第四章 三十一
私の声にルルディはかすかに反応し、どうにか右手を動かす。すると破れた袖からは彼女が気に入らない相手を攻撃する時に使う木ノ実、”ルルディ爆弾”が一斉に床を転がり始めた。
「なにっ!爆弾⁉ 」
怪人ブブキは袖からこぼれ落ちる木ノ実を爆弾と勘違いして、思わず飛び退いてしまった。いかに怪人と言えども、転がり落ちる木ノ実の上で並行を保つことは出来ない。 無様な格好で派手に転び、勢いそのままに廊下をすべりおちる。
「うおおおああっ!」
不意打ちを喰らったブブキは、叫びながら暴れ、何かをつかもうと腕をガムシャラに振り回す。そしてそれは、その身が呪われながらもなお生きようとする強い少女を地獄へと道連れにする亡者の腕でもあった。
落下していくブブキの手は、ルルディの足を捕らえ、奈落の底へ引きずり込もうとする。小さくて軽いルルディ身体が、ブブキの錨になれるはずもなく、私達の右横を滑り落ちて行く。
!
瞬間ーー
「ルルディっ!手を伸ばせ!」
「……っつ‼ 」
「ルルディ!」
私の身体は既に動くことを拒否していて、どの部分も言うことを聞いてはくれない。
しかし唯一、未だ私の味方であり続ける所が残されていた。
ルルディの懸命に伸ばされた腕、そのボロボロになった袖に噛みつき、落下を阻止しようと試みる。恐らく彼女一人ならそれは可能だった。しかしその足を掴んだままの怪人一人分の重さが顎にかかり、今度は私とハイドラを引き剥がしにかかる。
布が裂かれる感触が頭に伝わり、ルルディとブブキは軒先の風鈴の如く宙空へ浮いた状態になった。
他方、力の入らない私の左腕を、ハイドラは必死になって掴んでいた。既に下半身は破壊された廊下の端からはみ出し、背後には広大な永久迷宮の自然と眩しい光を放つ神功光明がある。
私とルルディ、ブブキの三人分の体重を、怪我を負ったハイドラ一人で支えていて、どう考えても持ちそうにない。
……
じわり……じわり……
……
掴まれていた位置が肘から手首の方へ移動して行く。
私は覚悟を決めた。
今ここでルルディを見捨てたとしても、ハイドラに動けない私を引き上げる力は残っていない。たとえ奇跡が七回重なっても、崩壊する建物から無事二人が生還できる事などあり得ない。
だがハイドラ一人ならあるいは……
自分一人ならまだしも、勝手にルルディの運命まで人にゆだねるという無責任な所業、決断を託すという卑怯な行動、どう非難されようとも私は彼に生きて欲しいと思った。
……!
「うわああああっつ⁉ 」
突然のハイドラの叫び声。
鮮血が飛び散り、道着を、顔を紅く染める。
私の闘争を幾度も助力した仕込み小手が、今度はその刃をハイドラの腕に突き立て、彼の想いを拒絶しようとする。
「はなへっ!へをはなふんら!(離せ!手を離すんだ!)」
刃は完全にハイドラの手の甲を突き抜けて、流れ出る血の中にそそり立っていた。
「ハイド……っ!」
「イヤだっ!」
子供のように首を振り、駄々を叫ぶ。
背中の傷からも、手の傷からも、絶え間なく出血している。手を貫く刄には常に体重がかかり、その痛みは尋常では無いはずだ。しかし、ハイドラはその手を離そうとせず、歯を食いしばりながらますます力を込める。
「絶対に……離れ……ないっつ!僕にはオルヒアさんが必要なんだ!」
平時なら、この言葉にどれほど喜んだ事だろうか。
私の、ハイドラの、想いも行為も全てを捨てるかの如く、大薬師本殿は崩壊する。何重にも重なった複雑な軋みは、大小織り交ぜながら連続し、大量の建材が落下し始めた。我々がぶら下がった廊下も軽く木材が裂ける音を鳴らし、緩やかに落ちて行く。
眼下の景色は精緻な箱庭を見ているようでおよそ現実感が無い。
怪人ブブキは今の状況に見切りを付け、布を広げた飛行術でどうにかしようとしている。しかし、あれも強烈な上昇気流がなければ無事に降り立つのは難しいだろう。
耳のそばを走り抜けて行く激しい風のせいで、他に何も聞こえる音がない。
私の身体は限界を越えているからか、まぶたを開けている事さえ重難で、このような状況にもかかわらず眠りを欲していた。
共に落ちながらハイドラが何かを叫んでいる。しかしその声は、意識の海に沈んで行く私には遠すぎて、もはや耳には届いていなかった。




