の口元は動かない。

「あの、ありがとうございます」

 彼女に胸を押されて、隆光は我に返った。慌てて離れると、彼女は髪を直し、うつむいている。木々が鳴る。せっかく整えた長い髪が、また乱れる。手に感じたふるえは、見た目からは分からなかった。

「そのままじゃ、寒いだろ」

 隆光はパーカーを脱ぎ、むき出しの肩にかけてやった。ひとつ年上の有能なOLには見えない。なんだかとても、たよりない。

 それきり、話が続かない。

 名を呼びたい。呼びかけて、話を続けたい。隆光の脳裏にうかぶのは、散らかった自分の部屋だ。たしかテーブルの上に釣書きを放置してあった。写真はついていなかった。ちょっとしたプロフィールだけだ。だが名は覚えていたはずだ……なのにどうして、浮かんでこない。

「ここは寒い、中に入りませんか」

 名を忘れた後ろめたさから、隆光の声は少し弱気だ。

 彼女はパーカーを、隆光に差し出す。

「これ、大丈夫なので」

「中に入ったら返してもらいます」

「でも」

 なおも返そうとする彼女をとめるように風がふいて、彼女の短いスカートが広がる。ずっとうつむいたきりの彼女は、つい足に目がいった隆光に気付かない。

「それ、可愛いですね」

 隆光が言う。揺れたワンピースの裾ちかく、白い猫が居た。よく見ないと分からないほどの、すました猫の……刺繍?

 彼女は猫を押さえて隠してしまった。隆光は慌てて視線をあげる。

「あ、ごめん」

「これ、私がつけたんです。やっぱり変ですよね」

「そんなことないよ、俺は服とか疎いけど……いいと思います」

 そう言うと、裾をつかんでいた手がほぐれて、少しよれた白猫が出てきた。

「ほんとですか、よかった。ほんとは自信作なんです」

 彼女が微かに笑う。笑うと雰囲気が変わった。ぐっと幼く見えた。

「中に入ろう、ほんとに風邪ひくから」

「……でも私」

彼女がパーカーをぎゅっと胸に抱えたときだった。遠くでドアが開くような音が聞こえる。一流ホテルらしからぬ、耳障りな軋んだ音だ。そのあとに、風がひときわ大きな音をたてて木々を鳴らす。揺れるまっくろな木陰は、まるでこちらに迫ってくるようだ。

 やわらぎかけた彼女の顔に緊張が走る。隆光を通り越して、ここからではよく見えないティールームの方角を見ている。

「ごめんなさい、私、帰ります」

 ぺこんと頭を下げ、彼女はまた隆光から離れていく。もちろん追うつもりだった。だが、次に彼女から発せられた言葉に、つい足を止めてしまうことになる。

「ありがとう……先生。上着、必ず返しますから」

 彼女の足音が遠ざかろうとしている。

「待っ……!」

「お客様!」

 駆けだそうとした隆光の後ろから、声が掛かる。慌てた声の持ち主は、ホテルの従業員だった。隆光はコーヒー代を払ってなかったことに気付く。

 平謝りに謝って、その場で代金を清算し終わったときには、当たり前だが彼女の気配は既に無い。

「先生、か」

 初対面の見合い相手が、いきなりそう呼ぶだろうか。

 とにかく隆光は、帰って釣書きを確認し、親類に電話しなければならない。彼女のことをもっと知りたい。隆光は携帯を取り出し、そして電源が切れていることを思い出すのだった。



***


 

 車の運転は好きだが、今はあまり運転向きの気持ちではない。駅前から商店街の近くを通って、約二十分。住宅街のアパートにはいくつか明かりが灯っていた。人通りの無い街灯の下で、隆光はくしゃみをひとつして車を降りる。

 階段をのぼりながら、思うのは見合い相手のことだ。ほとんど話していない。顔だって、暗がりではっきり見えなかった。髪の色だって、明るいところでは黒ではないのかもしれない。

 けれど、もう一度会ってみたい。もう一度会えるだろうか。

 部屋に入ってネクタイを外すと、隆光は早速今回の世話人に電話する。何度かの呼び出しのあと、相手の第一声は怒りの声だった。

「たかちゃん……あんたねえ」

「悪かったよ叔母さん、だけどまさか」

 あんな出会いかたになるなんて。そう続けようとした隆光に、叔母は被せるように言う。

「いったいどこに居たのよ。電話も電源切れてるし。ホテルのラウンジだって、私言ったわよね?」

「は? ティールームじゃなかったっけ?」

「隆光、家終わらせる気?」

「お見合いと家は関係ないだろ、父さんも自由にしたらいいって」

「そういう呑気さがいけないのよ」

 そこから叔母の説教が続く。隆光は本当の見合い相手に悪いことをしたと思いながら、心はひとところに囚われている。


 では、いったい彼女は誰なんだ?


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