第二章 五
夜の庭には、ようやく虫の音が聞こえるようになり、月光がくっきりとした樹々の陰影を水面に落としている。昼間の複雑な色彩などは存在せず、明暗のみで視界の全てを表現する静寂の世界。単純だがそれ故に美しさが際立つ。
坊主よろしく座禅の真似事などして縁側に座ってみたものの、頭で考えるだけなのは性に合わない。
何かをしなければ、でも何をして良いのか分からない。
苛立つばかりで眠りにつくことを拒否している身体を、倒れるまでいじめ抜くのも悪くない。
道場へ。そう思い立った時、障子の間からの視線に気がついた。
「まだ起きていたのかフィーゴ」
数え十にしては痩せすぎの体躯。月光の中でもそれとわかる病人らしい顔色。時折、コンコンと乾いた咳をもらす弟は、障子の間から不安げな表情をのぞかせていた。
「姉上……昼間、私の事で叔父上と喧嘩していましたか?……」
内掛けだけでは寒かろうと、私は自分の羽織を痩せた身体へ掛け、隣へ座るよう促す。
「喧嘩などはしておらんよ。お前のためにこの先どうするか相談していただけだ」
「……申し訳ありません。私の身体が弱いばかりに、姉上と叔父上に苦労ばかりおかけして」
視線を落とし硬い表情のまま発する声は、庭で鳴く虫の音より小さい。
「少しでもそう思うてくれるなら、勉学に励め。お前の才器は誰もが認めるところだ。身体のことは私と叔父上が必ずなんとかしよう」
「はい……ありがとうございます。実は叔父上が蘭学塾へ行くことを勧めて下さいまして、体調をみて来週にも行こうと思います」
我が弟は脆弱な身体を抱えていても、未来に進むことを諦めていない。身体は弱いがこの子は武士の精神を確実に受け継いでいる。
「それはとても良いことだ。して、蘭学の何に興味があるのかな?」
「ハイ! 蘭学の観点から薬師の扱う薬草を考察してみたいのです。それらを書にまとめれば、皆等しくその恩恵を受けられると思うのです」
「あー……な、ナルホド。フィーゴがそう言うのなら、そうなのだろうきっと」
士別れて三日なれば刮目して相待すべし。と言うが、この子の場合は三日も要らないのかも知れない。何を言っているのか半分も分からないが……
「フィーゴは将来薬師を志すのか? それとも蘭学医か? 」
「両方です。薬草の研究をして、様々な病気を治したいと思っています」
「そうか。植物はなかなかに厄介らしいぞ、薬草を集めるのは並大抵の苦労では無いと聞く。」
「では姉上の剣に頼る事にします。姉上ならば何が相手でも、遅れをとる事などありません」
「なるほど。それならば学のない私でも、薬師殿の役に立てる……ハズ」
……
「……姉上?」
……
その時、私の中である考えが芽吹き、急速に育って行くのを感じていた。
剣を振ることしか能のない私が、フィーゴの為にしてやれる事とは……
私の身体は降り注ぐ月光に導かれるように、踏み石からふらりと庭へ降り立ち、中心へと歩み出る。
「フィーゴ、お前が知る中で、最も高名な薬師はどこにおる? 」
「最も……ですか。えと、翠塔山大薬師神宮の神代聖薬師殿が東西随一の薬師だと噂されております。その方ではないでしょうか」
「よくわかった。では私は明日、旅に出る事に決めた」
「そっそれは、かなり急な話ですね。何をしに行かれるのですか? 」
「金を稼いで、薬師殿が調合した薬を買うのではなく、直接私の腕を買っていただくのだ。そうすれば剣の修行と薬の入手とを兼ねられる。一石二鳥だ!」
翌日、私は嫌がる叔父上を何とか説得して北へと出発した。そして長旅を経て、雪と氷の大地に立つ翠塔山大薬師神宮へと至ることとなった。