第一章 八
ーーたった今、溶けた氷は無慈悲な氷点の声振に再び凍りつき、心臓の鼓動が加速していく。突如晒された緊張に体がついて行けず、呼吸のバランスがおかしくなる。
ぬるり、と現れた影は最大限の悪寒を伴い、自分の中の最悪を確信させた。
「ブブキ……様」
トレボルの勝ち誇った笑みは、みるみるうちに崩壊し、大量の汗と共に緊張の度合いを増していった。
さくりさくりと雪を踏む脚は、異常に細長く規則正しい歩調を乱さない。肩からだらりと下げられた両腕は、脚よりもさらに長く青白い指へと繋がっている。背中を丸めた姿勢でも六尺(182cmほど)を超える大男。何の毛皮を仕立てたのか細かい毛がびっしりと生えた全身黒ずくめ、腰には曲刀を下げている。幽鬼じみた白い顔にこけた頬。前髪に付けられた瞳を模した飾りによって、どこを見ているか解らず心が見えない。
「(よりによって……! )」
僕は自分の不運を呪い倒した。
闇蜘蛛ブブキ。
聖薬師ニエべ様に仕える庭師
得体の知れない怪人
底の見えない狂人
「何をしているの?そこで」
「へへへ……あ……あの、コレは……ぎゃあっ⁉ 」
無理やり卑下た笑みを浮かべていたトレボルは、軽く空気が鳴くと同時に野菜袋を落としていた。
見るとその腕の皮膚は裂き剥がれ、白面の雪に赤黒い血を撒き散らしている。
「アナタには聞いてないわ」
ヒイと情けない音を発して逃げるトレボルを目で追いながら、僕はブブキをまともに視界に入れられずにいた。
今一体何をしたんだ……どうやればあんなに遠くから攻撃が届く?
二人の間は三間(6m)ほどあったはずなのに、ブブキが軽く腕を振った様に思った途端、トレボルの腕が弾き飛んだのだ。
「掟通り印章入り大布。しかし毛長牛はあまり見ないわね。どこの店かしら?」
冷静に事務的に問いを突きつける。
「……〈豊穣の恵〉亭です。いっ今は……野菜の仕入を」
いくら落ち着かせようとしても声が震えてしまう。
「市場は反対方向よ。」
「あの……ちっ直接お得意先を回るので……」
「繁盛ね。二袋も賄賂に出すなんて。あの程度の輩なら一袋で充分あしらえるわ。なのに二袋も。そんなに早く立ち去って欲しい理由でもあるのかしら? 」
「いっいえ、けしてそんな事は……」
明らかに荷を疑っている口調。僕と会話をしながらも意識は常に荷台へと向けられている。
「何を隠しているの? 」
核心を突く一撃。
ブブキは頬が触れんばかりに顔を寄せ、耳元で囁く。
ぺちょり、と舌を鳴らす響きが鼓膜にこびり付き、吐いた息が首筋を伝って滴り落ちていく。
恐怖で硬直する僕の体を楽しむように、何故か左手で無防備の股間を触られていた。
「正直に話してくれたら、いいコトしてあげるわ」
僕はその行為の意味もわからず、羞恥に顔を火照らせ、声を漏らしそうになる。